平成30年1月 第75話

朝事*住職の法話

しんの拠り所」
     
 本年もよろしくお願い申し上げます。 
お陰様で、賑やかな正月を過ごさせていただきました。
新年にあたり「真の拠り所」という題とさせて頂きました。
この一年の間に、私の同窓生が二人亡くなりました。
二人とも急死でした。ご遺族の方々は筆舌に尽くし難いご心痛のことでしょう。
また、昨年は30過ぎの男性が急死されて、新年早々四十九日法要にお参りしてきました。
人生は何が起こるか、一寸先は分からない。
そういう事実を身をもって私に教示しておられるのではないか?
「他人の振り見て 我が振り 直せ」という言葉があります。
ある先生は言われました。「他人の振り見て 我が振りとせよ」と。

その先生は言われます。「他人の姿は、私の姿を教えてくれているのだ。」と。
「他人が私の真相を知らせてくれる。」
普通は他人の姿を見て、「あの人はあんな目に会った。自分は気をつけないといけない。」
「あの人はあんなことしている。私もあんなことしないように気をつけないといけないなあー。」と思います。
「自分はあの人とは違う。」という意識がそこにはあります。
それは「上から目線」というものなのかも知れません。
しかし、その先生はそれは違うんだ。
「他人の姿は、あなたの姿でもあるのですよ。」と言われます。
そこには、「自分はあの人とは違う。」という意識はありません。
「あの人の姿と同じことをあなたもしているのですよ。」
「あの人の姿はあなたの姿でもあるのですよ。」と教えているというのですね。
世間では、交通事故で亡くなられる方もあれば、病気で急死される方もおられます。
そこから、「それらは、自分の姿なんだよ。」という教えを聞かなければならないのでしょう。
ギリギリの私の姿を教えてくれ、「これでもか、これでもか」と私を追い詰めて下さる。
いくら家族が居ても、亡くなる時は、一人である。
家族が居ない人間と、家族が居る人間と、死ということについて、どこが違うところがあるというのでしょうか?
賑やかな正月を過ごせても、これは「一時的な幸せ」ではないか?
それでは「真の拠り所」とは一体何だろう?
今の私の信心というものは、水の上水のようなもので、何か起これば直ぐに無くなってしまうようなものではないだろうか?
そんなことを考えさせられる今日この頃でした。

玄沙師備(げんしゃ・しび。)禅師の逸話に次のような話があります。
【玄沙師備(げんしゃ・しび。八三五~九〇八)禅師は、幼い頃から釣りを好み、いつも南台江に小舟を浮かべて釣りをしていたので、 漁師たちと仲がよかった。三十歳になったとき、にわかに出家せんことを願い、竿と釣り船を捨てて、 芙蓉山の霊訓禅師のもとで落髪し、予章の開元寺の道玄律師から具足戒を受け、雪峰義存禅師に参じてその法を嗣いだ。
宋代の俗話では、父を溺死させ、その後出家したとも伝えられる。】

玄沙禅師が山から下りつつ、「あるままが無いのじゃ、一切が空じゃ」と考えながら、「まあ、人生も夢じゃ、あるままが無いんじゃ」と 思いながら坂道を下り岩石につまずき、足の爪をはがし、「ああ痛い」と叫びながら、「ない、一切空じゃといってみてもこのように痛いということになってくると、 無いとも云われぬなあ、」【痛何処よりか来る】と云って悟りを開いたという逸話があります。

この逸話から、私は、 『凡人の私としましては、悟りの世界のことは知るよしもありませんが、いくら悟りを深く追求し考えていても、実際の激痛に出会うと、「ああ痛い」しかないんだ』
そんなことを感じました。
浄土真宗の聴聞も、禅宗の悟りも、ある意味では同じようなところがあるのではないでしょうか?
そんな問題提起を自分自身にしている次第です。

「真の拠り所」ということについて、藤原 正遠師が「壊れる幸福・壊れぬ幸福」という題で次のような法話をされておられます。
少し長い文章ですが、紹介させて頂きます。共々に味わわせていただきましょう。


こわれる幸福・ こわれぬ幸福 
   
 散る桜、残る桜も散る桜
 早逝そうせいした若者を いたむ私もやがて滅びねばなりませぬ。
そうすれば、百年生きても、若者の如くやがて散る桜であります。
長寿ちょうじゅと云えども、これは こわれる幸福であります。
大金たいきんを得ても、 大金たいきんいたままに る桜であります。
愛情あいじょうの生活はまことに 結構けっこうな事でありますが、しかしこれもやがて散る桜であって、 残った一人もやがて 死滅しめつしなければなりませぬ。
墓石ぼせき夫婦ふうふの名が ほってあります。
朱書しゅしょの方は未だ残った桜なのです。 

やがて金泥こんでいられて、死の 宣告せんこくです。
地位ちい名誉めいよも同じく散る桜であります。
故人こじん贈位ぞういされ、 知事ちじの前に 最敬礼さいけいれいして一枚の紙を受け取りにゆく息子も 知事殿ちじどのもやがて消えゆく 水泡すいほうであります。
長寿ちょうじゅも、金も、愛情も、地位や名誉も こわれゆく私の頭にかざるリボンなのであります。
 では、 こわれ幸福こうふくとは何でありましょうか。
私に与えられたこの五十年百年の肉体が、私にとっては 唯一無二ゆいいつむに城郭じょうかくなのです。
この城郭じょうかく刻々こくこくこわれゆくと知らされます時、私の煩悩が騒ぎ出します。                  
こわれゆく右や左。
次々に友が死ぬ、身内のものが死ぬ。その中で、私一人が健康と 呑気のんきでおれるでしょうか。
 健康けんこうの裏には地獄があります。 刻々こくこく私の命は火葬場の焼き釜ゆきの道中をやっているのです。
どんなご馳走ごちそうをいただいても、一日 えば一日命が うばわれていくのです。
餓鬼道がきどうとは我を食う鬼が私の体の中に  巣喰すくって念々食われているというのです。

畜生道とは、親子夫婦、手を取り合って死出の山路の道中をやっているというのです。
修羅道とは、血みどろになって相手を倒して王座を勝ち得ても、あわれあわれ、勝者も敗者も、無形の霊柩車に乗せられ刻々運ばれている 事実を云うのです。
すべてこわれゆくものです。
ここに私の 煩悩ぼんのうはいよいよ荒れ狂うのです。
しかし如何いかに荒れ狂っても無駄です。
万物ばんぶつを乗せ死の闇に運ぶ運命の車は、 不壊ふえの      鉄製てつせいであって、 無言むごんのまま、 無情むじょうに黙々と運んでゆくのです。

  
 では、こわれぬ 幸福こうふくとは何でしょうか。  
それは、こわれざる世界からの呼び声であります。
南無阿弥陀仏であります。
私は、お念仏ねんぶつが私の口からあらわれくださって、私を こわれざる 無量寿むりょうじゅの世界に運んでくださいました。

 いずれにも行くべき道の絶えたれば口割り給う南無阿弥陀仏
 これは念仏したものだけの知見ちけんです。 こわれる世界から こわれぬ世界に橋渡しして下さったのが南無阿弥陀仏さまです。
この世の親はこわれる世界の親です。
南無阿弥陀仏はこわれぬ世界の親です。
その親を呼ばせてもらううちに、私は無量寿むりょうじゅの 親の子供と知らせてもらいました。
 ここに私の心は完全によみがえりました。
無量寿むりょうじゅからの生死であります。
無量寿むりょうじゅの活動が私の生死です。
生まれることを喜び、死ぬことをなげ煩悩ぼんのうがまた 無量寿むりょうじゅからのお与えの心です。 地獄じごく餓鬼がき・畜生・修羅道がみな私に、無量寿の下敷きの上に私は今幸福です。
 

こわれるものは何もありませぬ。
壊れぬ幸福の中に摂取せっしゅされて、私は生死させてもらっています。
身も南無阿弥陀仏、心も南無阿弥陀仏です。
散る桜、残る桜も散る桜。
このままが、無量寿むりょうじゅの壊れぬ活動の 荘厳しょうごんの姿と知らされました。
私は壊れぬ幸福を頂きました。
  地獄じごくぼとけに 餓鬼がきぼとけ、
畜生ちくしょうぼとけに 修羅しゅらぼとけ、
南無阿弥陀仏で皆ぼとけ  』

「別冊ひとりふたり『親のこころ 子のこころ』」藤原正遠 法蔵館より抜粋

ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「えらい」
失敗しないのが  
えらいのでは ない   
失敗しても  
再び 立ち上がる人 が    
えらいのだ    
と思いますヨ  
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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