平成30年3月 第77話

朝事*住職の法話

凡夫ぼんぶのはからい」
     
新潟県のあたりには、有名な「佐渡おけさ」という歌があります。
 その一節に「雪の新潟、吹雪でくれる 佐渡はねたかや、【灯】がみえぬ。」というところがあります。
その意味は、冬になりますと、吹雪が激しく、烈しくなると一寸先も見えなくなってしまいます。
ひとたび、吹雪がはげしくなりますと、灯台の灯すら見えなくなるそうです。
 そんなときの状況を、「佐渡はねたかや、【灯】がみえぬ」と歌っているのだそうです。
私たちも、日々色々な出来事に出会い、それらに振り回されながら、 煩悩ぼんのうさいなまれ、 自分の心は、いつも、 雨風動乱あめかぜどうらんであって、安らかな 心境しんきょうになることは少ないのではないでしょうか。
 そんなときに、「佐渡はねたかや、【灯】がみえぬ」と言いたくもなりましょう。
 灯台とうだいあかりはともっていても、吹雪が激しいから、灯が見えなくなるのですね。
 「正信偈しょうしんげ」の一説にも、次のような一説があります。

 「摂取心光常照護せっしゅしんこうじょうしょうご
 【摂取せっしゅ心光しんこうは常に 照護しょうごしたまう、】
 「已能雖破無明闇いのうすいはむみょうあん
 【すで無明むみょうあんすと いえども、】
 「貪愛瞋憎之雲霧とんないしんぞうしうんむ
 【貪愛とんない瞋憎しんぞう雲霧うんむ、】
 「常覆真実信心天じょうふしんじつしんじんてん
 【つね真実信心しんじつしんじんてんおおええり、】
 「譬如日光覆雲霧ひにょにっこうふうんむ
 【たとえば 日光にっこう雲霧うんむおおわるれども、】
 「雲霧之下明無闇うんむしげみょうむあん
 【雲霧うんむ下明したあきらかにして 無闇やみなきが ごとし】
とあります。

 意訳を下記に載せます。

摂取せっしゅのひかり あきらけく  無明むみょうやみ 晴れ去るも まどいの雲は 消えやらぞ つねに信心の  天覆てんおおう よし日の雲に 隠るとも 下に闇なき ごとくなり」【意訳】
とあります。


 これは、私の心の事実を教えて下さいます。例えなんかではありませんでした。事実そのものです。 阿弥陀仏あみだぶつ摂取せっしゅのひかりに、常に照らされ、 まもられているのに私は、 「私はここで、こんなに苦しんでいるのに、 仏様ほとけさまは、私をほっといて、どこにおられるのか!?」
と愚痴っています。

 ちょうど「佐渡おけさ」の一説のように、
「雪の新潟、吹雪でくれる 佐渡はねたかや、【灯】がみえぬ。」というような気持ちになってくるのであります。
 ここに、人間の自我じがといいますか、 「自力じりきのはからい」
凡夫ぼんぶのはからい」というものの 根深ねぶかさを感じずにはおれないのであります。

 「クヨクヨ思わず、仏様を見なさい。見るべきものは見て、聞くべきものは聞くものですよ。」という声が聞こえてきそうです。
 私の方で、自分の 雲霧うんむばかり、 ながめているものだから、仏様の心を、よう受けない。
 仏様がいくら「必ず救う」と呼んで下さって、よう聞き受けないのです。
 阿弥陀仏あみだぶつ智恵ちえ慈悲じひを、どう心得ているのでしょうか?
 いくら仏様がいくら「必ず救う」と呼んで下さっていても、心の中がモヤモヤしていたら、信心ではないでしょう。

 「私の方で、自分の 雲霧うんむばかり、 ながめている。」
とはどういうことでしょうか?
 自分の心が 平穏へいおんに保たれ、 乱れた心に おちいることがないと、自分の信心も 大丈夫だいじょうぶで確かなものだと安心してしまうことがあります。
 反対に、自分で十分に気をつけているつもりでも、 些細ささいな事に振り回されて、心が乱れに乱れて、 雨風動乱あめかぜどうらんにでもなろうものならば、 「私の信心」も消えたような気がしてきます。
 これが、「私の方で、自分の 雲霧うんむばかり、 ながめている。」
ということではないでしょうか?
 これで、「真実の信心」と言えるのでしょうか?
 私は、ある時ふと思わされました。「私は自分の心の 模様もようばかり ながめているだけじゃないか!」と。

歎異抄たんにしょう」の中に次のように説かれています。
第十一条
【意訳】
「次に、 自分の勝手なはからいから、 善と悪とについて、 善が往生の助けとなり、 悪が往生のさまたげとなると区別して考えるのは、 誓願の不可思議なはたらきを信じないで、 自分のはからいで浄土に往生しようと努め、 称える念仏をも自分の力でする行とみなしてしまうことです。
このような人は、 名号の不可思議なはたらきも信じていないのです。 」
第十六条
【意訳】
「口では本願のはたらきにおまかせいたしますと言いながら、 心の中では、 悪人を救おうという本願がどれほど不可思議なものであると言っても、 やはり善人だけをお救いになるのだろうと思うから、 本願のはたらきを疑い、 他力におまかせする心が欠けて、 辺地へんじといわれる 方便ほうべんの浄土に往生することになってしまうのです。
これこそ、 もっとも悲しくお思いになるべきことです。
信心が定まったなら、 浄土には 阿弥陀仏あみだぶつのおはからいによって 往生おうじょうさせていただくのですから、 わたしのはからいによるはずがないのです。
自分がどれほど悪くても、 かえってますます 本願ほんがんのはたらきの尊さを思わせていただくなら、 その本願のはたらきを受けておのずと、 安らかで落ちついた心もおこるでしょう。
浄土への往生については、 何ごともこざかしい考えをはさまずに、 ただほれぼれと、 阿弥陀仏あみだぶつのご恩が深く重いことをいつも思わせていただくのがよいでしょう。
そうすれば念仏も口をついて出てまいります。
これが、 「おのずとそうなる」 ということです。
自分のはからいをまじえないことを、 「おのずとそうなる」 というのです。
これはすなわち 阿弥陀仏あみだぶつ本願ほんがんのはたらきなのです。
それなのに、 おのずとそうなるということが、 この 本願ほんがんのはたらきの他にもあるかのように、 物知り顔をしていう人がいるように聞いておりますが、 実に なげかわしいことです。」
                        「歎異抄たんにしょう

私はいくら仏法を一生懸命聞いても、 「いくら仏法を聞いても、私は何も変わらない。」と自分自身で点数をつけていたのでした。
自分で点数をつけて自分で悩んでいたのでした。
私がいくら聴聞をしても、 阿弥陀仏あみだぶつの光明の中におりながら、自分が、 智恵ちえの欠けた 無明むみょうやみであることを忘れて、 「私は、これだけ一生懸命に仏法を聞いたから」と自分で自分を採点して、助かる助からないを判断して、自分で悩んでいたのでした。
阿弥陀仏あみだぶつの光明の中におりながら、一人で
「私はここで、こんなに苦しんでいるのに、 仏様ほとけさまは、私をほっといて、どこにおられるのか!」
と淋しい思いをしているのが私の姿でした。
私は、阿弥陀仏のお心を教えて頂きながら、自分で自分に点数をつけているのでした。
だからいくら聴聞しても落ち着かなかったのです。
実際には、自分の心は変わり通しではないでしょうか?

阿弥陀仏あみだぶつの光明の中におりながら、 自分に仏様を見る智恵がないものですから、 阿弥陀様あみださまに抱かれているのに、 自分が 阿弥陀様あみださまの光明の外に一人で飛び出して、 自分のこころを見て、点数をつけて、自分の思い通りに上手くいけたら喜び、ならなければ悩んでいたのでした。
そんなふうに、自分で自分に点数をつけて、自分の心模様ばかり見て、悩んでいたのでした。
自分が朝のお勤めもしっかり勤め、 毎日仏法の勉強をしている時は、 阿弥陀様あみださまとのご縁ができている、保たれている、と感じるけれども、 些細ささいな事に振り回されて、心が乱れに乱れて、 雨風動乱あめかぜどうらんになり、 仏法の勉強も、ついつい怠け、朝のお勤めもしっかり勤めていない、ということになると、 阿弥陀様あみださまが、こんな私を本当に助けて下さるだろうかと不安な気持ちになって 、阿弥陀様とのご縁も無くなってしまったと感じ、自分で自分の姿を見て、自分で自分に点数をつけていたのです。
それが、阿弥陀様あみださまが見えなくなっているということだったのですね。

怠け心が起こったら、善くない心が起こってきたら、懺悔して、仏様のお心を仰ぎ、仏様のお心に立ち返りたいものです。

ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「尊びあう」
一人一人 尊いいのち  
かけがえのない人生   
みんな 尊びあおうヨ  
いのちがいのちを   
ふみにじり    
たいせつに生きていこう  
人間が人間を   
バカにすることが    
あってはならんのですネ    
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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