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平成28年10月
第60話
朝事*
住職の法話
「主人公は仏さま」
あるご婦人が毎年、お寺にご挨拶に来られます。
「娘さんはお元気ですか?近くにお住みなのですか?」など聞いたりしました。
かなり前に、ご主人がご存命の頃、主人と奥さんと娘さんと、三人で寺にお参りになられたことがあります。
それは、私の見た印象では、年頃の娘さんを持つ親として、親子共々に、お寺に参り人生の指針を仰ごうとされているように見えました。
法事でもなく、何でもないのに、「親子で寺に参りますから、お経を読んで下さい。」ということだったように覚えています。
今思うと、大変素晴らしいことです。
昔は親子で色々な問題が起こった時に、お内仏【お仏壇】の前で、子供に説教したりすることが あったようです。
このように、昔は生活の中に、自然と仏教の教えが溶け込んでいたように思います。
『両堂再建 砺波庄太郎』 という本の中に次のような言葉があります。
庄太郎の言葉には
「我が家の主人は阿弥陀様なり、わが身は番頭と心得よ」
「我が家に仏壇があると思うな、仏様の家に住まわせてもらっていると思え」
この言葉からも、主人公は自分ではなく、阿弥陀様が主人公であるということが今更ながら教えられる気がします。
仏さまが、迷い多き愚かな私のために泣いて下さっていたのでした。
仏さまの慈悲の涙のかかった私のいのちなのでした。
このように、自然に生活の中に、溶け込んでいる仏さまを、私が勝手に、「他人行儀」にしているだけなのかも知れません。
法然上人の歌だと聞いている歌に、
「さえられぬ 光のあるも おしなべて へだて顔なる 朝がすみかな」
という歌を聴いたことがあります。
「すべてに、さえられぬ光が注いでいるのに、自分がそれに
盦
(
ふた
)
をしている。」という意味でしょう。
以前も、よくお寺にお参りになられておられたご婦人が言われました。
「仏さまの光は、月の光のように、月の光はすべてに注がれているのに
盦
(
ふた
)
ある身には、月は宿らじ」と。
「仏さまの光はすべてに注がれているのに、自分が、それに
盦
(
ふた
)
をしているのですよ。」とやさしく諭されました。
私は、仏さまが「そのまま来いよ。」と「南無阿弥陀仏」という「名号」となって、 休むことなくはたらきかけて下さっているのに、それには、耳を貸さないで、 「自分は、このままでは救われない。もっと聞かせて頂かなければ、もっと真面目にならなければ、救われないんだ。」と思って、 せっかくのお救いのはたらきを自分では気づかないで、拒否・拒絶しているのかも知れません。
「仏さまを他人行儀にする。」ということも信心の一つの病気なのだと教えられました。
いくら一生懸命に仏法を聴聞しても、頭の中だけで、理解しようとしているだけで、中々自分自身が真に味わうということは難しいことですね。
いくら「親鸞様、ご苦労かけました。親鸞様ありがとうございます。」と言っていても、自分自身が、本当に親鸞様と同じ信心の世界に住し、 心から感謝しなければ、本当に親鸞聖人もお喜びにならないのかも知れません。
親鸞様は、「私を敬ってくれ。」とか、「私のご苦労に感謝しなさい。」とか主張されているのではなく、 「あなたも私と同じ信心の世界に住し、人間に生まれさせて頂いてよかったと、真実の幸せ者になることができましたと感謝する身になってほしい。」と 願われているのでしょう。
テレビで、子供の頃から親元を離れて苦労して、戦争にも参加し、一生を大変な苦労の中で生き抜かれたある男性の話が放映されていました。
その男性曰く「『人生は苦である。』とお釈迦様は説かれた。ある文学者は『人生はいいものだ。』と言われた。
その文学者の方はお金に不自由しない境涯だったので、何の苦労もないように思うけれど、そうではないだろう。
どんなにお金に不自由しないような環境にあっても、苦しみはある。人間は金さえあれば幸せということはないだろう。
「人生は苦なり」ということと、「人生はいいものだ」ということは、裏表のようなもので、同じことを言っているのだろう。
時には死んだ方がましだと思うようなこともあるけれど、自分は幸せだと思って生きていきたいものだ。」
というようなことを、九十歳過ぎて、最高の笑顔で、言われていました。
苦労された方の言葉には、味わいというものがあるなあーとしみじみ感じました。
ある先生から、『親鸞様は、「あなたは本当に幸せですか?」と教えられているのです。』
というお言葉をご法話で拝聴させて頂きました。
そのような言い方はあまり聞いたことがなかった気がして、とても新鮮に、また身近なことに聞こえました。
映画の字幕は、外国語の原文を文法通りに訳せばいいというものではないそうです。
いかに映画を観ている人に、意味がニュアンスがよく理解できて、味わえて、感銘与える表現にするかということも字幕の大事なポイントだそうです。
法を説くことも同じように、聞き手に意味がしっかりわかり、なおかつ感銘深い言い方をすることが大事だと教えられた気がしました。
もちろん説き手が、先ず自分自身がしっかり理解し、味わっていなければならないですけど。
ところで、「あなたは本当に幸せですか?」と聞かれたら、あなたならどう答えられますか?
「幸せな時もあるし、不幸せな時もあるし・・・。」ということになりませんか?
この世は、お釈迦様は、四苦八苦と説かれましたように、「人生は苦なり」と説かれました。
「
法句経
(
ほっくきょう
)
」というお経で、ブッダはこう言われています。
「老いは苦なり、病は苦なり、死は苦なり、人の
別離
(
べつり
)
は苦なり、人憎み合うも苦なり、求めて得ざるも苦なり、 かく一切は苦なりと知恵もて さとらば 人は苦より
免
(
まぬ
)
がれん」
【「法句経」】
また仏教では、「苦しみの原因は何か。苦しみの原因は煩悩である。煩悩とは、貪り【貪欲】と、怒り、愚痴【無智、邪見】である。
これを三毒の煩悩と云う。
人間は三毒の煩悩があるから、色々の悪いことをする。
悪い心を持ったり、悪い行いをするから、その結果として色々の苦しみを招くのである。
苦しみの大なるものは「生」【しょう】「老」「病」「死」の四苦である。
人間に煩悩がなかったならば、人間の世界に、苦しみは無いのである。
お釈迦様は、悟りの上から、人間の苦しみの原因と苦しみの結果を、こういうものであるぞと教えられたのであります。」
と説かれてあります。
所詮、凡夫は「三毒のみ」なのだと教えられたことがあります。
人間は一つのことしか考えられないそうです。
煩悩に振り回されている時は、煩悩しかありません。
しかし、その煩悩に振り回されている最中にこそ、「お前のことを見捨てないんだ、救いたい。」という阿弥陀様の願いは働いていると教えられています。
一番他人に見られたくない、浅ましい姿こそが、真実の私の
自性
(
じしょう
)
であり、
地金
(
じがね
)
であり、
掛け値
(
かけね
)
のない私の姿です。
その一番他人に知られたくない、見られたくない、浅ましい煩悩に狂わされているさなかにこそ、仏さまは「必ず救うぞー。」と
喚
(
よ
)
んでおって下さるのですね。
毎日の生活の中で、目先のことに追われ、振り回され、中々自分自身の心が、どのような動き方をして、自分が何を思い行い、 その結果として、どういう苦しみを受けているか、などと中々冷静に見極めらません。
自分が欲を起こし、「自分の思い通りにしたい。」と強く願い、行い、その結果が来て、「自分の思い通りにならない。」と怒り、愚痴を言い、 不満を持って当たり散らす。
そんなことを繰り返しているような気がしてなりません。
「真実の幸せ者」どころか、「私はなんて不幸なんだ。」と自分の思い通りにならないことを、不幸に思い、怒り、当たり散らしているだけです。
恥ずかしいことです。
先ほどの「法句経」の中の言葉に、「求めて得ざるは苦なり」という言葉がございました。
私自身は、この「求めて得ざるは苦なり」という一句が特に心に響いてくる気がしました。
全く私の精神生活そのままだと感じたからです。
以前、「求めない」ということをテーマにしたテレビ番組がございましたが、その中で、 主役の男性は、「求めないと云うけれど、それは、私もそれまで、求めて、求めていたということがあるんですよ。」 という意味のことを言われていたことを、印象的に覚えています。
その男性は、人生の中で、求めて求めて求め抜いて生きてこられたのでしょうか?
そういう中で、ふと、「自分は求めて求めてばかり生きてきた。」ということに、どこかで、気づかれたのでしょうか?
人間は中々面白い、矛盾した生き物ですね。
求めて求めて生きてきたからこそ、気づくこともあるのでしょうね。
自分が十分求めて生きてきたから、そのことが精算され、「求めることは空しいことだった」と気づき
諦
(
あきら
)
めや
諦観
(
たいかん
)
が起こってくるのでしょうか?
仏さまの教えは、常に、「仏さまは偉い」と聞けば、「私は愚か」となります。
「仏さまは光明無量・寿命無量の金持ち」と聞けば、「私は諸行無常の貧乏人」というように、仏さま教えは、一つことを云う裏に何かが説かれています。
どんなに苦しい中にも、仏さまのはたらきを感じ、その苦しみの中から、立ち上がっていける力を恵まれていくことが幸せということではないかと味わう次第です。
テレビで、七十代後半の夫婦がシェアハウスを作ったという話をしていました。
主人曰く、「人間は最後には夫婦でも別れるし、一人になりますから」と。
そこに80歳の妻を亡くされたという男性が入所してきました。
その男性曰く、「妻に先立たれ、会話も無くなり、娘が心配して、このシェアハウスを
薦
(
すす
)
めてくれた。」と。
そのシェアハウスでは、週に一回はみんなで会食したり、一緒に畑仕事をしたり、人間的ふれあいのあふれたシェアハウスのように感じました。
また、最近は世代の違う人が同居するシェアハウスもあるようです。
一人暮らしの年寄りの家に、若い人が同居して、低価格で提供して、互いに助け合って生活するというシェアハウスです。
事前によくよく互いの生活スタイルを調べたり、性格的に合うかどうかを見たりして同居に踏み込むそうです。
適当な距離感がうまくやって行く秘訣だそうです。
現代世相から色々なことを教えられる気がします。
いたずらに感心しているだけが能じゃないだろう。これは、自分のことでもあるのではないかと感じたりします。
近年、ある男性のご法事がありました。
その男性は妻に先立たれ、一人暮らしをされていました。
奥さんの命日に毎月お参りしていました。
中々の経歴の人で、教養もおありでした。
また、その男性は、仏縁があったのか、真宗の教えを聞き学んでおられたようでした。
ある時、次のような歌を作ったと私に教えて下さいました。
「吹雪吹く
二河白道
(
にがびょくどう
)
を 一人行く」
「
摂取不捨
(
せっしゅふしゃ
)
一人も楽し 冬ごもり」
その人は、妻に先立たれた淋しさを正直に私に話されるような人柄でした。
その淋しさの中でも、「自分は
二河
(
にが
)
【自分の思い通りにしたいという水の河・それが叶わないと怒る火の河。】 そういう
二河
(
にが
)
のただ中に生きている。」 としっかり自分自身の姿を見つめる眼を持っておられました。
また、それと同時に「私は仏さまに抱かれている。」
【
摂取不捨
(
せっしゅふしゃ
)
】 【
白道
(
びょくどう
)
】と一人寂しい中にも、
法悦
(
ほうえつ
)
を感じておられるような方だったと、しみじみ偲ばさせ頂いた次第です。
信心の根本は仏さまのはたらきであり、私の力ではないと、「仏さまが主人公」と教えられます。
御聴聞頂きまして、ありがとうございました。 称名
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】
「思いやり」
イジメ
わるくち
人を非難する言葉は
いやだなぁー
いたわりの言葉は
うつくしい
「思いやりの深さ」を
大切にして 生きたいな
ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌
最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。
「今ここでの救い」
念仏
ねんぶつ
の
教
おし
えに あうものは、いのちを
終
お
えて はじめて
救
すく
いに あずかるのではない。 いま
苦
くる
しんでいるこの
私
わたくし
に、
阿弥陀如来
あみだにょらい
の
願
ねが
いは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人
しんらんしょうにん
は
仰
おお
せになる。
信心
しんじん
定
さだ
まるとき
往生
おうじょう
また
定
さだ
まるなり
信心
しんじん
いただくそのときに、たしかな
救
すく
い にあずかる。
如来
にょらい
は、
悩
なや
み
苦
くる
しんでいる
私
わたくし
を、 そのまま
抱
だ
きとめて、
決
けっ
して
捨
す
てる ことがない。
本願
ほんがん
の はたらきに
出
で
あう そのときに、
煩悩
ぼんのう
を かかえた
私
わたくし
が、
必
かなら
ず
仏
ほとけ
になる
身
み
に
定
さだ
まる。
苦
くる
しみ
悩
なや
む
人生
じんせい
も、
如来
にょらい
の
慈悲
じひ
に
出
で
あうとき、 もはや、
苦悩
くのう
のままではない。
阿弥陀如来
あみだにょらい
に
抱
いだ
かれて
人生
じんせい
を
歩
あゆ
み、 さとりの
世界
せかい
に
導
みちび
かれて いくことになる。 まさに
今
いま
、 ここに
至
いた
り とどいている
救
すく
い、 これが
浄土真宗
じょうどしんしゅう
の
救
すく
いである。
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