平成26年9月 第35話

朝事*住職の法話

「自分が正客」

 安心あんじんの世界では、 『自分が 正客しょうきゃく』にならないと意味がありません。 
いくら教えを聞いたと言いましても、「自分抜き」の仏法聴聞では、私自身の救いにならないでしょう。
どこまでも「主観」「絶対主観」ここに自分が立たなければ、いくら沢山のお経を読んで勉強しても、 自分を離れて客観的になったら、いつの間にか流れていきます。
その主観そのもの、だから、別に多く聞かなくてもいいのでしょう。
仏さまの言葉の一句でも頂き切っていけばいいのでしょう。
『お前 助ける。』と仏さまがおっしゃったら、「そのまま助ける。」
「この私をそのまま助けると、おっしゃったのかぁー!」と、自分一身に受けていけばいいのでしょう。
自分がそれに、まともに、要はまともに私一身の上に受けていくということが、宗教の世界の本当に かなめなんです。
それを説明的に聞いて、「分かりました。」と聞いていって、無限に「分かりました。」が増えても、 「分かりました。」と客観性を帯びているのですね。客観性なんです。
これをいくら並べ立てても、自分自身に徹らないのですね、突き抜けないのですね。
これは、智慧第一と言われた 法然上人ほうねんしょうにんなども、 一切経いっさいきょうを五回も読まれたんですね。
我われはいくらお経を読んでも意味が中々分かりません。
我われ凡人とは違って、法然上人はお経を読んでも、三回読んだら分からないところはなかったそうです。
それくらいお経を読んで、よく分かっても、自分一人が救われなかったのですね。
後生助かる道は分からないと悩まれたのが上人だったそうです。
上人は目隠しをして経蔵に籠り、偶然手にした、御聖教の言葉から目覚められた、という逸話があります。
敏感な心故に、後生の一大事の解決の大切さを痛感し、悩み抜かれたのが上人だったのでしょう。
私自身はどうでしょうか?後生の一大事に驚き悩むことも知らないで、のんびりと 安逸あんいつを貪っている 毎日ではないでしょうか?
又、たとえ、仏教の本を読んで分かっても、「自分自身が救われていくとなったら分からない。」という壁は 容易に崩れないのではないでしょうか?
「もう少しなんだがなあ。」と思っている壁を破るのは、自分で思っているほど容易な壁ではないそうです。
今迄仏法の聴聞に費やしてきた労力以上のものが要るのだ、と聞かされたことがあります。
あんまりきつく言われると聞く気が無くなってくるかも知れませんが、素直に聞く、受け容れるということが 大事なのではないでしょうか?
なまじっか自分が一生懸命聞いていると、「自分はこれだけ仏法をよく聞いてきた。」 という高上りの、随分自惚れた、高上りの「ありがたい!」になってしまったりしているのですね。
恥ずかしいことです。
「お前を助ける。」という「如来さまの呼び声」が、主観的に、私一人の上に見えてこなかったら、 いくら仏法の勉強をしても、全て「客観性」になってしまうのでしょう。
「他人事になる」「説明になる」のでしょう。
説明に止まって、『如来さまの真実』にならないのですね。
だから何を聞いても、「浄土」と聞いても、「呼び声」と聞いても、「本願」と聞いても、「阿弥陀さま」と 聞いても、「親さま」と聞いても、『私の・・』とならなければ、『私一人の・・・』とならなければ、こういうように 全てを受け止めていくことが大切だと教わったことがあります。
もちろん、私の言うことは全て教わったことですが、、。
中々自分の血肉化しない。咀嚼そしゃくして、 消化できないところがあるわけですね。
借り物や物真似ではなくて、自分自身のものとならないわけですね。
「分かりました。」ということは、まだまだ「自分が浮いている。」のですね。
「この私」というものが、本当に苦しみ抜く、悩み抜くと、「説明なんかでは胸がおさまりません。」と なっていくのではないでしょうか? そういうところまで苦しみ抜く、自分がどん底まで行くというか、自分の心の悩みというものは、こんな上っ調子で 解決できるようなものとは違うということですね。
たとえば死んでいく前の状態なんていうのは、説明なんか欲しくないわけですよね。
「説明がほしい。」なんて言っている間は、まだ余裕があるということでしょう。
しかし、説明を聞いている間に、「説明を聞いて満足しているようなことでは駄目なんだなあ。」と育てられてきたわけですね。
本当の宗教というものは、説明を聞いているくらいな、そんな生易しいものとは違うことに気づかされます。
だからそこに、「今 臨終」という状態。ただ死ぬというだけではなくて、『今 安心が出来ていない。』という今です。
高い木の上で座禅している禅師が道を歩いている人を見て、「危ない、危ない・・。」と言われたそうです。
すると、道歩いている人が、逆に木の上で座禅している和尚に向かって、「危ないと言うけれど、危ないのは木の上で座禅している お前の方が危ないのではないのか!」と言い返した、という逸話がありますが、何か深く反省させられるものがある話です。
自分自身の危うさが本当に分かっていない凡夫の姿を「危ない、危ない、お前は自分が危ないことにも気が付かないでいるのか!」と 木の上から厳しく諭しておられるのかも知れません。
天下泰平で道の上を歩いている私が、自分自身の足元の危うさにも気づかないで平気で歩いている姿に、思わず「危ない。」と 呼びかけずにおれなかったのでしょう。
だから主観的に聞くということは、ここに座る。そうすると一切の仏法というものは、五十年・百年と生きていく仏法と違う。
『今』『今に向かっての本願の真実』であり、『今の私に向かっての阿弥陀如来のお呼び声』であるわけです。
それだから、『そのままー』と。『直ちにー』と。
『そのまま すぐ来ておくれ。』『そのまま俺【仏】が救いに行っておるぞよ、来ておるぞよ。』
南無阿弥陀仏の呼び声とは、そういうことです。
苦しみのどん底にいる私を、「迎えに来ているぞー。」と呼びかけて下さっているのです。
「俺【仏】が来たぞー。もう心配すること要らんぞー。」と本願の 勅命ちょくめいなんですねー。
ですから、そういう、せっぱつまった境地にいない人は、ただの話として聞こえてきますから、百万回聞いても、 自分のものにならないわけです。
仏法のお聖教しょうぎょうに書かれていることは 一言でもいい、一言でも価値があるわけです。
自分自身がどういう心境で聞いているか?ということが問われているのでしょう。
千差万別で、人それぞれ機縁がまちまちですから、決めつけたことは言えないとは思いますが、自分自身に問いかけているわけです。
万巻まんがん経巻きょうかん全て大悲心」「経々の文字は一々法界身」
お経の言葉は、全て大悲心であり、法界身であり、私を包んでいる大悲の言葉であると教わったことがあります。
全て、この私に説かれているものであったのですね。「私の親さま」が「阿弥陀さま」なのです。
この私とはどういう私なのでしょうか? 煩悩具足ぼんのうぐそくの凡夫が私の姿でありました。
煩悩具足とは最低の私ということではないでしょうか ?
多く知らなけれは安心できないわけではなく、「一言でいい。」「親さま」でいい、「親さまと一緒」です。
絶対主観のところで、苦しみ抜き悩み抜いて、仏さまはどこにおられるのだろう?本当におられるのだろうか? と心細い気持ちでいるとき、そこでも、「親さまと一緒」であったのです。
「そこも俺【仏】がついておるぞよ。お前についているぞよ。二人連れだぞよ。」と呼びかけて下さっているのです。
「私を離れた如来なし、如来を離れて私なし、 摂取光中弥陀せっしゅこうちゅうみだのふところ」
誰の歌か知りませんが、「涼しさや 弥陀成仏の このかたは」という歌があります。
日々の暮らしの只中で味わわせて頂きたいものです。 南無阿弥陀仏   合掌


最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
「ハ イ」
ナマムギ、ナマゴメ、
  
ナマタマゴ
  
ナマムギナマゴメナマタマゴ
  
これよりも 
 
もっと むずかしいものは
   
「ハ イ」
   
ーすなおに 
  
言えないんだよネ
  
  
   
  
   
   


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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