平成27年4月 第42話

朝事*住職の法話

「自分は偉い」
 
  
 道を求める上で、浄土真宗でも、教えを聴聞していく上で、色々な落とし穴があるようであります。
一生懸命になればなるほど、人間は、自分の経験や、境地というものに執着し、絶対化し、そういう人ほど、他人に対して、 とても批判的になり、攻撃的な批判をしてしまうということがあるそうです。
これも、「執着」というものでしょう。自戒したいものです。
仏法を聞いていない人の方が、他人に対して、大らかなのに、仏法を一生懸命聞いた為に、返って、大らかさが無くなっていく、 そういうことになれば、悲しいことではあります。
どうして、そういう批判的になったり、攻撃的になるのでしょうか?
その原因は何なのでしょうか?
それは、「自分は、これだけの努力をしてきた。」「自分はこれだけ学んできた。」「自分はこういう体験をした。」 ということに対する執着から来ることのようです。
こういうことは、自分を振り返ってみても、確かにあると反省せざるを得ないところがあるようです。
世間でも、他人をよく批判する人がいますが、勿論、それを聞く耳を持つことも大切ですが、やはり自分の人生体験というものに対する 自信、又は、絶対化、「執着」というものがあるのかも知れません。
こういう態度は必ず他人と衝突するようですね。
自戒したいものです。
仏法を学ぶということは、十年前に分からなかった仏様の言葉が、今は味わえるように育てられた。
無駄に飯を食っているわけではない。
仏様の言葉を少しずつではあるけれど、以前に味わえなかったことが味わえるように、育てられた。
そういう、「死ぬまで、育ちざかり」という、成長し続ける、限りない道に立たして頂くということではないでしょうか。
「自分はもう分かった。これ以上、聞く必要なんかない。これ以上学ぶ必要はない。」ということは、「学びの死」というものでしょう。
自戒したいものです。
つまり、人間は、自分の考え、体験に対する執着というものが、他人から聞く耳を ふさぐ、ということになるということでしょう。
別に学問していない人でも、一見おとなしそうに見える人でも、みんな「自我」を持っています。
「正信偈」に「邪見驕慢悪衆生じゃけんきょうまんあくしゅじょう」 という言葉がございます。
知らず知らず、「自分は偉い。」「自分は賢い。」と思っているのが、私という、「自我」なのかも知れません。
それが証拠に、他人に何か言われると、とても腹が立ちます。聞く耳が持てません。
これは、「私は偉い。」と思っているからなのでしょう。
悲しいかな、私は、「自分は偉いのに、何も言われることはない。」と、無意識に、思っているのでしょう。
しかし、このことを、いくら心がけても、やはり、他人に何か言われると腹が立つことが無くなりません。
どこどこまでも、自分を押し立てていこうとする、自我の強い凡夫であると思わずにはおれません。
ここが凡夫の厄介なところですね。
宗教の役割の一つに、この、『「自分は偉い。自分は賢い。」という「自我」というものを、どうするのか?』という ことがあるのではないかと思います。
結局は、「自分の力を信じている。」ということですね。
「自分は偉い。自分は賢い、自分は利口だ。」と思っているから、他人に批判されると、とても硬くなり、防衛しなければならなくなります。
「あなたは、おかしい。」と言われたら、すぐに反発して、自分を守ろうとします。疲れることです。
「自分では気付かないけれど、自分にも色々な欠点があります。」とは中々思えないもので、反発ばかりしています。
「私の言うことを否定する者は、決して許さない。」と、なりがちです。
そこには、知らず知らず、「仏様を無視」ということがあるのではないでしょうか?これが大きな問題です。
この厄介な自我というものを、如何に始末するのかということが、宗教の根本問題であり、本当に始末して下さるのは、 如来の本願力、南無阿弥陀仏です。
南無阿弥陀仏の名号に遇い、自我がつぶされる、ということは、どういうことでしょうか?
ある信者の言葉に、「阿弥陀様と喧嘩して負けた。」「阿弥陀様と相撲取って負けた。」という意味の言葉があったように思います。
御聖教おしょうぎょうにも、「阿弥陀様が勝った。」という意味合いで、 「勝」という字が使われている箇所かしょがあると聞いたことがあります。
蓮如上人れんにょしょうにんは、 「仏法は無我にて候」と仰っています。
蓮如上人は、阿弥陀様を信じる心とは何かといったら、それは、無我ということだと、はっきり言われています。
「仏法には無我と仰せられ候。われと思ふことはいささかあるまじきことなり。われはわろしとおもふ人なし。」
【「蓮如上人御一代記聞書」】という、蓮如様の言葉があります。
蓮如上人によれば、如来さまの本願力を信じる他力の信心は、無我の心にほかなりません。
如来様に任せるということは、自分が賢いから任せるのではなく、如来さまの智慧と慈悲を頂くことです。
「総体人にはおとるまじきと思ふ心あり。この心にて世間には物をならふなり。仏法には無我にて候ふうへは、人にまけて信をとるべきなり。 理を見て情を折るこそ、仏の御慈悲よと仰せられ候ふ。」という言葉もございます。
坂村 真民さんの詩に、次のようなものがございます。

『大事なこと』

真の人間になろうとするためには  着ることより   脱ぐことの方が大事だ
知ることより  忘れることの方が大事だ  取得することより 捨離することの方が大事だ

『軽くなる』

とにかくも心も体も  軽くなるのだ 捨て果てて 捨て果てて  タンポポの種のようになるのだ

『風』

仏さまの体を吹き抜けてきた風が  私の体を吹き抜けてゆく 時には  烈しく叱り  時には 優しく呼びかけながら
そのたび  私の血が新しくなり  浄められ   風に生かされ  生きてゆく

『光る海』

責めるな  責めるな  決して責めるな  責める心が起きたら  海を見にゆこう   すべてを受け入れ 光り輝く海を

『一番いい人』

何も知らない人が  一番いい  知っても忘れてしまった人が  一番いい   禅の話もいらぬ  念仏の話もいらぬ
ただお茶を飲みながら  鳥の声を聞いたり   行く雲を仰いだり 花の話などして帰ってゆく人が  一番いい
別れたあとがさわやかで  過ぎた時間が  少しも惜しくない人が 一番いい

『ある人へ』

光が射しているのに  あなたはそれを浴びようとしない  呼んでおられるのに  あなたはそれを聞こうとしない
手をさしのべておられるのに あなたはそれを握ろうとしない  お経にもそんな人のことを  書いてあります
どうか素直な心になって  二度とない人生を  意義あるように生きて下さい



最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
「積む」
一つ ひとつ
  
つみあげて
  
何事も しあがる
  
一日 いちにち
 
たいせつに
   
つみあげて
   
自分の人生を 
  
作るのです   
   
   


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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