平成29年5月 第67話

朝事*住職の法話

「事実を見よ」

 五月になり、爽やかな風を感じる候となりました。 
仕事で、法事や葬儀や通夜など、人間が老い・病み・死ぬ・という仏教で説く「四苦」「八苦」ということの重さを教えられる現場に 臨むことが多いことです。
ご家族が病気になられ、それも治りそうもない病気で療養されている方もおられます。
また、夫や子供の先のことを考えながら、亡くなっていかれた奥さんもおられました。
そういう病人や、亡き方を思い生きておられる家族には、その家族にしか分からない身を切るような辛さというものがあります。
なかなか、他人の心に寄り添うということは難しい問題だと、しみじみと思わされます。
凡夫ですから、なかなか真実の慈悲というものを持ち合わせてはいません。
杓子定規しゃくしじょうぎな言葉で、相手の気持ちも分からず傷つけたこともあったことでしょう。
しかし、できる限り、相手のことを思いやり、少しでも相手の心に寄り添えるように努めたいものです。
そして、色々な出来事を通して、それをご縁に、み教えに聞き、「共に学んでいく」という気持ちを忘れたくないものです。

人間には自我というものがあります。「自分が可愛い」という気持ちが心の奥底に強く居座っています。
真実の慈悲というものは、以外と、人間の自我というものを考慮していない面があるように感じます。 
つまり、真実の慈悲というものは、自我の立場からは、とても無慈悲に感じるという面があるみたいですね。
真実の慈悲は決して私の自我のご機嫌をとるようなことはしないみたいですね。
浄土真宗の聴聞ちょうもんをしていても、私のことを大切にかまってくれている・ 相手をしてもらっていると感じたことは少ないですね。
どこか、「突き放された」と感じることが多かった気がします。
そう感じるのも、私の自我で感じているから、慈悲でさえ無慈悲に感じたからでしょうね。
餓鬼の世界では、仏さまが近づいてきても、鬼が近づいて来たと感じるそうです。
仏さまでも鬼に見えるのですね。決して他人事とは思えない話だと思いますね。

自我にとっては辛くても、きつい毒のある言葉が窮地きゅうちに追い詰められた人間を 立ち直らせる力を与えることもありますよね。


「ガン告知のあとで」鈴木 章子 【『探究社』】 という本があります。
鈴木章子(あやこ)の簡単なプロフィールを紹介します。
昭和16年生まれ 北海道 真宗大谷派・西念寺坊守 斜里大谷幼稚園の園長
昭和63年 往生  行年47歳

鈴木 章子さんの詩に次のような詩がございます。
     
「生死」 鈴木 章子
死というものを
自覚したら
生というものが
より強く浮上してきた
相反するものが
融合して
安らげる不思議さ
【鈴木 章子『ガン告知のあとで』】



 世の中には、病気になり、その中から、とても深いものを会得えとくされている人は 多くおられることと思います。
また、自分の苦しみを受け入れる中で、他の方々の言葉が導きとなることもありましょう。
スポンジに吸い込まれる水のように、他人の言葉が私の中に入って来ることもあるでしょう。
又、病気の中で、絶望感の中で、愚痴と挫折感を味わっておられる方もおられることでしょう。
なかなか自分の「病」に向き合っていくことは辛いことだと思います。

 人間は中々人生の苦を見つめようとはしません。
「自分の死と太陽は、まともに見つめることが出来ない」というような言葉も聞いたことがございます。
人間は苦しいと、その苦しみに向き合うよりも、それをごまかそう、考えないでおこう、見ないでおこう、 なんとか気分を変えていこうとするものではないでしょうか?
それは「苦しみを見るのは嫌だ。苦しみから目をそらして、逃げていこう。」という態度ですよね。
私も今まで嫌なことから逃げてばかりだったような気がします。情けないことです。
しかし、ある先生が言われました。「逃げている時が一番苦しいのだよ。」
『例えば、悪天候の日にお寺で法座ほうざ【法話会】があるときに、 自宅で寝床に居て、「今日は雨だなあー。寺に行かなければならない。嫌だなあー。」と思っているときは辛いけれど、 いざ着替えて雨の中を寺に向かって歩み始めると、苦しみはずいぶん軽くなるものであります。』と教えて下さいました。 
 人生には「まさか」の坂があると言われます。思わぬ苦しみが訪れる。
確かに「人生は苦」であります。  
自分の「苦」に向き合う人は、どうしてもそこから逃げられないと感じた人だけなのかも知れません。
『この現実はどうあがいても変わらない。 あがけばあがく程、深い泥沼にはまり込み苦しみは増すばかりだ。  どうしても逃げられないものなら、この事実に腰を据え、それを受けとめてみよう。』
と言われた方がおられたそうです。
大変教えられる言葉です。
苦をくぐり抜けてきた方の言葉には深みが感じられます。
苦というご縁でしか味わえない人間としての真のいのち真の生き方に目覚める機会となる場合もあるのではないでしょうか。
この事実への目覚めが、私を救い、人生に光明を感じるご縁になるの場合もあるのではないでしょうか。
自分の「苦」が私を目覚めさせるご縁、転換する機会になる場合もあるのではないでしょうか。
自分の「苦」に導かれて、聞く耳が開け、真実の教えに会う機会となっていくこと場合もあるのではないではないでしょうか。

 現代社会は「死」というものが「タブー」になっているところがあり、「四」という番号が「死」を連想させるところから、 「四」という番号すら避けることもあります。
それは、「死については考えたくない。」「嫌なものは見たくない、考えたくない。逃げたい。」 という「事実を見つめようとしない姿勢・態度」ではないでしょうか?


鈴木 章子さんの言葉を紹介させて頂きます。
     
鈴木 章子
念仏は
私に  
ただ今の身を
納得して
いただいてゆく力を
与えて下さる
 
【鈴木 章子『ガン告知のあとで』】


     
「大きな御手」鈴木 章子
私がする・・
私がしなければ・・  
私がしてあげる・・
と思って生きてきたのだが  
してもらう事が多くなったら
主人も子ども達も
それぞれが 
生かされていたのが見えてきた
    
私がいなくなったら・・と
胸がはりさけそうだったのに
残される主人も子供達も
大きな御手の中・・
  
一番大きな心残りが
魔法のように
とけてゆきます
 
【鈴木 章子『ガン告知のあとで』】


     
「私の歴史」鈴木 章子
私の今迄の生活歴史に
自我の歩みの歴史と 
弥陀の歩みの歴史と
二通りの歴史があると思います
 
命終とは自我の歴史の終止符であり
弥陀の歩みは
そのまま続くものであると思います
 
【鈴木 章子『ガン告知のあとで』】


     
「癌」鈴木 章子
癌と言われて死を連想しない人がいるだろうか
医学が進歩した現在  
死と直面できる病いに
仲々出会うことができない  
いつ死んでも不思議でない私が
すっかり忘れて うぬぼれていたら
ありがたいことに 
癌という身をもって
うぬぼれを砕いてくれた    

どうしようもない私をおもって
この病いを下さった
おかげさまで おかげさまで
自分の愚かさが  
少しずつ見えてきまして
今現在説法の法座に
座わらしてもらっています
 
【鈴木 章子『ガン告知のあとで』】


     
「変換」鈴木 章子
死にむかって
進んでいるのではない
今をもらって生きているのだ
 
今ゼロであって当然の私が
今生きている

引き算から足し算の変換
だれが教えてくれたのでしょう 
新しい生命
嬉しくて 踊っています
《いのち 日々新たなり》
うーん わかります 
 
【鈴木 章子『ガン告知のあとで』】


     
「仲間」鈴木 章子
死という
絶対平等の身にたてば  
誰でも
許せるような気がします
いとおしく
行き交う人にも
何か温かいおもいが 
あふれでます
(昭和六十三年三月五日)    
 
【鈴木 章子『ガン告知のあとで』】


     
「念仏」鈴木 章子
「まかせよ まかせよ」
の如来の声  
「ここに 還って来い」
の諸仏の声
「事実を見よ」
との お催促の声
(昭和六十三年三月十二日)    
【鈴木 章子『ガン告知のあとで』】



 これらの鈴木 章子さんの詩を読んで、皆さんはどのような感想を持たれますでしょうか?
私は、自分の思いを超えたものを、自分の思いの中に入れ込んで、自分勝手に苦しみを招いている 自分の愚かな姿というものが教えられる気がします。
病いも、死も、何一つ自分の思い通りにはならないものなのですね。
そこに、仏様のみ教えを聴聞してこられたという鈴木 章子さんが、自分の病いや死を通して、自分を超えた大きな世界に触れられているのを 強く感じて、大きな力や支えを頂くことが出来ます。
 元々大きな世界に生かされ支えられている。
その中で、「上手な死に方・下手な死に方とか、死は悪い・生は良いとか、長生きは良い・短命は悪いとか、、、」
自分の思いの中だけでものを見たり考えたりしていることを感じます。
「生はプラス、死はマイナス」と思っていたら、人生は結局は敗北に向かう人生だけになってしまいますね。
孫悟空そんごくうは動き回っていた。 しかし結局は仏様の御手の中だった、という孫悟空の話のオチがあります。
私たちがいくら自分の力で、思い計らっても、結局は仏様の御手の中に生かされ支えられているだけではないでしょうか。
元々大きな世界から命を頂いているのに、私は、私の命だと、自分の思いの中に入れて分別してとらわれています。

「有無をはなれる」という意味の言葉が「正信偈しょうしんげ」の中にもあります。
解脱げだつ光輪こうりんきわもなし 光触こうそくかふるものはみな 有無うむをはなるとのべたもう 平等覚びょうどうかく帰命きみょうせよ」
                【「浄土和讃」より】
「有無」に縛られる。その縛られている思いから解き放たれる。それが 「解脱げだつ」ということです。
「有無」とは「あるとか・ないとか、プラスとか・マイナスとか、上とか・下とか、良いとか・悪いとか、、」
そういった物差しに対するとらわれです。
「有無」の分別に私たちはとらわれています。
自分の思いの中に縛られて、自分勝手に苦しんでいるのですね。
元々大きな御手の中に在りながら、大きな阿弥陀あみだ様の船に乗りながら、 船の上に居ることに気付かず、一人で苦しんでいるのですね。
私の思いを超えたものを私の、思いで分別ふんべつするから苦しむのですね。
私の思いを超えた大きな大きな仏様の世界にお任せすることが一番落ち着ける世界なのでしょう。
その世界を親鸞しんらん様は 「自然法爾じねんほうに」と教えられました。


最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「勇気」
人生の 苦難を  
のりこえる   
大きい勇気も  
ほしいが    
日々のなまけ心に     
うちかつ   
小さい勇気こそ ほしいネ    
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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