平成29年6月 第68話

朝事*住職の法話

「日々の暮らしの中で」

 日々の暮らしの中で、「これでいいのか?」と思うことは多くございます。
人間が生きていく上で何が一番大切なのか?それが中々わからなくて生きている気がします。
「真実」という言葉で、仏法は何を説こうとしているのでしょうか?
また、私には真実というものがあるだろうか?小さな我というものから離れられなくて、自他共に傷つけているのではないか?
日常生活の中に、どっぷり浸かって、自分の人生に何の疑問も抱かないで済む時はいいですが、ひとたびこの人生に危機感を感じた時は、何かを求めずにおれません。

 人生の大きな危機感を感ずる中に、「無常」ということがあります。
無常の殺鬼むじょうのさっき」ということもあります。
突如として、自分の足下が崩れていくような、恐ろしいものが、「無常」というものです。   
「無常」にぶち当たり、すっかり気力が無くなり、意気消沈していく場合もあるでしょう。
また、家族が亡くなり、今まで、故人にしてもらっていたことを、今度は自分がしなければならなくなっていく場合もあるでしょう。
「こんなはずではなかった。」と愚痴を言ったり、ため息をついていくのが人生の一面にはあるようです。
思えば、親鸞聖人しんらんしょうにんも、若い頃に、深く無常を感じられた方でした。
「無常」ということに、せき立てられるように、ひたすら、自身の救われていく道を求めて行かれたのが、親鸞聖人の姿でした。
親鸞聖人は、一体何を求めて、そんなにもがかれたのでしょうか?
それは、「生死出しょうじいずべき道」を求めていかれたと言われています。
これは、聞き慣れない言葉ですね。「生死しょうじ」とは仏法的な読み方ですね。 
普通は「生死せいし」と読みます。
仏法では、人間は計り知れない過去から、「生死・生死・生死」と「生死」を繰り返し、迷い続けてきたのだと説かれています。
この「生死」の「迷い」から、出て行く道を聞かせて頂くことが、浄土真宗の教えを聞く目的だと言えるでしょう。
しかし、私たちは、自分が迷っていると思っているでしょうか?「私はしっかりしている。」と思っているのではないでしょうか?

「迷える者は、道を問わない。」と言います。迷っている者ほど、道を求めなければならないのに、それが分からないという事ですね。
親鸞聖人は、若い頃、比叡山ひえいざんで、仏法を徹底的に学ばれました。
それ故、「迷い」とは何か?ということもよくよく分かっておられたことと思うのです。
仏法を学ばれたが故に、「迷い」から抜け出すことが如何に必要なことか!如何に難しいことか!ということを、 よくよく分かっておられたことと思います。
だからこそ、このままではいけない。「無常」を深く思い、真剣に道を求めていかなければ、決して「安心」は出来ないと思われたのでしょう。
親鸞様の求道は真剣そのものでした。「これを解決しなければ、滅びしかない。」という崖っぷちに立ったお心からの求道ではなかったでしょうか。
しかし、親鸞聖人は修行をすればするほど、かえってどす黒い自分の煩悩ぼんのうの 深さを嘆かれたのでした。
親鸞聖人にしても、親鸞聖人のお師匠の法然上人ほうねんしょうにんにしても、教えを求める 真剣な命がけの求道ぐどうの姿勢には、仏法の厳しさというものを感じさせられます。

私も昔、生意気盛りで、ふんぞり返って聞いていた頃に、『「どれ、ちょっと聞いてやろう。」という態度では仏法はものにならないぞ!』と厳しく指導されたことです。

親鸞聖人も、法然上人も、若い頃に、「無常」というものを強く感じさせられる出来事がございました。
親鸞聖人は幼い頃に、既に両親はお亡くなりになっておられます。
法然上人の父親は、夜襲やしゅうに会って、殺されておられます。
そんな中で、真剣に命がけで、救われていく道を求めていかれたのが、浄土教の祖師方そしがたでした。
死というものは、当然「肉体の死」というものがあります。それと共に「迷いの命の死」というものがあるのではないでしょうか。

親鸞聖人のところに、命がけで教えを聞きに訪ねて来られたという話が、「歎異抄たんにしょう」に 書き残されています。

親鸞聖人は『あなたたちがいのちがけで訪ねて来られたのは、
往生極楽おうじょうごくらくの道」を問い聞かんがためでしょう。』
と、昔のことですから、交通の便も悪く、それこそ命がけの旅をして来られた方に、「本当に大切なことは何だと思っているのですか!」と 慈悲の上から、厳しく迫っておられる親鸞聖人の姿を思います。

それでは、「往生極楽おうじょうごくらくの道」とは一体何でしょうか?
私たちは、「無常」というものが、恐ろしく感じます。それは、死というものが全ての終わりだと感じているからかも知れません。
しかし、「往生極楽」ということは、「往生おうじょう」とは、 「き生まれる」という字ですね。
親鸞聖人が命がけで求めて行かれたのは、 「生死出しょうじいずべき道」だと言いました。
私が「生死」の「迷い」を繰り返して、「迷い」を「迷い」とも思わず、道を求めなければいけないとも思わず、迷い続けていることに目覚められ、 危機感を感じられたのですね。
「往生極楽の道」とは、『人間は、最後は「真実の世界」に向かっていく人生であれ!』ということなのでしょうか?
「南無阿弥陀仏のうちには生のみあって、死はない。」という法語を以前聞いたことがございます。
これは、実に突飛とっぴな言葉で、印象に残っています。    
私たちは、「南無阿弥陀仏」というお念仏を日々頂いています。 
これは、当たり前ではなく、実に驚くべき事実ではないかと最近思うのです。

親鸞聖人は、比叡山から下りられ、吉水で法然上人の教化に会われました。
「念仏の教え」を聴聞されました。
浄土真宗では、「南無阿弥陀仏のいわれ」を聴聞ちょうもんすることが かなめであると教えられました。
「いわれ」とは、現代流に言えば「働き」のことだそうです。
「南無阿弥陀仏のいわれ」を聞くとは、「南無阿弥陀仏の働き」を聞くということになります。
「これによれ、これにたよれと み仏は わがため 御名をさずけましましけり」
仏様の世界から、煩悩の世界から出ることが出来ないで、もがきあえいでいる私のところに届けられている働きがお念仏なのでした。
「声に姿はなけれども 声のまんまが仏なり 仏は声のお六字【南無阿弥陀仏の六字のこと】と姿を変えて われに来るなり」
いつでも、どこでも、誰れにでも、平等に届けられているのがお念仏であります。
凡夫ぼんぶが凡夫のままで、仏さまの願いに順ずる道が、お念仏で救われていく道です。 
念仏の教えを説かれた法然上人は「一切経いっさいきょう」を五回も読まれた方です。
法然上人は、善導大師ぜんどうだいしの言葉によってお念仏に目覚められたと言われています。
「お念仏は仏様の願いに順ずる道」であるということに目覚められたのでした。
どこで、いつ称えても、お念仏の中に真実は宿っていることに目覚められたのでした。

弥陀みだ本願ほんがん」という真実がありました。
「仏様のお働き一つで凡夫が救われていく道がございました。」
親鸞聖人は「ただ念仏して弥陀みだに助けられまいらせて 往生おうじょうをばとぐるなりと信じて念仏申すだけだ。」と言われました。
仏様からの、救いの働きを、お念仏を通して、ひたすら仰いでおられる親鸞聖人のお姿が、そのまま私たちの灯火となって下さっている気がします。
仏様の働きは、姿には、はっきり見えなくても、無形の働きが、この凡夫の煩悩の心に働きかけて、支えて下さっている。
そんな計り知れない大きなお慈悲の働きが、お念仏の働き「南無阿弥陀仏のいわれ」ではなかったでしょうか。
もったいないことです。 称名


最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「心のスキ」
人が 見ていないから-  
少しくらいのことだから-   
わずかな心のすきが  
人を 傷つけ    
自分を きずつけ     
とりかえしの   
つかないことになる    
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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