平成29年3月 第65話

朝事*住職の法話

「闇の中に差し込む光」

 普賢保之【ふげん やすゆき】師の「豊かさとこころ」【本願寺出版社 2013.9.1「報恩講」の小冊子より抜粋】の言葉に次のようなことが書かれています。 

「●己を知り、進むべき道を見つける
 仏教では、人生は苦であると説いています。その苦を乗り越えていく道を示しているのが念仏の教えです。
最近、「生きにくい現代」といった内容の本を見かけることがあります。
こうした内容の本が現代人の耳目を集めているのだとすれば、そこに現代人の 傲慢ごうまんさを見る思いがします。
 現代には、過去の時代と違った特有の生きにくさがあるのかも知れません。
しかし、どの時代にもそれぞれ特有の生きにくさがあったはずです。
そうであるにもかかわらず、現代が特に生きにくい時代と 喧伝けんでんするのは、現代人の身勝手さを表しているように思えてなりません。
こうした背景には、自己と向き合う時間を持てず、眼を外にばかり向けているということがあるのかも知れません。

  親鸞聖人は晩年に、
          
悪性あくしょうさらに やめがたし
こころは蛇蝎じゃかつのごとくなり
修善しゅぜん雑毒ぞうどくなるゆえに
虚仮こけぎょうとぞ なづけたる
【『注釈版聖典』617頁】

   という和讃わさんをお作りになっています。

この和讃の意味は、私たち凡夫は生まれつき悪を好むようにできていて、その性質を変えることなどできるはずもなく、 心はまるでへびさそりが毒を持っているように、煩悩という毒をもっていて、 そんな私たちがたとえ善い行いをしたとしても、それは煩悩の まじった善行であり、とても真実の行とは言えないというのです。
ここに示された姿は、まぎれもなく念仏の教えを通して見えてきた私たちのありのままの姿です。
 親鸞聖人は念仏の教えと出遇うことにより、苦しみの多い人生を力強く生き抜かれました。
念仏の教えに出遇うことは自己のありのままの姿を知らされることであり、同時にそんな私が阿弥陀仏にそのまま おさめ取られているという喜びを得ることでもあります。
 念仏の教えと出遇い、自己のありのままの姿を知ることが、どうして苦しみ多き人生を乗り越えていく力となるのでしょうか。
たとえば、私たちが漆黒しっこくの闇の中に放り出されたとしましょう。
周囲の状況がまったく把握できません。断崖絶壁の近くなのか、大きな岩や倒木が横たわっているのか、地面に大きな穴が空いているのか まったくわかりません。
そのような状況下に置かれた時、私たちは恐らく不安で身動きが取れなくなることでしょう。
ところがそこに一条の光が差し込んでくると、周囲の状況が次第に分かってきます。
闇の中の状況と、光が差し込んできたことで認識できた周囲の状況に、まったく違いはありません。
しかし光が差し込んできただけで、私たちは安心します。そして進むべき方向もはっきりします。
同じことは、自分自身についても言えることではないでしょうか。
自分自身がわからないことほど不安なことはありません。
念仏の教えに出遇ったからといって、煩悩が消えるわけでも、苦しみが消えるわけでもありません。
しかし、念仏の教えに出遇い、自己のありのままの姿を知らされることにより安心し、苦を乗り越えていくことができるのです。」

●自己と向き合うことの大切さ
 私が勤めている京都女子大学では、一回生と三回生時に仏教学が必須科目になっています。
その中で礼拝らいはいの時間が半期ごとに三回設けられていて、 この時間を多くの学生が楽しみにしています。
三帰依さんきえ」「さんだんの歌」「念仏」「講話」 「恩徳讃おんどくさん」という次第で進められます。
全員が静かに手を合わせた姿は、とても美しいものです。
礼拝堂という非日常的空間の中に身を置いて、自己と向き合います。
ともすると、私たちは慌ただしい毎日に振り回され、自分自身を見失いがちです。
若い学生たちも多くの悩みを抱えています。入学当初は仏教に批判的な目を向けていた学生も次第に親しみを覚え、自身の抱えている悩みを 念仏の教えを通して解決していく学生もでてきます。
 人間は恐らく誰もが、自分の存在を認めて欲しいのです。肯定して欲しいのです。
ところが肝心の自分自身が、自分を肯定できなくて苦しんでいます。
個性が重視されるべきだといいながらも、一方では世間の価値観を押しつけられ、それに振り回されています。
そうした中にあってもそっと自分自身と向き合い、親鸞聖人の説かれた念仏の教えを聞くことによって、ありのままの自己と向き合い安堵し、 ありのままの自分を受け入れていく学生もいます。
青春時代は、特に感受性が強く悩み多き時代ですから、一層念仏の教えが必要とされているのかも知れません。」
【普賢保之【ふげん やすゆき】師の「豊かさとこころ」本願寺出版社 2013.9.1「報恩講」の小冊子より抜粋】

ここに、「自分自身がわからないことほど不安なことはありません。
念仏の教えに出遇ったからといって、煩悩が消えるわけでも、苦しみが消えるわけでもありません。
しかし、念仏の教えに出遇い、自己のありのままの姿を知らされることにより安心し、苦を乗り越えていくことができるのです。」
という言葉がございます。


念仏の教えに出遇い、自己を内観ないかんされた榎本栄一さんの詩に、次のような詩があります。

               
『いき』
私のぐるりは
いのちあふれる大千世界
よろずの生きものと
いっしょに
ここで呼吸【いき】している
詩集「無辺光」より

『聞く』
栄一と申す人間が
薄日さすいのちの海に向かい
一人笛を吹いて
ただ自分の音色【ねいろ】を聞く
詩集「無辺光」より

『境界線』
この世 あの世と申すは
人間の我見
ごらんなさい
この無辺の光の波を
境界線はどこにもない
詩集「光明土」より

『求道』
もてあます煩悩も
照らされつつ
逃げず 追わなければ
わが影と気づき
いつか求道【ぐどう】の伴侶【つれ】となり
詩集「光明土」より

【『いのち萌えいずるままに』柏樹社 出版】

これらの詩は、読んでいて、どこかほっとする安堵感があるのはなぜでしょうか?
榎本栄一さんの念仏の信心から来る、人柄というものでしょうか?
榎本栄一さんの詩を読んでいると、「この人はとても正直な人だなあ。」という気がします。
私は、榎本栄一さんのそういうところが、とても好きなのですね。
とても人間臭いと思い、親近感を感じるのですね。
厳しい人生を念仏の教えを支えに生き抜かれた榎本栄一の生き様に、何より教え導かれる気がします。
 

先徳せんとく法語ほうごに次のような言葉がございました。   

「み仏の 鏡に 映る わが姿 落ちる私と 知らされる 助かる私と 知らされる」

という法語です。

人間はいくら謙虚に「私はつまらん者です。」と言ってみたとしても、心の底から、心底そう思って言っているのでしょうか?  
ここは、大いに考えてみたいところであります。
『信心の世界では「嘘」が一番いけない。 』と言われています。
有り難くもないのに、「ありがたい。」と言ってみたり、嬉しくもないのに、「うれしい」と言ってみたり、嘘をついてはいけないということですね。   
勿論、心底そう感じられる方が言われるのは別ですけれど、、。
しかし、高上がりして、自分自身とは違う「背伸び」した生き方には、決して安心はないと思うのですね。
自分自身に正直でありたいと思うのですね。しかし、ただ自分に正直なだけでは、つらいばっかりではないでしょうか?

普賢保之師は「念仏の教えに出遇うことは自己のありのままの姿を知らされることであり、同時にそんな私が阿弥陀仏にそのまま おさめ取られているという喜びを得ることでもあります。」と説かれておられます。
また、「自己と向き合う時間を持てず、眼を外にばかり向けているということがあるのかも知れません。」 とも説かれています。
念仏の教えに出遇うことは、自己のありのままの姿を知らされることであり、同時にそんな私が阿弥陀仏にそのまま おさめ取られているという喜びを得ることでもあるのだと説かれています。
ここは、言葉にならない、味わうべきところなのかも知れません。
この短い言葉の奥に耳を傾けるときに、尽きせぬ味わいがあるように思えてなりません。
「闇の中に差し込む光」それが「念仏の教え」ではないでしょうか?


仏教では、人間の目に見えないものに対して常に五つの怖畏おそれをいだいていると教えられます。
①「不活畏ふかつい」。
食っていけなくなるのではないかというおそれで、生活の不安、特に衣食住の不安を言います。今の仕事が続けられるのか、病気になったらどうしよう。 取り越し苦労ばかりしているのでしょう。
②「悪名畏あくみょうい」、 周囲から悪く思われないか、悪口を言われているのではないかとおそれ、絶えずまわりを気にしているということです。
それは、良く言われたい心があるからでしょう。
しかし、世の中には良く言う人もあれば、必ず悪く言う人もあるものです。全ての人達が良く言うということは絶対にないです。
③「怯衆畏こしゅうい」 【大衆威徳畏たいしゅういとくい
衆をおそれ、大勢の人に威圧されるおそれです。世間態を気にするのです。
「世間が何と言っているだろうか、どんな評判を立てているだろうか」、そのことが気になってたまらない。
実体のない世間の思惑ばかりを気にしてビクビクしているのです。実際は違うのに、「皆が言っている」と思い込んで気にしているのではないでしょうか。
④「命終畏みょうしゅうい」、 命の終わる時のおそれ、死ぬ時の畏れということでしょう。人間の命の終わろうとする時には、 「ああしておいたらよかったのに」とか、「死んだらどうなるのだろうか?」という漠然とした不安が身をおそってくるということです。
どれほど、もがいてみても、全く手も足も出ないのです。全く手放しでおまかせするしかありません。
⑤「悪趣畏あくしゅい」、 「悪趣あくしゅ」とは「三悪趣さんまくしゅ」 →「地獄・餓鬼・畜生」といわれるような苦しみの世界のことです。
そういう世界におちいるのではないかという畏れのあることです。
よいところに生まれられないのではないかということでしょう。

しかし、これらの不安、怖れはどこから起こってくるのかというと、 龍樹りゅうじゅは、 「一切の怖畏は、皆我見より生ず。我見は皆これ諸の衰と憂と苦との根本相なり」と説かれています。
私の感じる様々な不安や、怖れは、「我見」といわれる私の先入観や、物差しにあるという教えです。
そして「我見」は、生きる意欲の衰えや、憂いや、苦悩を生み出す根源であるという意味でしょう。
普通は、自分を取り巻く環境や現在の状況が、不安や、怖れ、苦悩を生み出していると考えます。
しかし、実はそうではなくて、「我見」という智慧のない、私の思い込みに原因があるというのです。
「私は正しい!私の言うことに耳を傾けるべきだ!」と、事情もよく知らない者が、大まじめで言いますけれど、それも案外「我執」かも知れないですね。

人生を生き抜いていくことを、妨げるものとして、不安と怖れがあります。
不安と怖れに呑み込まれていくとき、人は人生を歩む足が止まります。
どっちを向いて歩めばよいのか、行き詰まります。
その時、その不安や怖れが、自分を取り巻く色々な状況によって生み出されているのではなく、「我見」を生きているからであると気づかされる時、 改めて現実に向き合って、努力していく生活が始められるのでしょう。
この教えは、私を歩ませ続ける力や智慧を与えて下さる教えだと味わいます。
そういう意味では、不安や怖れの心が起こったとき、「自分」を深く見つめる機会になるのではないでしょうか。
不安や苦悩を感じた時、私が今どこに立っているのか、どんな物差しを振りかざしているのか、「我見」ということが反省させられます。
不安な心が出たとき、いま、自分の立っているところが、「我見」という真理に背く迷いの心で生きようとしていることを知らされるご縁となります。
阿弥陀仏に出遇うということは、阿弥陀仏に照らされるということであり、「自分」に出会うということでもあるのでしょう。
私の不安は「迷い」から来ていると気づかせて頂くことが大事なのでしょう。
仏様の智慧の鏡に照らされて、私の「ありのままの姿」を照らされ、知らされるのでしょう。
私の不安や心の動きが、私の生き方を問いかけ、私の掛け値かけねのない姿を気づかせることでもあるのでしょう。
阿弥陀さんと出遇うことが、自分と出遇うことになると、先徳の方々に教えられつつ、味わう次第です。  


「み仏の 鏡に 映る わが姿 落ちる私と 知らされる 助かる私と 知らされる」
という法語を、改めて味わい直してみたいと感じた次第です。
念仏の教えに出遇い掛け値かけねのない自己の姿を知らされるところに 安堵感が与えられ、安心するのでしょうか?
自分自身とかけ離れた自分を生きていくのはつらいこと、苦しいことなのかも知れません。 
人間は、高上がりして、自惚れがある間は、安心も出来ないものなのかも知れません。【自戒の言葉です。】 
「自分は他人とは違うのだ!特別なんだ。」と言いたいところがあるのですね、どこかに、そういう希望があるのですね。
その「特別意識」というものが、全てのものに平等に注がれている仏様の働きを一番さえぎっているような気がしてならないのです。

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「悪口」
他人の 悪口は  
ウソでも おもしろく   
自分の 悪口は  
ホントウでも 腹が立つ    
そんな自分に     
フッと気がつくと    
「はずかしくて たまらないヨ」    
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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