平成26年8月 第34話

朝事*住職の法話

「信心の姿」
 
お盆の季節になってきました。今年も縁ある方が沢山亡くなられました。
その中には、若くて病気になられ亡くなられた方、若くて急死された方、等々厳しい無常を教えられる気がする死も多くありました。
ご遺族の方々には、さぞ悲しい、淋しいことでしょう。いや、そういう言葉さえ白々しく感じられるほどのご心痛のことでしょうか。
浄土真宗では、子供を亡くした信者に、住職がお悔みを言うと、「厳しい御催促を頂きました。」と答えた信者がおられたそうです。
「厳しい御催促を頂いた。」とはどういう意味?どういう味わいでしょうか?
この私は無常ということを忘れ、目先の欲望にとらわれ、後生の一大事をこころに思わずに、暮らしている。
そんな私に「あなたもいずれ、必ずこのように死ぬのですよ。!」と問題提起して下さっているのです。
宗教の世界は、自分を離れた客観的な理論・理屈を学ぶのではなく、「私一人に受けていく。」「絶対主観として受けていく。」
それが宗教というものだと、教えられました。事実、自分が死んでいく時に理屈なんかどうでもいいでしょう?
理屈よりも、もっとせっぱつまった、もっとリアルな死を前に掛け値のない自分の姿を病気に知らされ、何か安心出来るものに対して 切実な願望が起きるでしょう。
私自身、自分自身の死を念ずるときに、初めて浄土真宗のみ教えが聞こえてくる気がします。
長い文章でなくていい、お聖教の短い御文でいい、一句でもい、仏さまの言葉『仏語』を味わい切っていく姿勢が大事だと 教えられることです。
日ごろは、自分自身の無常も忘れ、自分自身の掛け値のない値打ち、自己の能力というものも買いかぶり自惚れています。
そこで、いつも私を導いて下さるのは、信者の姿であります。既に亡くなられた方もおられますが、信者の姿に導かれること大であります。 
ある方が亡くなられました。その方は世間的には御不幸な境遇の方のように見受けられました。
しかし、その方の称えられる念仏を聞いて、いつも心に感じるものが強くありました。
その方はきっと自分の人生の苦悩の中で仏さまに出会われ、苦しみの中にも喜びや安らぎを見出され、味わわれ生き抜いていかれた 信者の先達だったのではないかと想えてくるほどです。
きっとお亡くなりになられるまで、念仏の中に仏さまと共なる心温まる日暮しを送っておられたことと何か深く教えられるものがあります。
その方は他人に教えようとか、他人を導こうなんて少しも思っておられなかったことでしょう。
しかし、こちらが自然と感化を受けるのは、その人に働いておられる仏さまの功徳のお働きというものなのでしょうか。
又、何年も前に亡くなられた方ですけど、浄土真宗の教えを聞くことに生涯をかけられたような同行の方が寺の近所に住んでおられました。
そのご婦人がいつか私に、自分が死にかけた経験談を話して聞かせて下さいました。
そのご婦人がある病院に入院していたら、医師が、「あの患者は容態が悪い。今晩が危ないかも知れないので気をつけて看ていた方がいい。」 と看護婦に、自分のことを話しているのが自分が寝ているベッドに聞こえてきたというのですね。
医師もまさかその当人に聞こえていたとは気づかなかったのでしょう。病人とは、とても敏感なものですよね。  
その時、お婆さんは、ベッドの上で、「今まで、自分は有難い話は山ほど聞いてきたけれど、自分が助かる話は聞いてこなかった。」と ベッドの上で、悔しいというか悲しいというか淋しいというか、何とも言えない気持ちになられそうです。
しばらく、何時間か、ベッドの上で、うなだれていると、『そういうお前だから助けずにおれないと働いているのじゃないか!』 という仏さまの声なき声が聞こえてきたと、はっきり私に話して下さいました。
そういう体験を経て、そのお婆さんは、「仏さまの光の中に住んでいる。」という心境になられたのでしょうか?
いつかも私に、「摂取光明、弥陀のふところ住まい」という自分の心境を話して下さったのでした。
人生は何が起こるかわかれませんよね、一寸先は闇と言いますけれど、私の身近でもそのような死は聞きます。
今でも、世の中には、厳しい闘病生活の中で、本人も頑張り、奥さんも看病に明け暮れて、苦しい胸を抱えて耐えながら 生きておられ方も多いことでしょう。
信心は「仏と共にある。」という信者の信心の姿を通して、常に私たちに仏さまの功徳を発散し続けて下さって いるのです。
私たちは中々仏さまの言葉を聞こうとしません。仏さまの世界は我々の頭では考えられない不可思議の世界です。
しかし、私が気が付かない間から、縁ある方々の信心の姿を通して、私に仏さまの功徳の働きを浴びせかけ続けて いて下さったのでしょう。
東井義雄先生の言葉に「拝まない者も おがまれている 拝まないときも おがまれている」とあります。
私が「仏さまのことなんか知るか!仏さまなんか、ほっとけさんや。」と思っている時も、私のことを念じ続けて いて下さるのでしょう。
その仏さまの願い・働き・力によって、仏さまの方へ私の心が向けられていくのでしょう。
全て仏さまの力・手柄であります。如来さまの方が私を拝んでいて下さっているんです。
教えを通して如来様の「必ず救う」という仰せを、一人称である、「私一人」の「絶対主観」「私が正客」という 立場で聞かせて頂くのですね。
「私の親さま」と味われた信者の方がおられました。
「雨の音 聞く人ありて 雨の音 雨の音 聞く人もなき 空家かな」というように、いくら外で雨が降っていても 私が雨が降っていることに気づかなければ、雨は降っていないのと同じことです。
我れの聴聞は、「如来の仰せ」に遇うということ、「仰せに遇う」とは「南無阿弥陀仏」に遇うということです。
私は気づかなくても、仏さまの働きによって、育てられる、教えを聴聞して「仰せ」を聞かせて頂く、そのための聴聞なんですね。
親鸞聖人は「一念多念文意」という八十六才の時にお書きになられた書物の中に、「凡夫というは無明煩悩われらが身にみちみちて、 欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と、 おっしゃっておられます。
「このような私の為に」と頭が下がる世界が、阿弥陀さまの「決して捨てない、見捨てない。」という 摂取不捨せっしゅふしゃの働きの世界・お念仏の救いの世界なのです。
その摂取不捨の働きの中で、その中で、自分の力いっぱいを尽くして、悔いのない一日一日を生き切っていきたいものだと 思います。     
我亦在彼摂取中がやくざいひせっしゅうちゅう」 『我も光のうちに在り』という「正信偈」の御文を大切に尊く頂く次第です。 合掌
                  
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
「受けとめる」
悲 喜 交 々 
  
ヒキコモゴモ
  
さまざまなことに  
  
であう人生です 
 
さて この人生
   
どんなことに
   
であいますやらー 
  
ガッチリ と
  
受けとめて  
  
生きていこう 
 
  
   
   
   


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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