平成28年9月 第59話

朝事*住職の法話

「涙に宿るみ仏」

 「涙には 涙にやどる仏あり そのみ仏を法蔵【阿弥陀さまの事】と言う」という法語を聞いたことがあります。 
どなたのお言葉なのかは知らないのですが、心に残り、最近ふと よみがえってきました。
「恥ずかしや 仏を遠くにながめしに 南無阿弥陀仏と 日々に対面」という那須 行英師の味わいの法語も思い出します。

私は「生活即仏法」「生活即念仏」となっているでしょうか?

また、阿弥陀さまは自分とは関係ない。私なんか相手にして下さっていないと思い込んでいないでしょうか?
仏さまは多くの大衆に仏法のご縁を結びながらも、一人の悩める凡夫を救うことに命がけになって働いていて下さると聞かせて頂いています。
私たちは、沢山の聴衆に仏法のご縁を結ぶことが、一人の悩める人間を救う事より価値があると思っていないでしょうか?
勿論たくさんの方に仏縁を結ぶ事は価値があります。
しかし、仏さまは、大衆に仏法のご縁を結ぶことと同じくらいに、一人の悩める愚かな凡夫を救うことに何よりも心を くだいていて下さっているのでした。
「私でも、相手にして下さる、私のようなものを気にかけていて下さる。」「勿体ない事です。」

「観無量寿経」の韋提希【イダイケ】夫人への説法がまさにそれです。
主人を息子に殺され、自分も牢獄に入れられ、絶望のどん底に現われて下さったのがお釈迦さまでした。

「無明のあるところに仏さまのみ教えがある」
岩見 護師の言葉だそうです。
「毒草あるところに薬草あり」という言葉も聞いたことがあります。

さて、話は変わりますが、仏法で「三愛」ということが説かれています。
これは、三つの愛…三つの執着心のことです。
@境界愛─臨終にその愛する妻子、家財等におこす執着 
A自体愛─自分の身体に対する強い執着
B当生愛─死ぬ時に未来に生まれる処についておこす愛着心
の三つの事です。
「当生愛」「私は一人どこへ行くのだろうか?」これが随分苦しいのだそうです。
ここまで真剣に考え解決の道を与えて下さっているのが仏法というものなのでしょう。

毎日、何気なく生きていますが、死というものは、「無常の殺鬼」という言葉のように、背後から突然襲ってくるものだと聞いたことがあります。
日頃から、仏法聴聞して、死の向う今すでに仏さまの方から、お浄土という宿がとってあることを聞かせて頂くことが大事ではないでしょうか。
こんなことを言うと、「生活即念仏」「生活即仏法」になっていないじゃないか?! 
そんなご批判も聞こえてきそうですね。

先徳せんとくが、 「死の解決をすることが、生の解決をすることになるのだ。」と言う意味のことを言われました。
死の解決をさせて頂いて、「この世のことはどうでもいい、自分さえお浄土へ参ったらいいのだ。」 ということでは決してないと思います。
むしろ反対にこの世の今の日常生活に戻って、ご恩報謝の生活をさせて頂くように少しでも努めたいということではないでしょうか。
宗教も少しでも間違ってしまえば、とんでもない方向へ行ってしまう危険性を感じます。

考えてみれば、私も、随分たくさんの方々の死のご縁を見てきました。
それらの方々の無言の教えを無駄にしないように、仏法聴聞に励みたいものと私自身は思っています。
 
近年、あるお婆さんが百一歳というご高齢でお亡くなりになられました。
最近では珍しく自宅で葬儀がございました。火葬場にて読経してほしいというご遺族の希望から、遺族と一緒のバスで火葬場に行きました。
火葬場でご遺体が火葬される前に、読経し、皆で焼香するのです。ほんの短い時間です。
昔、お説教で、「百回、説教聞くよりも、火葬場に行く方がいい。百回仏法聴聞したと同じくらいの価値がある。」 という意味のことを言われていたのを思い出しました。

ご遺族方がご遺体に最後のお別れをされているのをぼんやり見ていました。
息子さんが亡くなられたお母さんの顔を覗き込み、
「ああー!」と嘆きの表情をされたのが、ひときわ印象的でした。

他にも何組もご遺族の団体の方々がおられました。
印象的だったのは、多分奥さんのお骨でしょうか?
その後に、そのお骨のご主人らしき男性が車イスに乗り、手には杖を持って、その遺骨の後ろから、 誰れかに車イスを押されて火葬場に入ってこられた場面でした。
人生の厳しい断面の一場面を切り取って見た気がしました。

そんな時に、ふと、その百一歳でお亡くなられた女性が、月忌参りの時に、必ず「阿弥陀経」のお勤めをされておられたことを思い出しました。
その女性は、四十代の長男を見送り、九十代の主人を見送り、亡き人に対する思いが、とても深かったのかも知れません。
それだからこそ、仏壇での読経をとても大切に思われていたのかも知れません。

私が火葬場で感じたことは、「お経」というものの重さでした。
「阿弥陀経」というお経を、いつも読まれていたお婆さん、お経を読むこということは、とても重いことなのだと、故人に教えられたような気がしました。

火葬場で、お経をお勤めし、帰りのタクシーが来る間、一人ソファーに座り待っていました。
その間に、「お婆さんは、よくお経を読んでおられたなあー。お経のお勤めしておられたことは、こうして今、火葬場でお婆さんを見送った直後でも、 色あせないことだなあー。」と何となく感じたのです。

昔、中国では、お経を石に掘り、後世に残されたものが現在も残っております。
現代のように印刷技術が発達していない時代でもありました。
しかし、お経というものを、そこまで尊び、重く敬っておられた、当時の中国の人たちの信仰心の深さには脱帽するしかありません。
ただ感心するだけではなく、今の私も、その先人の方々が残して下さったお経の心を学ばなければ意味がないと思っています。

それでは、お経には、一体何が説かれているのでしょうか?
仏さまの心、仏さまの願いが説かれているのではないでしょうか。
お経の言葉、またそれらを解説して下さっている 御聖教おしょうぎょうの言葉の重みを噛みしめながら、これからも仏法聴聞に励みたいものです。


最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
 
「迷う」
四方 八方
  
どっちに向いているのか 
  
わからぬままに
  
進んでいる
 
ー迷ッテイルトモ思ワズニー
   
正しい道を たずねて
  
人生の方向を
  
ハッキリさせたいネ  
  
            
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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