平成28年12月 第62話

朝事*住職の法話

「わたしにも親様が」

 今年も終わりに近づいてきました。本当に月日の経つのは、速いと、しみじみ感じます。      
それと同時に、住職としては、「今年も、長年付き合ってきた人の葬儀にも行ったなあー。」という感慨もございますね。
思い出して、「あの人、懐かしいなあー。あの人、今頃どうしているのかなあー。」なんて思ったりします。
仏様は「宿命通しゅくみょうつう」と言って、 その人が、今・どこにいるのか、見えるそうですね。
凡夫ぼんぶの私には、何も見えませんが、 亡き方に対してできることは、「仏法聴聞」ということだと思っています。
亡き方に対してというよりも「お前はどうなんだ?!」ということが正しいと思いますけどね。
また、多くの方から、「先日、こんな出来事がありました。もう少しで、命が危ないことでした。」 というような、「老・病」についての話も、聞かせて頂きました。 
「今は、元気でいるけれど、それも、いつどうなるか分からないですよ。」ということを、それらの人達から、教えられているのでしょうか?
毎朝、本堂で、「正信偈しょうしんげ」のお勤めが日課になっています。           

本堂は、広いですから、思いっきり、声出してもいいところですから、大きな声になることもございますね。
本堂以外のところで、ついつい大きな声で、お勤めすると、わめいているように聞こえたりすることもあるみたいで、 慎みたいものです。
しかし、広い本堂で、お経を読むことは、気持ちがいいですよ。
どうぞ、皆さん、どなたでも、ご自由に「朝事」にも、お参り下さい。
ご一緒に、お勤めさせて頂きましょう。

いつか、テレビを観ていると、山登りしている人を捕まえて、インタビューしていました。
ある六十代くらいの女性が、呼び止められて、色々と聞かれていました。
その女性は、近年、癌【ガン】をわずらわれたようでした。
癌を患ってから、山登りをはじめられたようでした。
病身には、山登りはキツイのではないかと思うと、そうではなく、山登りし始めて、どんどん健康になっていったそうです。
「山は、私にとって、一番のホスピタルです。」「山はホスピタル」と言われていたのが、印象的でした。

それから、私は、時々、本堂で、お勤めしている時に、心の中で、「本堂は、私にとって一番のホスピタル」と、一人思ったりしています。
「お経」や蓮如上人の「御文章」などを拝読することは、「心の栄養」 「心の滋養じよう」になると、教えて頂いたこともございます。
   
毎月、「朝事」でお勤めさせて頂いている「正信偈しょうしんげ」です。

「正信偈」の最後にこういう言葉がございます。
道俗時衆共道心どうぞくじしゅうぐどうしん
唯可信斯高僧説ゆいかしんしこうそうせつ
とあります。
「僧侶も、僧侶でなくても、共に心を同じくして、高僧の説をお伝えくださった尊い思し召しを戴いてくれ」と、親鸞聖人は、 教えて下さったのであります。
そして、その尊い思し召しを戴かれた親鸞聖人のお姿が
「正信偈」です。
「正信偈」の一字・一句の中に、親鸞聖人は生き生きと、息づいておられるのだと、教えて頂いたこともございました。

親鸞聖人は「愛欲あいよく広海こうかい」と言われました。
「愛欲と名誉心に振り回されている。」と告白されました。
日々の生活の根底に流れている煩悩ぼんのうは、 「愛欲」と「名誉心」であるとは、よくぞ、ここまで、言い当てて下さった、という気がします。

そして、「仏様のお慈悲は、その煩悩の心に宿って下さる。」と聞かせて頂いています。
「この煩悩の心に仏様のお慈悲は宿って下さる。」と聞かせて頂いていますが、「煩悩の心」とは、一体どこにあるのでしょうか?
それは、私の「煩悩の心」に宿って下さるのです。
「煩悩が無くならないと、仏様は、私のことなんか、こんな醜い煩悩だらけの私なんか救って下さらないだろう。」
そんなふうに、自分勝手に、仏様のお慈悲の心を他人行儀たにんぎょうぎ にしていたのが、今までの私でありました。

この煩悩が無くなってから、救って下さるのではなく、「この煩悩の心に、仏様のお慈悲は宿って下さる。」のでした。

やみ虚空こくう無遍在むへんざい
広野こうやをさまよい 無量劫むりょうこう
やれうれし本願ほんがんの月
希望を乗せて さしまねく」

長い間、どこか遠くに仏様を探していたのでした。

「そらごとと 思いし 浄土が 
まことにて
まことと 思いし 娑婆が 
そらごと
み仏は 
いまだ 見えざり 
聞く度に 
いづくに おわすと 
空をたずぬる
み仏は いづくに おわすと
聞き抜けば
求める前に
抱かれてあり 」

しかし、日々の生活に追われて、仏様のお慈悲のことは、忘れがちです。
しかし、お念仏となって、私の口から、 称名念仏しょうみょうねんぶつの声となって、出て下さいます。

私が称えている念仏ではありません。
「称えさせて下さる、お念仏」でした。

昔、「私が称える念仏がどこにあるか!称えさせて下さる方があるから、称名念仏するのではないか!」
一喝いっかつした 高僧こうそうがおられたそうです。

「聞くことも南無阿弥陀、信ずることも南無阿弥陀仏、称えることも南無阿弥陀仏」と味わわれた 方もあります。

本願力回向ほんがんりきえこう信心しんじん」という言葉が、 「聖典せいてん」にございます。

『「信心」にどういう形容詞がつけられているかということに注意しなさい。』と教えられたことがあります。
本願力ほんがんりき』という言葉が 『信心しんじん』の前に、形容詞としてついています。

ある先徳せんとくは諭されました。

「本願力から下さるのだ。信心は、自分がこしらえるものだと思うなよ、 阿弥陀様あみださまの方から与えて下さるものです。
私の心に出るものは、煩悩ばっかりである。
その煩悩ばっかり出てくる心の中へ、『お陰様だなあー。』の味わいが出るのは、自分がこしらえるなどと思うなよ。
阿弥陀様から持たせて下さる味わいだから、『本願力回向の信心』であります。
六字『南無阿弥陀仏』の味が当たれば、『これはなんというお陰様』の味わいが出てくるのだから、『本願力回向の信心』であります。
凡夫ぼんぶの私が、称えようと、私の中にある、汚れたこころから出る念仏ではなくて、 阿弥陀様のお慈悲が宿って出てくる念仏の声ですから、自分がこしらえるものではない、阿弥陀様の 御回向ごえこうなんですね。」と。

「信心も御回向、念仏も御回向」
今から、大きな仏様の御回向の働きの世界の中に、日暮をさせて頂く幸せが、『正信偈』を頂く者の幸せではないでしょうか。

称名念仏しょうみょうねんぶつ」 「お念仏をとなえる」「称」という字について、親鸞聖人は 「はかり」という説明をされています。

はかりというものは、ものの重さを測るものです。
はかりというものは、上に乗せた品物の 目方めかたを、正直に表します。

お念仏がこれと同じです。物がはかりに乗らなければ、 出ないのですね。
阿弥陀様の願いの働き「本願力ほんがんりき不思議ふしぎ」が、私の上に乗ればこそ、念仏が出てくる。
私が出すのではないのですね。

「阿弥陀様の本願力ほんがんりき不思議ふしぎ」が、私の煩悩の心に、宿って下されたからです。
今、仏様のお慈悲の心に、 帰命きみょうさせて頂くのです。

私の方から、帰命する、と言うのではなく、仏様の方から「帰ってくれよ。」と呼ばれているのですね。
 
「阿弥陀様のお慈悲の心をたのみ、力にする。」
「よりかかれよ、衆生しゅじょうのよりかかるのは、仏様だよ。」
「仏様の方から、私に会いたいと、呼ばれている。」

ある御講師に、「阿弥陀様は、私を救うのに、しぶしぶ、嫌々救われるのではない。」と言って頂いたことがございます。
そう言われた時は、本当に嬉しかったですね。
   
一人・一人の人生は、他人に言えない、ため息のような、重い荷物を背負っているのではないでしょうか。
「どうして、私の人生は、こうなんだろうか?」と、思うことはありませんか?
ある人は、「ため息ほどつらいものはない。」と言われました。これは本当に、忘れられない言葉ですね。
ある信者は、「ため息が、弥陀みだにとられて、、、」と歌いました。

ため息、抱えたままで、救われていく。
大きな大きな、仏様のお慈悲の心が、私に働きかけて下さっている。

今までは、「仏様なんか、こんなお粗末な私のことなんか気にかけて下さっていないんだ。私とは関係ないんだ。」と思いがちでした。

しかし、それが、「ひがみ根性」というものでした。
阿弥陀とは「限りない智慧・慈悲」という意味です。私が頼んだから、救って下さる、というようなものは、限りがある智慧・慈悲ですよね。

私が頼む前から、すでに、私のところに来て下さっていた仏様なんですね。

共に、仏様のお慈悲の心を聞かせて頂きながら、「好き嫌い」「善悪」だけの人生ではなく、仏様のお慈悲を、自ら聞かせて頂き、他人に伝える、 「自信教人信じしんきょうにんしん」の歩みをさせて頂きたいものです。称名



最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「痛み」
「イタイ イタイ」
  
自分痛さ だけを 
  
問題にする のではなく  
  
ひとの   
 
心の痛み に 
   
共感できるこころ を
  
大切にしたいなあー   
 
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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