平成30年2月 第76話

朝事*住職の法話

御手みての中」
     
 二月になりました。「一月はいぬ、二月は逃げる、三月は去る」という言葉がありますが、あっという間に二月になりました。  
毎日の雑事に追われて、静かに自己のことや、自己が何に生かされているのか等を味わう時間がなくなっているような気がします。
又、自分のしていること以外の事などに触れていく機会がなくなり、狭い世界で生きているのかも知れません。
 ある方は、フェイスブックで色々な自分とは全く違う方と友達になり、色々と相手の仕事のことを知っていくにつれて、興味が湧いてくると言われました。
世界が広がっていくと言われました。
自分と違うことをしている人たちとの交流がとても大切なんだと教えられました。
 又、相手の話から、自分がこれが好きだったのだと気づくこともあると言う方もおられました。
又、本屋に行ったりしても、ゆっくり時間をとって、店内をうろうろする中で、全く新しい分野の本、 自分が予想していなかった本を買うこともあると言われた方もおられました。
本屋でそういう時間をゆっくり取ることが好きなんだと言われました。
自分はこの本を買うのだと決めつけていないで、色々な本を見ながら、本を選んでいくということは、とても広いこころかなと感じました。
 そんな話を聞くと、いい意味で「寄り道」というものも大切なんだなと教えられます。
日々のことに追われて、合理的に考え過ぎて、いい意味で「無駄」というものを忘れているのかもしれません。
自分の心にゆとりや余裕というものが全くなくなっているということに気付く今日この頃です。

 親鸞聖人のお言葉に、
『「ただ念仏して 阿弥陀仏あみだぶつに救われ 往生おうじょうさせていただくのである」という 法然上人ほうねんしょうにんのお言葉をいただき、それを信じているだけで、 ほかに何かがあるわけではありません。』

『この 親鸞しんらんは一人の弟子も持っていません。
なぜなら、わたしのはからいで ほかの人に念仏させるのなら、その人は私の弟子ともいえるでしょうが、 阿弥陀仏あみだぶつのはたらきにうながされて念仏する人を、 わたしの弟子などというのは、まことに 途方とほうもないことだからです。』

『大きな字の歎異抄たんにしょう』
解説 梯實圓より抜粋

『ただこの 高僧こうそうの説をしんずべし』
正信偈しょうしんげ』【親鸞聖人】

とございます。

 親鸞聖人のお言葉から、親鸞聖人の 無私性むしせい 謙虚けんきょさを感じさせられます。
 『阿弥陀様の御 もよおしによつて念仏している人を、「私の弟子だ。」とか 「私が教えたのだ。」という姿勢は極めて 尊大そんだいな態度・姿勢なのですよ。』と注意されているのです。
 少しでも、親鸞聖人を手本として、歩ませていただきたいものだと思っています。

 先日、「名曲アルバム」というテレビ番組を観ていたら、「線路は続くよどこまでも」という曲について紹介していました。
原曲は、1863年から始まった大陸横断鉄道建設に携わったアイルランド系の工夫達によって歌われ始めたものだそうです。
線路工夫の過酷な労働を歌った民謡・労働歌の一つだと紹介していました。
 この歌は、私がボーイスカウトに入って活動していた時に、みんなでよく歌っていた歌なので、懐かしく番組を観るとともに、 「こんな意味がこの歌にはあったのかあー。」と改めて、この歌の背景にある重みを感じたのでした。
   過酷かこく環境かんきょうの中で、「歌」「歌を歌う」ということが、どれだけ人間に力や慰めというものを 与えるものか、ということを改めて感じさせられた番組でした。
ここで、「線路は続くよどこまでも」の歌詞を紹介させていただきます。   
【アメリカ民謡「線路は続くよどこまでも」は、 日本では、佐木敏さんの詞でつくられた、童謡唱歌である。
原曲の題名は、 I've Been Working on the Railroad である。】

「線路は続くよどこまでも」歌詞

せんろは つづくよ どこまでも
のをこえ やまこえ たにこえて
はるかな まちまで ぼくたちの
たのしい たびのゆめ つないでる

せんろは うたうよ いつまでも
れっしゃの ひびきを おいかけて
リズムに あわせて ぼくたちも
たのしい たびのうた うたおうよ

ランララララ ラランララララ
ラランララララララララ
ランララララ ラランララララ
ラランララララララ
ランラランララン ラン ラン
ランラランラランランラン
ランラランララン ラン ラン
ラン ラランランラン

せんろは つづくよ どこまでも
のをこえ やまこえ たにこえて
はるかな まちまで ぼくたちの
たのしい たびのゆめ つないでる

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改めて歌詞を読むと、ボーイスカウト時代に、皆で歌ったことが思い出されますね。 
「歌」は「線路は続くよどこまでも」のように、どこまでも時代を超えて息づいているのですね。
労働者は 過酷かこくな労働を、この歌を歌いながら、頑張ったのですね。

 私はこの歌のいわれを聞きながら、浄土真宗の信者の人生と重ねて考えていました。
真宗の信者の方々にも、生きている限り、人生は当然色々な苦悩があります。
そんな中で、お念仏を心の支えに、苦悩を乗り越えてきたということを考えてしまいました。 

 藤原 正遠師【石川県の真宗大谷派浄秀寺】の法話に次のような話があります。
『 「念々におそう苦悩の て場所となり給うては南無阿弥陀仏」
苦悩に責め立てられては、南無阿弥陀仏の食物に私は います。
っていよいよ一分一厘狂いのない 光明無量こうみょうむりょう寿命無量じゅみょうむりょう先人せんじんが表現してくれた世界を、いよいよ深く知らされます。
慈悲じひから申し上げますと、 私の一切の苦悩のすて場所となって下さる南無阿弥陀仏であります。
「いずこにもゆくべき道の絶えたれば口割り給う南無阿弥陀仏」
どうにもこうにも助からぬから、おまかせの南無阿弥陀仏であります。
いよいよ 罪業深重ざいごうじんじゅうにして始末がつかぬから、 うち仰ぐ南無阿弥陀仏であります。
いよいよ腹立ちが まぬゆえに、南無阿弥陀仏に私を放り込むのであります。
思案しあん絶頂ぜっちょうにいつも待って下さる南無阿弥陀仏であります。』
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 『「たのめとは助かる縁のなき身ぞと教えて救う    弥陀みだの呼び声」
私はいよいよ煩悩ぼんのうにさいなまれて助かる縁がまったくない。
自力無効じりきむこうである。
しかるにそこに 広大こうだいなる もんが開かれた。
一切いっさい摂取せっしゅしてくださる 大法だいほうもん如来にょらいの み掌が っていてくださった。
ああ、私も私の 煩悩ぼんのう往生おうじょうさせて下さったしあわせをしみじみ感ずる。』
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 『私が刑務所けいむしょに法話に行った時、六十くらいの男の人が、 話の途中から泣き出し、最後までしきりに涙をふいていました。
あとで、その人に私はたずねたのです。
「何であなたはあんなに泣いていたのですか。」と。
その人は答えました。
「先生の話を聞いているうちに、私の生まれた家のお 仏壇ぶつだんが見えてきました。
そうして私の幼い頃、おじいさん、おばあさんと 一緒いっしょに、もみじのような掌を合わせて、 み仏を拝んだ私の姿が浮かんで来たのです。
そうして今先生は、お 阿弥陀様あみださまは、 老少善悪ろうしょうぜんあくをえらばず、わが一人子として、 みんなみんなお抱き下さるお慈悲と聞かせて頂きました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
私のような大悪人もお 阿弥陀様あみださまだけはお抱き下さるとお聞きして、涙がふきこぼれました。
私はまだ二十年もここにいなければなりません。
必ずここで死に果てると思います。
しかし、先生のお話を聞いているうちに、ここは 刑務所けいむしょではなくて、お 阿弥陀様あみださまのお手の中と知らせて頂きました。
ここでどんな死に方をしても、死んで 地獄じごくに落ちても、すべてお 阿弥陀様あみださまのお手の中だと知らせて頂きました。」
囚人しゅうじんのお一人が私にこのように涙と共に語ってくれました。
その後、この主人は中風に倒れ入院され、一度退院されたが、また入院されて、亡くなられた。
葬式には、住職【息子】が行った。
私は今、この主人の臨終のようすを知らない。
しかし知る必要も私にはない。
この主人がよしんば胸 きむしって死んだとしても、それは、 大法だいほうから 摂取せっしゅに来られた 「方便法身ほうべんほっしん尊像そんぞう」でまします阿弥陀様の 掌中しょうちゅうである。
その人だけに与えられた 天上天下唯一てんじょうてんげゆいいつのお与えの死に方である。
死後、 たましいがあってもなくても、 阿弥陀様の 掌中しょうちゅうにあることは間違いないことである。                  

「来し方も又行く方も今日の日も我は知らねど 弥陀みだのみ手の中」
「さまざまの死に方あれどすべてみな 弥陀みだのいのちの電源のわざ」』

「別冊ひとりふたり『親のこころ 子のこころ』」藤原正遠 法蔵館より抜粋

ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「つながり」
いのち 恵まれて  
いま   
ここに  
生かされて    
生きている 私    
たいせつに生きていこう  
みんなの いのち を   
たいせつにしようヨ    
アカの他人は一人もいないんだ    
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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