平成27年11月 第49話

朝事*住職の法話

「すでに在るもの」

早くも、今年も11月になって、残り少なくなり、何となく、きぜわしい気がします。
ラジオから何気なく聞こえてきた歌の歌詞に、「時の流れの速さなど、横眼でにらんでいればいい。」というような歌詞を聞いたことがあります。
「時の流れが速いとか、そんなことを、いちいち気にするな。」という意味のような歌詞だと感じ、「確かに」と、少し勇気を貰いました。
忙しく毎日、目先のことに追われてばかりですが、
祖師そし親鸞聖人しんらんしょうにんん】の 弟子ということを忘れず、少しでも、恥ずかしくない毎日を送らなければ・・」
ということを思う次第です。
時と言うことについて、ある仏法の先生が言われました。
『「三世さんぜ」というものを考えていることが つみである。』と。
三世さんぜ」とは、「過去・現在・未来」です。
考えてみれば、「こんなになりたい。」という自分の欲望は、今ではなく、「未来」になります。
つまり、「未来」は欲望ということにもなります。
欲望は、自分が「過去」に経験したり、見聞きしたりしたことから、起こってくるとすれば、「過去」から欲望というものが思い描かれる、ということにもなります。
そういう意味からいえば、現在以外の「過去・未来」は、自分の欲望というものと関係しているのかも知れません。
「山のあなた」という詩がありますね。

「山のあなた」
カール・ブッセ 上田敏訳

山のあなたの空遠く
「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。

【山のあなた→山の彼方(かなた)】
【「幸」住むと→幸福な場所】
【尋めゆきて→探しに行って】
【涙さしぐみ→涙ぐんで】

「山の彼方に幸福があると言うので、探しに行ってみたけど、見つけることができないで、涙ぐみ帰ってきた。山のはるか遠くに幸福が住んでいると人は言う。」 というような、何とも、やりきれない、切ない、ため息が出るような詩ですね。
人間の心のあこがれ、迷いというようなものを 暗示あんじしている詩なのでしょうか?
「青い鳥」というメーテルリンク の童話もあります。

「青い鳥」
 むかしむかし、あるところに、まずしい二人の子どもがいました。
 お兄さんの名前はチルチル、妹の名前はミチルと言いました。
 クリスマスの前の夜のことです。
 二人のへやに、魔法使いのおばあさんがやってきて言いました。
「わたしの孫が、今、病気でな。しあわせの青い鳥を見つければ病気はなおるんじゃ。どうか二人で、青い鳥を見つけてきておくれ」
「うん、わかった」
 チルチルとミチルは鳥カゴを持って、青い鳥を探しに旅に出ました。
 チルチルとミチルがはじめに行った国は、《思い出の国》でした。
 二人はこの国で、死んだはずのおじいさんとおばあさんに出会いました。
「人は死んでも、みんなが心の中で思い出してくれたなら、いつでもあうことができるんだよ」
 おじいさんは、そう言いました。
 そして、チルチルとミチルに、この国に青い鳥がいることを教えてくれました。
 ところが、《思い出の国》を出たとたん、青い鳥は黒い鳥に変わってしまいました。
 チルチルとミチルは、つぎに病気や戦争など、いやなものがいっぱいある《夜のごてん》に行きました。
 ここにも、青い鳥はいました。
 でも、つかまえて《夜のご殿》を出たとたん、青い鳥はみんな死んでしまいました。
 それから二人は《ぜいたくのごてん》や、これから生まれてくる赤ちゃんがいる《未来の国》に行きました。
 どこにも青い鳥はいましたが、持ち帰ろうとすると、みんなだめになってしまうのです。
「さあ、起きなさい。今日はクリスマスですよ」
 お母さんのよぶ声が聞こえました。
 目を覚ますと、二人は自分たちの部屋のベッドの中にいました。
 青い鳥を探す旅は、終わったのです。
 チルチルとミチルは、とうとう青い鳥をつかまえることが出来ませんでした。
 でも、チルチルとミチルが、ふと鳥カゴを見ると、中に青い羽根が入っているではありませんか。
「そうか、ぼくたちの飼っていたハトが、ほんとうの青い鳥だったんだ。
しあわせの青い鳥は、ぼくたちの家にいたんだね」
 二人はお互いに顔を見合わせて、ニッコリしました。
 魔法使いのおばあさんは二人に、しあわせはすぐそばにあっても、なかなか気がつかないものだと教えてくれたのです。
おわり

「人間は、失って初めて気づく。」ということをよく聞きますが、すでに在る幸せ【宝】というものに、中々気づけない、不平不満のかたまりの私です。
これが、煩悩ぼんのうの生活ということでしょうか。
つくづく貧乏性な私だと思わずにおれません。
普段の私の生活は、 「今のままじゃ嫌だ。」ということが 基盤きばんになって、未来に欲望を描いていくことの繰り返しです。
ある先生が言われました。
『人間がどうしても、居ようとしないところがある。それは、「今・ここ」だ。』と。
確かに、体は、「今・ここ」に居ても、心は、あちら・こちらと、さまよい続け、決して、「今・ここ」には居ようとしない気がします。
「幸せは遠くではなく、あなたのすぐ近くに在る。どんなに遠くまで探しに行っても見つけることは出来ない。 すでに幸せなのだということに気づくまでは。」
これらの詩や童話から、そういうことを教えられます。
ご法話で、「親【仏】を探して、親探し、くたびれ果てて、親のふところ」という言葉を聞いたことがあります。
すでに、仏さまは、私の親さまとして、すでに私のところに南無阿弥陀仏のお念仏の宝となって届けられていたのではないでしょうか?
人生の色々な出来事や、姿・形を通して、仏さまが、私に、色々なことを教えようとされているのに、私は聞く耳持たないで、 無視し続けてきたような気がします。
現実の人生は、決して夢見続けることを許さない、厳しいつらいことが起こります。
その中にこそ、真実の仏さまに出会うご縁が恵まれているのかも知れません。  合掌

【※ 詩や童話など、一部、関係書籍より、引用させて頂きましたこと、報告し、お礼申し上げます。合掌 】

最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
「よろこび」
よろこび を
  
見いだす「心の眼」を
  
持たなかったら
  
よろこび の
 
まん中に いても
   
よろこび を
  
知らずに
  
終わってしまうでしょう
  
           


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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