平成29年12月 第74話

朝事*住職の法話

光と闇ひかりとやみ
     
 今年一年を振り返り、慢心【まんしん】ということについて、考え省みてみたいと思います。
慢【まん】の中に、次のようなものがあるそうです。 
「自分より優れる人を自分と同じと思う」という慢心。
「自分より優れる人を自分より劣っていると思う」という慢心。
「自分自身を頼りにする」という慢心。
「未だ得てもいないのに得たとする、そんなの分かっていると思う」という慢心。
「自分をいやしんで本心は謙虚でない」という慢心。
「自分は徳がある人間だと見せる」という慢心。
すべて、私自身に思い当たる気がすることばかりです。
「自分より優れる人を自分と同じと思う」とか「自分より優れる人を自分より劣っていると思う」とは、 自分が実際にそうなっているとしたら、とても情けない、滑稽な恥ずかしいことですね。

仏法を聴聞する上で、この「慢心」というものが、妨げになっているということが何より、考えなければならないことではないかと思うのです。
お釈迦様の説法を聞く人の中にも、 増上慢【「未だ得てもいないのに得たとする、そんなの分かっていると思う」】の聴衆もいたようで、釈尊は、それらの人たちを前にして、 しばらく説法をしないでいました。
すると、それらの増上慢の聴衆は、出て行ったそうです。
すると釈尊は、増上慢の者たちが出て行ったので説法を始められたそうです。
釈尊が説法されても「どうせ釈尊が言われることは決まっている。またいつもの話だろう。」くらいに思って慢心して聞かない聴衆がいたのですね。
私自身に省みて、どうか!そこが問題ですよね。
 ある先生が言われました。
「人間というものは、仏法の教えを聞かないものだ。
難しい話をすれば、『そんな難しい話は聞けない。』と不満を言うし、反対にやさしい話をすれば、馬鹿にして、 『そんなやさしい話は、もう分かっている。』と言い、耳をふさいでしまう。
「自分はもう分かっている。」と耳をふさぐという、これほど恐い病気はない。
こうなると、阿弥陀様のお慈悲にシャッター閉めてしまい、もう聞かなくなってしまう。
どっちにしても、聞かないのが凡夫というものだ。
また、あまり一生懸命に聞こう聞こうとして、自分に囚われるからか、その一生懸命さが、知らず知らず阿弥陀仏の願いを妨げてしまうということがあります。 
しかし、聞く気がなければ仏法聴聞も出来ないし、どちらにしても仏法を聴聞するということは難しいものです。 
いいものが悪いし、悪いものがいい、凡夫がいいとか悪いとか決めつけられないものがある。」
 しかし、自分の死というものを考えたら、いいとか悪いとか言っておれない。
仏法聴聞に一生懸命になるものではないでしょうか?
個々に色々と思いはあるだろうけれど、「先ずは仏さまの教えを聞くこと」「先ずは仏教の教えを聴聞すること」「先ずは聴聞の場に座れ」
我々の先輩の僧侶方は、我々にそう教えておられたように思います。

 蓮如上人れんにょしょうにんのお手紙を集めた
御文章ごぶんしょう」に次のような内容の手紙があります。     
「それ、秋もさり春もさりて、年月をおくること、昨日もすぎ今日もすぐ。
いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえず、しらざりき。
しかるにそのうちには、さりとも、あるいは 花鳥風月かちょうふうげつのあそびにもまじわりつらん。
また歓楽苦痛の悲喜にもあいはんべりつらんなれども、いまにそれともおもいいだすこととては、ひとつもなし。
ただいたずらにあかし、いたずらにくらして、老いのしらがとなりはてぬる身のありさまこそかなしけれ。
されども今日までは無常のはげしきかぜにもさそわれずして、わが身ありがおの ていを、つらつら案ずるに、ただゆめのごとし、まぼろしのごとし。
いまにおいては、生死出離しょうじしゅつりの一道ならでは、 ねがうべきかたとてはひとつもなく、またふたつもなし。
これによりて、ここに未来悪世のわれがごときの 衆生しゅじょうを、たやすくたすけたまう 阿弥陀如来あみだにょらい本願ほんがんのましますときけば、まことにたのもしく、 ありがたくおもいはんべるなり。
この本願を、ただ一念無疑いちねんむぎに、 至心帰命いちねんきみょうしたてまつれば、わずらいもなく、 そのとき臨終りんじゅうせば 往生治定おうじょうじじょうすべし。 
もしそのいのちのびなば、一期いちごのあいだは 仏恩報謝ぶっとんほうしゃのために 念仏ねんぶつして、 畢命ひつみょうとすべし。 

これすなわち平生業成へいぜいごうじょうのこころなるべしと、 たしかに聴聞ちょうもんせしむるあいだ、 その決定けつじょう信心しんじんのとおり、いまに耳のそこに 退転たいてんせしむることなし。
ありがたしというもなおおろかなるものなり。されば、 弥陀如来他力本願みだにょらいたりきほんがんのとうとさ、ありがたさのあまり、 かくのごとくくちにうかむにまかせて、このこころを 詠歌えいかにいわく、
 ひとたびも ほとけをたのむ こころこそ まことののりに かなうみちなれ
 つみふかく 如来にょらいをたのむ 身になれば  のりのちからに 西へこそゆけ     
 のりをきく みちにこころの さだまれば 南無阿弥陀仏と となえこそすれ    
と、わが身ながらも本願ほんがん一法いっぽう殊勝しゅしょうなるあまり、かくもうしはんべりぬ。
この三首のこころは、はじめは、 一念帰命いちねんきみょう信心決定しんじんけつじょうのすがたをよみはんべりぬ。    
のちの歌は入正定聚にゅうしょうじょうじゅやく必至滅度ひっしめつどのこころをよみはんべりぬ。 
つぎのこころは、慶喜金剛きょうきこんごう信心しんじんのうえには、 知恩報徳ちおんほうとくのこころをよみはんべりしなり。」 
                 【御文章・四帖目第四通】    

蓮如上人のこのお手紙を読むと、「蓮如上人も人間なんだなあー」と、人間臭さも感じます。
 年取って、色々な目にも会い、大変なご苦労をされた蓮如上人ですが、今となっては、思い出すことは一つも無いと言われています。 
今となっては 生死出離しょうじしゅつりの一道しか願うことは一つもない、と言われています。
読んでいて、蓮如上人の感じておられる無常感がひしひしとこちらにも伝わってくるように感じます。
ただ、蓮如上人の姿勢は、この世が無常だから、苦しいから、この世を逃げて浄土へ行くということではありません。
極楽は楽しいから、往きたいと願うのは、自分の欲望であります。
浄土に往くとは、そんな自己中心的なものではありません。
自己の楽を求めて往くのは、極楽ではなく、欲の世界でしかありません。
この世は無常だからこそ、今を一生懸命生き抜くということが大切であると積極的に無常というものをとらえているおられることを忘れてはならないでしょう。
今とは、いつも今であり、臨終りんじゅうまで今、今、今なのです。
大事なことは、無常だからこそ、仏法に出会っていくことが大事であることが説かれていることです。
無常だからこそ、早く平生へいぜいに、早く 阿弥陀あみださまの願いに目覚めていくことが大事であると言われています。
無常の現実をしっかり見つめて、無常だから、一刻も早く仏法のご縁に会うことが大事です。 

 この御文章では三首の歌が教えの内容を説いています。
「ひとたびも ほとけをたのむ こころこそ まことののりに かなうみちなれ」という歌のこころについて、蓮如上人は、 「はじめは、 一念帰命いちねんきみょう信心決定しんじんけつじょうのすがたをよみはんべりぬ。」と説かれています。 
自己を超えた大きな仏さまの願い働き、それを本願ほんがんと言います。
私たちの命は、自己を超えた大きなものに支えられています。   
親鸞聖人は、自然じねんということを言われています。
「よしあしを離れた世界、あるがままに身をゆだねた世界が自然である」と表現された先生がおられます。
心に響く表現だと感じました。 
「ひとたびも ほとけをたのむ こころこそ まことののりに かなうみちなれ」とは、自己を超えた仏さまの、大いなる願い、働きに身をゆだねることでしょう。
「まことののりにかうみちなれ」とは、「普遍的ふへんてきな法にかなう道なのですから、 無理がない」と表現された先生がおられます。
これも分かり易い解説ですね。
阿弥陀さまが私たちを救うことも、「無理がない」ことなのでしょうね。
私たちが阿弥陀さまに身をゆだねることも「無理がない」ことなのでしょう。

次のうたは、「つみふかく 如来にょらいをたのむ 身になれば  のりのちからに 西へこそゆけ」です。     
蓮如上人はこの歌のこころを、 入正定聚にゅうしょうじょうじゅやく必至滅度ひっしめつどのこころをよみはんべりぬ」と説かれています。
「つみふかく」「罪深く」と説かれています。
私たちは煩悩ぼんのうがあります。       
いや煩悩ぼんのうかたまりが我々なのかも知れません。
煩悩があまりに身に染み込み過ぎて、自分では気づかないくらい、煩悩が当たり前になっているのかも知れません。
また、煩悩、煩悩と耳に慣れ過ぎて、煩悩の恐ろしさに気づかなくなっているところもあるのかも知れません。
「好き、嫌い」「取る、捨てる」みんな「煩悩」のこころであり、「迷い」ですね。
この煩悩があるから、私たちは迷いの世界を流転るてんしていかなければならないのです。
仏さまが、この煩悩の塊の私を救うことを問題にして下さっておられたのでした。
  
「み仏の鏡に映る わが姿」仏さまの教えを聞くことを通して、仏さまに照らされることを通して、わが身の掛け値のない真実の姿、愚かさを知らされます。
そして、日常生活にちじょうせいかつの中で、自分の愚かさを知らされるにつけても、 「こういう私を救ってくださるのか。もったいないことだ。」と、常に仏さまの願い、働きにかえっていく生活がお念仏生活ではないでしょうか?   
私たちの日常生活は殊勝しゅしょうな心ばかりでありません。   
ある信者の逸話いつわを聞いたことがあります。
「その人が寒い日に畑仕事から自宅に帰ってみたら、玄関に入って、『帰ったぞう。』と言っても、返答がなかったそうです。 そこで、その人は、『誰れかおらんのかあー!?』と言うと、今度は奥の方から、『居るぞうー。』と奥さんが言いました。
すると、その人は、「この寒い中、畑仕事して帰って、『帰ったぞう。』と言ったのに返事がなく、『誰れかおらんのか?』と聞いたら、 『居るぞう。』とは何事か!」と腹立ち、一瞬、『藁木わらきで女房の頭をかち割ってやろう!』 という気になったそうです。
藁木を持って女房のところへ行こうとした。
そして、そのまま女房のところへは行かずに、仏壇ぶつだん阿弥陀様あみださまの前に藁木を置いて、仏さまに手を合わせたそうです。」
私は、この逸話から、殊勝な心の時でない時も、仏さまとのご縁が出来る大切な機会なんだと味わわせて頂いています。

三首目の歌が、
のりをきく みちにこころの さだまれば 南無阿弥陀仏と となえこそすれ」です。       
蓮如上人はこの歌のこころを、
慶喜金剛きょうきこんごう信心しんじんのうえには、 知恩報徳ちおんほうとくのこころをよみはんべりしなり。」と説かれています。      
信心の生活は、「慶び」であり、「恩を知ること」であり、「仏さまのご恩に報いる」生活であると説かれています。
末燈鈔まっとうしょう」という書物の中に、次のように説かれてあります。
「浄土へ往生おうじょうするまでは 不退ふたいのくらいにおわしまして候えば、 正定聚しょうじょうじゅのくらいとなづけておわします事にて候うなり。」
     【『末燈鈔』】
【※『末燈鈔』→親鸞聖人の消息(しょうそく)集。
親鸞聖人の信仰体験を記した法語(己証)と、門弟に宛(あ)てた書簡(消息)を収める。】
日常生活の中で生きている限り、いくら仏さまの願い、救いの働きに出会っても、煩悩ぼんのうを 離れられない凡夫ぼんぶであることに違いはありません。
そして、ここは、穢土えどであって、 浄土じょうどではありません。
しかし、「末燈鈔」の中に、 「浄土へ往生おうじょうするまでは 不退ふたいのくらいにおわしまして候えば、 正定聚しょうじょうじゅのくらいとなづけておわします事にて候うなり。」
と説かれてあります。   

ここに、「不退ふたいのくらいにおわしまして候えば、」とあります。  
私は、「不退ふたいのくらい」という言葉に、 感銘かんめいを受けます。
「仏さまの願い、働きに一度出会えば、どんなに煩悩に振り回されても、仏さまとのつながりは消えない。」と味わえるのです。
ここで、よくよく気をつけたいことは、「煩悩のままに、好き勝手に生きてもいいんだ。」ということではないということですね。
これは、あまりに当然と言えば当然のことですが、再確認しておきたいと思うのです。
仏さまの願い、働きに出会うこと、仏さまの教えを聞いて、仏さまのご縁に会うことが何より大切なことだと味わわせて頂く次第です。
共々に仏法のこ縁に合わせて頂いていることを大切に思い、感謝し、相続させていただきたいものでございます。
ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「継続」
一つのことでも  
続けることは   
難しいことです  
ダウンしそうになったり    
励まされたり    
軌道修正したり  
それでも  
ボツボツ 続けていく   
継続は 力なり  
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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