平成29年2月 第64話

朝事*住職の法話

「苦しみの中でこそ」

 『親の代から大工をすれど、人の口には戸が立たん』という言葉がありますが、確かにそうですねえ。  
ブッダの言葉にも次のような言葉があります。
『人は沈黙する者をそしり 多く語る者をそしり 
 又 少なく語る者をそしる およそ この世に 
そしりを受けざるはなし』          【「法句経」】
大体、「あの人が私に、こう言った。この人が私に冷たい。」と愚痴を言いますが、自分は他人に対して優しい言葉を言っているのだろうか?
他人に対して、温かい態度で接しているのだろうか?
知らず知らず、自分自身も、他人に対して、冷たい態度で接し、冷たい言葉を浴びせかけていることがないだろうか。
私自身も、自分が何か他人に言うことで、傷つく人がないように配慮した物の言い方を心がけたいものです。

今、世間で問題になっていることの一つに、「身元調査」ということがあります。
これも言葉による悪・罪ですよね。
「情報」【言葉】ということに関しての問題であります。
「身元調査」とは情報の漏洩ろうえいをしていくわけです。
その方に知らせることなく、個人の秘密であること、もしくは、その人を おとしめることになるかも知れないことを、重大な情報を、その人抜きで伝えていくことです。
本人の知らないところで知らせていくことが、身元調査です。
その身元調査を、本人の知らないところでやった、結果が重大な事例を起こしていく。それが身元調査の差別性であり、犯罪性であります。
「身元調査」と同じように問題なのは、「個人情報の保護」ということです。
「個人情報の保護」とは、本人の情報、それは、本人の宝物ですから、その宝物である「個人情報」を本人が扱うのと同じように、 むやみやたらと、本人を無視して、本人を抜きにして、あっちに言ったり、こっちに言ったり、情報を転売したり、渡してしまったり、 というようなことをしないようにしなければならないことが法律では決まっています。
そういうことが「個人情報の保護」ということです。
それは、端的に言えば「一人一人を大切にしていく」ということの在り様を言っているのですね。
親鸞聖人は、全ての人に対して、「御同朋、御同行」と「仲間よ。」と呼びかけておられます。
それに比べて、何か少しでも自分の意に沿わない人がいれば、すぐに「あんな人は嫌い。」と仲間外れにしていく自分が恥ずかしいです。
お寺に集まる全ての人が、「お寺に参ったけれど、気持ちがよかった。親鸞様の教えが隅々まで感じられる。」というようになりたいものです。
そのためには、先ず私自身が、真にみ教えを聞いて味わい喜ぶ身に育てられることが緊急の課題だと、改めて思います。
他人ではなく、私自身のことだと、「問題解決のキィーワード」は、「私自身がみ教えに育てられていくこと」に尽きると言えると感じています。

今までの習慣で、「これをしたことで、今まで誰からも文句言われたことはありません。」と言っても、本人が嫌だというものを、無理矢理する という意識があるとすれば、それは今一度考えて、見直していかなければならないことなのではないでしょうか?
他人と向き合う中で、「他人から見たら、こういうこともあるんだなあ。」と、課題を共有しながら、改めていくべきは、改めていこう、 これが「個人情報の保護」の在り方ではないかと思うのです。
したがって、「身元調査」と「個人情報の保護」とは、同レベルの話で、「一人一人のことを大切にしていく」というふうな形で、 「身元調査」と「個人情報の保護」というものを考えていきたいものと思っています。

又、世間では、「噂話」というものもあり、これにも十分気をつけたいものです。
ありもしないことを、さも本当にあったかのように、本人の知らないところで、本人抜きで、他人に言いふらし、人の和を乱して、本人も深く傷つけていく。
本人の知らないところでやった結果が重大な事例を起こしていく。それが「噂話」の犯罪性でありましょう。
又は、本人に直接悪口を言うのなら、言う前に、自分がその人に抱いている考えは正しいのか?
又、この情報は、自分勝手な思いに過ぎないのではないか?本当には当たっていないのではないか?
つまり、本当か虚偽かをよくよく確認してから言うべきではないか!そんな気がしてならないですね。
事実でないことを言わないように、自戒したいものです。
それは智恵のない愚かな姿ではないでしょうか?
いくら他人に聞いた話でも、噂話というものは、以外と虚偽が多いものではないでしょうか?
又、世の中には、あえて嘘の情報を広めて、その人を苦しめようとする人がいるのも悲しい事実ですよね。
相手の気持ちになって、考えていく、それが「プライベートを守ること」ではないでしょうか?
相手の立場になって、相手が嫌なことはしないようにしたいものですね。
「あえて相手の嫌がることをしてやろう。」は、「それは勘弁して下さいよ。」と言いたいですね。
ある人が言われました。「他人に唾吐いたら、自分に返ってくる。年取ればそういうことが、人生体験を通して、分かってきます。」

又、世間では、「いじめ」ということが、深刻な問題になっています。
大人社会だけではなく、学生の中でも、陰湿いんしつ陰険いんけんいじめがあります。 
これは悲しいことであります。
人間の心は「蛇・サソリ」のようだと、親鸞様もおっしゃっておられますが、人間の心の底に恐ろしい蛇・サソリが ひそんでいるのですね。
自分のこととして考えていきたいものです。
「人間の心の底に恐ろしい蛇・サソリがひそんでいる」
そういう自分の嫌な面を見るのは楽しいことではありませんよね。
しかし、自分の心を、目をそらさず、じっと凝視ぎょうしすることも、 大変大事なことではないかと、今更ながら、思うのです。
今の時代、色々な悲惨な事件が多発しているのに、自分の悪を見て見ぬふりでは、もう許されないのではないか。済まされないのではないのか?
この世界には、自分だけが生きているわけではありませんよね。色々な命と共に在るのが地球ですよね。
そんな不思議な命の世界に共に生きているのですよね。
そして、仏さまの教えに導かれて、自分の姿を知らされるわけでしょうから、根本は仏さまの智恵と慈悲でしょう。
このようなことを言う私も、加害者の片棒を担いでいるのかも知れませんね?大いに自問自答・自戒したいものです。

浅田正作氏の詩に、次のような詩があります。
               
『回心』
自分が可愛い
ただ それだけのことで
生きていた
それが 深い悲しみとなったとき
ちがった世界が
ひらけてきた

『いれもの』
やどかりが
自分の殻を
自分だと言ったらおかしいだろう
私は 自分の殻を
自分だと思っている

『煩悩のうた』
煩悩のうたを
うたってゆこう
切ないけれど
それよりないのだ
私のうた
煩悩のうた
懐かしきうた

『問い』
なんのために生きているのか
愚かな 愚かな問い
私の 最初の問い
そして 今も
一番底にある問い
わかったつもりの私が
愚かな 愚かな私に
突き当たる問い

【『骨道を行く』法蔵館 出版】


この本の序文に、
「浅田正作さんの念仏詩集『骨道を行く』『草念仏』『水の行方』を読ませていただいて、 光を仰いで歩く人の、足跡は、光となって輝くということを、あらためて思いました。
この言葉は、意図してつくられたものではなく、自ずとこぼれおちた言葉であります。
だから、その一句は、ときに、百万言をついやされた文章よりもあざやかに、一つの世界を人々に伝え、同じ感動を 呼びさましてくれます。」 
とあります。
「光を仰いで歩く人の、足跡は、光となって輝く」という言葉に、強くひかれます。  
  
人間は弱いものですよね。少し何かあれば、心はすぐに動揺してしまいます。
   
偉そうに他人に言っていたけれど、自分が、苦しみに会うと、他人に言うどころではなくなりますね。 

昔聞いた話に、二人の男性が何かの議題について論争していたそうです。
片方の男性が病気になられたのですね。相手方が「あの問題はどうなったのか?」と聞いたら、「そんなことはもうどうでもいい。」と答えたそうです。
病気になったら、論争どころではなくなったのですね。笑えない話です。私もきっと同じ事を言うだろうと思います。 
  
ある方は「本当の幸せとは、つらさや苦しみの正反対ではないでしょう。もちろん、楽しさ嬉しさと同列のものでもないでしょう。
言うなれば、失意のどん底にあっても、なお我が身にしみじみと味わえるほのかな喜びといったようなものでしょうか。」
   
と言われています。大変深い言葉だと思います。
  
この方の血の滲むような苦悩の末の言葉だと感じるのですね。又、仏縁の有難さを思いますね。
この方だって、仏さまの教えがあったらこそ、このような尊い味わいを得られたのではないでしょうか。  

ある方は、
「仏教は『今』しかない。
本当の長生きとは、生きている時間が長いと思うがそうではない。
仏教は『今』しかない。
『今』しかないこの私。そして、その底を流れる南無阿弥陀仏の仏の世界。無量寿がある。」
   
と言われています。勇気の出る言葉ですね。  

ある方は、「阿弥陀様は、苦しみの真っ只中に住んでおられる。」
   
と言われています。 

こういう素晴らしい仏法の先輩方の御言葉を聞いていますと、話はいたずらに、長く言えばいいというものではないと思わされます。

短い言葉でもいい。一言でもいい。
  
「一句万劫まんごうかつす。」  
という言葉もあります。
そういう一句は、苦しみの中でこそ、発見でき、味わえるものだと思います。   
   
「苦しみの真っ只中に阿弥陀様は住んでおられる。」  

こういう言葉を深く我が身に味わい、仏法者として、「今しかない」という気持ちで生きていきたいものです。
   

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「小さなこと」
ごく小さな 悪の芽が  
積み重ねられて   
とりかえしの  
つかないことに なる    
ごく小さな 善行が     
積み重ねられて    
やがて    
 
大きな善行になる  
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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