平成28年11月 第61話

朝事*住職の法話

「手のひらを太陽に」

 やなせたかし作詞・いずみたく作曲の有名な歌があります。
「手のひらを太陽に」という歌です。
歌詞を掲載させていただきます。

「手のひらを太陽に」
やなせたかし作詞・いずみたく作曲

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ 
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 笑うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから うれしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
トンボだって カエルだって
ミツバチだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

ぼくらはみんな 生きている
生きているから おどるんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 愛するんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
スズメだって イナゴだって
カゲロウだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

【「手のひらを太陽に」】

この歌を聴くと、不思議とファイトが出てきます。「私は今生きている!今を生きていこう!」という気になります。

人間は大体悩んでいる時は、自分の心は、たいてい、今ではなく、過去か未来に行っているそうですね。
悩んでいるときには、人間は、たいてい、今に心は居なくて、空しく、「あの時はこうだったなあー。」と過去の悪いことを思い浮かべたりしています。
反対に、「これから、このことはどうなっていくのかなあー?!」と未来のことを不安に思ったりしています。
悩んでいる時は、肝心かんじんの今が抜けて、過去や未来にさまよう幽霊になっているのでしょうねえ。

話題は変わりますが、最近お亡くなりになられました、有名な女性・登山家の方がおおよそ次のような意味のことを、生前にテレビで言われていました。
「子供の頃に、初めて先生に連れられて、山登りを体験した。
その時に、先生が『山登りは急がなくていいんだよ。』と言って下さいました。それが印象に残っています。」
「山登りは競争ではない。」ということですよね。また、その登山家は、次のように言われました。
『山登りには、代役だいやくというものはないんです。 あなたが駄目だから、あなたの代わりに別の人に、ということはない。山登りは、あなたが登らなくてはならないのです。』と。    
確かに山登りだけは、自分で登らないと意味ないし、私たちの人生も同じだなと思わずにおれませんでした。
私自身が、今を生きていくことの積み重ねが、生きていくということなんだ、ということですよね。
又、ある先輩から、『どんな時でも平常心へいじょうしんを 失ってはならない。』ということを、強く教えられたそうです。 
確かに、山登りの途中でパニックにおちいっては事故につながりますよね。  日々起こってくる色々な出来事に、いちいちパニックになっていては、出来ることも出来なくなります。冷静に対処していきたいものです。
 
ある念仏者に教えて頂いたことがあります。 
 
「人生は色々なことが起こる。平穏に行けばいいのだけれど、平穏にはいかない。 しかし、そのおかげでお念仏が喜ばれるようになるから、かえって良いことにもなる。  他人の気持ちもよく分かるようになる。」と。
確かに苦労された方ほど、他人の気持ちがよく分かるみたいですね。 
人生には、誰れにでも、順境・逆境というものがありますよね。
 
「浮き沈み うらみ うらまれ このまんま 南無阿弥陀仏の御手の真ん中」
           【藤原 正遠師】
 
人生には浮き沈みというものがございますよね。 
大企業でも、他国の勢いに押されて、かつての繁栄も段々衰えていき、社員の給料もまともに払えなくなっていくこともあるそうです。
時代の波には逆らえないということもあるのではないでしょうか?
その企業が悪いのではないと思います。 
また、反対に、かつては、見る影もないほど衰えていた組織が、段々と繁栄していくこともあります。
私たちは、見かけだけを見て、「うらやましい。」と思いがちです。
しかし、その組織も、不遇ふぐうな時期に【沈みの時代】、辛抱して 陰で努力してきた結果が現れただけなのかも知れません。

他の姿と自分の姿を比べて、「向こうは調子がいいみたいだ。自分は調子が悪い。」という思いは、 貧欲とんよく【貪り・欲望】というものだそうです。
他と自分を比べて、自分を嘆くのは、欲に過ぎないですよ、ということですよね。
しかし、そうは言いながらも、ついつい他と比べて、自分を見て、ため息ついたりしてしまいますが、慎みたいものですね。 

ある奥さんが私に言われました。

「人生には浮き沈みというものがつきものですね。
かつて浮いていても、沈んでいく時が来ますね。
私の知り合いに、ある大企業に勤めていた方がおられました。
その企業が落ちぶれて、その一家は、その地域から引っ越されました。
よく分かりませんが、その地域におれなくなるようなことがあったのでしょう。
人間は浮いている時にこそ、威張るのではなく、こうべたれていなければならないですね。
又、人間は、沈んでいる時は、じっと辛抱していくことが大切ですね。
人生は浮いたり、沈んだりです。それも、一時の状態です。」 
という意味のことを話して下さいました。 
今は繁栄はんえいして、浮いていても、 後には、沈んでいく時期も来るのかも知れません。 
その方は、「浮き沈みは一時の状態に過ぎないのだ。そのときにどういう気持ちで生きていくか? それを真剣に考え実行しなければならないのではないですか?」 
という問題提起もんだいていきをされたように感じました。
 
よく「私は過去にあまり努力して生きてこなかったから駄目だ。」とばかり考え込んで、「これから努力していけば、人生もまた変わっていく。」 ということを忘れることがあります。 
過去の過ちを反省することも大事でしょうけれど、これから努力していくことも忘れたくないものです。 

かつて、仏法の聴聞を長年されてきた方を見舞うことがあった時に、その方は言われました。
「私は、こうして病気して病室に居ても、南無阿弥陀仏の船に乗せられているのですよ。」と。
これは、大変奥深い、その人のお念仏の味わいの言葉だと思います。 

話は変わりますか、言葉と言えば、仏教では言葉についての戒めも説かれているようです。 
 
その中に「悪口あっく」というものがあります。 
普通は「悪口」「わるくち」と読みますが、「荒々しい言葉」という意味も含まれています。
私も、今まで何度か、他人から、荒々しい言葉を浴びせられたことがあります。
そこで思うことがあります。
それはですね、私は、あまりにきつい言い方されたら、「きつく言われたなあー。」 という感じだけが残ってしまって、圧倒されてしまうだけになります。
「相手が何を言いたいのか?」「どうしてほしいと思っているのか?」 ということに思いが至らないいままで、何もケアーしないままに、終わってしまいがちになります。
肝心かんじんなアフターケアーが出来ていなかったなあということです。
相手をそこまで怒らせることがあり、相手がきつく文句を言ってきているのに、何もそれに対応してこなかったことがあったなあー、 と「すまなかった。」と思うのです。
それは、相手の感情的な言い方に圧倒されてしまうからではありますけれど、、。
しかし、それと同時に、私自身が、日頃から相手の身になって考えることが出来ていなかったと感じるのです。
「相手はどれほど嫌な思いをしただろうか?」ということに中々思い至れないものですね。

ある方は、「相手の間違いを指摘してきしようとするときは、 『自分は正しい』という立場に立っている。間違いが許される世界が、親鸞聖人の世界ではないか?」と。

私たちは、世間にある悪いことする人を見て、「あんな悪いやつがいる!」と怒り、憎み、非難します。
しかし、かつてご法話で、「人間は落ちればここまで落ちていくものです。」ということを教えてくれている面もあると聞いたことがあります。
勿論、悪はいけないし、非難されて仕方ないと思います。
しかし、その人は、そういう姿を通して、「人間は落ちればここまで落ちるのですよ。」ということを教えてくれているのだ。
「人間はここまで落ちることが出来るのか?」という問いかけでもあるというのですね。

又、日常生活の中でも、いつもは温厚な態度な方でも、何か自分の気に入らないことが、一度起きれば、鬼のようになって、 相手を責め続けて、いつまでも許さない、ということもありますよね。

又、自分の言いたい文句だけ言って、スカッとしようとするタイプの人もおられるようですね。
何が言いたいのか具体的に言ってくれないで、文句だけ言う人もいます。
「頭が悪いなあー、自分で考えろ。」という意味なのでしょうか?
たまには、それも刺激になり、大事なことだとは思いますが、そういう言い方は「荒々しい言葉」→「悪口」になるのではないでしょうか?

「正しいことは、控えめに言うのがいい。なぜなら、相手の心を深く傷つけてしまうからだ。」
という言葉を聞いたことがあります。

粗悪そあくな言葉でもって人に語って、愚者は勝ったと思う。
だが勝利は忍【忍辱にんにく】を知る人にある。
怒る者に怒り返すはさらに悪しきことである。」
        【「相応部経典」】

お釈迦様を誹謗中傷ひぼうちゅうしょうした者に次のように説かれました。 
「『あなたの家に客が来られ、ご馳走を出した時に、客がその食事を頂かなかったなら、その食事は誰れのものでしょうか?』とブッダが問うた。 
『それは私のものになります。』と言いました。
ブッダは『あなたは今多くの悪しき言葉を並べたが、私はそれを頂かないし、受けない。
だから、その言葉はあなたのものになるしかない。
ここで、私があなたに悪しく言葉を言い返したならば、それは主人と客が食事をともにし、交換するようなものである。  
私はあなたの悪しき言葉を頂かない。』」と。
ブッダは自分だけでなく、悪口を言った相手の両方が救われる道を説かれて、慈悲心を感じます。

ある知り合いは、小学生の息子がいて、その息子が、よく女の子に文句を言われているらしいのです。
そこで、父親は「お前は女の子に何か言われても、直ぐに言い返そうとするな。何か言葉が浮かんだら言えばいい。それまで黙っていろ。」と 忠告したらしいのです。
「言い返すから、また言い返されるのだ。流せ、流せ、流せばいいんだ。」とも言われました。
確かに、その通りですね。目からうろこでした。

ある御門徒が教えて下さいました。

「何か嫌なことに出会ったら、『まあいいか。』とそのまま受け入れる。
『それがどうした。』と居直りを大切に、自分の心を立て直し、組み立てる。
そして、自分の身の丈に会った人生を歩む。」と。

僧侶は相手にしっかり向き合わなければならないと思います。「向き合うこと」これが今後の課題でしょうか。

共命鳥ぐみょうちょう」という鳥は、阿弥陀経に説かれています。
頭が二つで、胴体が一つ・同じという姿の鳥が描かれています。 
「他を滅ぼす道が自己を滅ぼす道だ。」という教えを説いているとともに、「自他はもともと一つなんだ。」という大きな世界を表しているのでしょうか?
仏様の世界は、私の考えの及ぶような世界ではないですが、阿弥陀様の大きな心が、お念仏となって、常に、私の心に働き続けていて下さっています。

お念仏をよりどころに、「私は、今、生きている!」笑顔を忘れず、一時一時を生き生きと、生きていきたいものです。 称名


最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「自分」
見えそうで
  
見えないものは 
  
なーんだ?  
  
自分の短所と欠点
 
自分の
   
こころの底
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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