平成29年4月 第66話

朝事*住職の法話

「淋しさと苦悩の底に」

 四月に入り、学校は新学期を迎え、職場では新年度に入り、新たな気持ちで、世の中は動き始めます。 
最近、ある方が、長年住んだ家から、縁ある人の居る他県に引っ越されたそうです。
自宅も壊され更地になってしまいました。
「あの家で、あの方と長話をしたなあー。」と懐かしく思い出します。
昔のことを思っても、返っては来ません。
時は休むことなく流れていきますね。
世の中の移り変わりも感じますが、先ず私自身の「無常」ということを思わなければならないのでしょうね。
何でも「他人事」にしてしまう私がいますね。
「人生は無常なり」
毎日、一日一日を大切に生きていきたいものです。
毎日忙しさに紛れて、「イライラ・クヨクヨ・コセコセ・ブリブリ・ネチネチ」と生きているとしか思えません。
 
あるお母さんが、子供に諭されたそうです。
「どうしてあなたはそんなに怒るの?怒ると体に悪いよ。」
「もっとゆっくりやったら?ゆっくりやれば いい智恵が湧いてくるよ。」と。
全くその通りだなあー。
母親の「名言」だと思わずにはおれません。

それでは、毎日何をそんなに忙しくして頑張っているのでしょうか?
「私が幸せになるため」ではないでしょうか?
人間として幸せを求めるのは当然でしょう。 しかし、それは、ひょっとしたら、我執がしゅうを中心とした幸せなのかも知れません。

昔、ある女性が、「『正しいと言うけれど 私が正しいと言うこと、これも我執かも知れない。』という意味の短歌を詠みました。」と言われていたのを思い出します。
又、その女性が、「母が私が嫁ぐ時に言ってくれました。『馬鹿になれ、馬鹿になれ、馬鹿になって、ただ尽くせ。嫁ぐ私に母のはなむけの言葉』と。」 と言われていたのも懐かしく思い出します。

人生は苦しみの連続で、一つ解決すれば、また一つと問題は限りなく続きます。
心安まる時は、一日のうちに僅かな一時です。
「苦しみとは不如意ということだ。」と教えられたことがあります。
「自分の思い通りにならないことが苦しみ」ということですね。
自分の「思い」と「現実」が違うところから、「苦しみ」は生まれてくるということですね。

ある奥さんが言われました。
「私の主人は病気になっても、自分が病気であることを、受け入れられないようです。」と。
似たような話はよく聞きます。
決して笑えない話です。
私自身が、日々、「自分の思い」と「現実」との違い・ギャップに一時も我慢出来なくて、のたうち回っています。

毎日、他人に振り回され、自分以外のものに振り回され、自分自身が不在なまま生きている気がしてなりません。
こんなことで、「人間に生まれてよかった。」と思えるでしょうか?

念仏詩人の木村 無相さんの詩に次のような詩があります。
     
「居る」 木村 無相
  居ないんですよ
  居ないんですよ  
  はっきり きっぱり
  言いきるひとが
  居るんですよ
  居るんですよ
 “弥陀の本願信ずべし”
【木村 無相『念仏詩抄』】

読んでいて、何か不思議な魅力を感じてしまいます。
それと同時に、どういう意味の詩なんだろう?
どこか謎めいた詩ですね。
「居ないんですよ 居ないんですよ」とはっきり言いきるひとが「居るんですよ 居るんですよ」とはどういうことなんでしょう?
もし詩というものは自由に読んでもいいものだとしたら、私はこう感じ、解釈します。
私自身が「大切なものを忘れて大切でないものを主人公にして生きている」ということなんでしょうか??

詩ということについて、「言葉・名辞」を口にする以前に感じているものがあるそうです。
そこに思いを致して、詩は味わうものなのでしょうか?
ただ言葉にだけでなく、「月を指す指」として言葉というものも味わえるのではないかと思うのですね。
たとえば、心に「やりきれない感じ・実感」というものが、先ずあって、それを「淋しい」という言葉に表現したりする。
言葉に直すと、「淋しい」の一言になり、平凡な言葉かも知れませんが、言葉はたとえ平凡でも、中々深みがあるのではないでしょうか?
又、人間は今、一人一人生きていて、何かを感じながら生きていますが、その感じというものは、必ずしも言葉に表現出来るとは限りませんよね。
その人自身にも、「とても私が今、感じていることを言葉に直すことは出来ない」と感じる場合も多いのではないでしょうか?
「言葉に直す以前の感じ」それを感じながら、一人一人が今を生きている。
そんな感じがします。
だから、自分自身が感じていることを、ゆっくりした時の中で、少しは大事にしてもいいのではないか?
そんな気がするのですね。
しかし、自分が感じたり、考えていることの中には、色々あります。
その中には、お粗末過ぎて、とても他人に言うのも恥ずかしいということもあるような気もしますね。


松田 たみ さんの言葉を紹介します。

  「背伸びして
  まだ足らぬと背伸びして
  われの色をばぬりかえしわれ」  
いくら背伸びして、生まれたままの色に上塗りしても、よく見せようと、塗りかえてみても、われはわれなんですね。
「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけり」と、
親鸞さまは仰せくださっていますね。
名利を離れることのできない、現実の、このわれのすがたを、親鸞さまは大悲してくださるのですね。
※「生命の大地に根を下ろし」松本梶丸 樹心社

まるで私のことを言われているような気がしました。
現実逃避して、妄想をいくら描いても、解決はないのですね。苦しいだけですね。
親鸞さまが大悲されているのは、この私の哀れな姿だと思わずおれません。

ある先生が教えて下さいました。
「親鸞聖人の偉いところは、『本願』と『名号』を発見して、私たちに教えて下さったことです。」と。
阿弥陀様は「全ての生きとし生きるものを救おう」という「誓い」を立てられ、それを「本願」と言います。
そして、「もしこの願が成就しなければ仏になるまい」と誓われました。
それを「誓願」と言います。そしてそれが人間の考えを超えた絶対的な力なので「誓願不思議」と言います。
その誓願が、「南無阿弥陀仏」という「名号」となって、私たち一人一人によびかけていて下さるのです。
それを「本願 名号」と言います。
             
『嘆異抄・第一章』
阿弥陀仏あみだぶつの誓願の不思議な力にお助けいただいて、
極楽浄土に生まれることができるのだ」と信じて、念仏をとなえようと思い立つ心が生ずるとき、
即座に、阿弥陀仏は、救いとってお捨てにならぬ御利益に人間を参加おさせになるのである。
この弥陀の本願におかせられては、老人・年少者・善人・悪人というように、人間を差別してはお選びにならない。  
ただ、それを信ずる心が肝要であると心得なくてはならない。
その理由は、罪悪が深く重く、煩悩が盛んな、一切の生き物を救おうとするための願であらせられるからである。

【現代語訳対照「嘆異抄」安良岡康作 訳注 旺文社】

この「全ての生きとし生けるものを救おう」という阿弥陀様の「誓願」が「南無阿弥陀仏」の「名号」となって、呼びかけて下さっています。
仏縁は、仏さまのなさることですから、人それぞれですし、これしかないと決めつけたり、押しつけたりできないものでしょう。
十人十色、人それぞれ、仏縁は千差万別でしょう。
しかし、それを、私一人に頂く時に、その南無阿弥陀仏の呼び声は、孤独のどん底であえいでいる私が、その孤独のただ中で、 一対一で阿弥陀様に出会うのだと教えて下さった僧侶がおられました。
「淋しさと苦悩の底で 法 光る」そんな法語を改めて味わわせて頂く次第です。

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「なまける」
だれの心にも  
しまつの悪い   
なまけごころ が  
頭を もたげようと    
たえず     
ねらっていますよ    
    
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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