平成26年6月 第32話

朝事*住職の法話

自然じねんは動詞」
 
 先日母の母の五十回忌法要に参りました。その時に法事に来られた住職さんが、細かいところは違っているかもしれませんが、 、法話の中で、おおよそ次のような話をして下さいました。
アメリカのある企業が、母の日のキャンペーンとして作った、ドッキリ企画で(つまりジョーク)、求人広告をインターネットで出したそうです。
職業の名前は「運命デイレクター」就職の条件は、①年中無休②休暇はない 休憩は無し 年末年始などは特に忙しい ③ほとんど立ちっぱなし④労働時間は週135時間以上⑤医学や調理の経済など色々な知識が要る⑥給料は一切払われません  というものでした。
「これは違法ではないのか?こんな仕事を誰れがするのか?」と聞くと、「これをやってくれているのが『お母さん』です。」 という答えが返ってきたそうです。
言われてみて、そうだと思いました。我々は、忘れておりますが、そういう親のご苦労のお蔭で今日の私をお迎え出来ているのだなあ。
慚愧ざんぎなきを人とせず 名づけて畜生となす」という意味の お言葉が「涅槃経ねはんきょう」あるそうです。
ざんも、「恥じる」という意味や「悔いる」というよな意味があるそうです。
「恥ずかしいなあ、しまったなあ、すまなかったなあ、すいません、、、」という思いがあってこそ人なんだということですね。
人様のお蔭が分かるということが人ということなんでしょう、目に見えないことが分かっていくということが仏さまのみ教えを聞く ということかもしれません。「おかげ」のわかるのが「人」なんでしょうねえ。
ある偉い方が随筆で、「親の葬式の時に、自宅で葬式をした。その時に会葬者が挨拶していかれる。正座してその挨拶のしていかれる方々の 足を見つめながら、親はこれだけの人に支えられて、生きていたんだなあ。」としみじみ思われたという意味のことが書いてあったそうです。
畜生というものは、御恩というものが分からなくなった状態のことを言うとしたら、日々の生活の中で、「自分の力でここまで頑張って やってきたから今があるのだ。」と思ったりすることはないでしょうか?
もちろん、その人の努力というものもあることでしょうし、本人の努力も認めないといけないでしょう。
しかし、そこで思うのですね、「自分の努力の裏に大いなる働きがある。」のではないか?自分自身だけの力で本当にものごとを為し遂げる ことが出来るのだろうか?そういう問題提起も出来るのではないでしょうか?
人間は目に見えないものには中々気づかないものですね。仏さまの働きも目に見えないので中々気づき難いものかも知れませんね。
「本当の合掌は必ず行動になる。」という言葉を聞きました。本当に厳しい言葉だと思いました。
浄土真宗のみ教えでは、「どんな悪人でも必ず 阿弥陀如来あみだにょらいは救って下さる。 親鸞さまも、人間は臨終の一念まで、欲や怒りや腹立ち妬むこころは消えないと、親鸞さまでさえおっしゃっておられるではないか。」 と自分の都合のいいようにみ教えを解釈して、 「慚愧ざんぎなきを人とせず 名づけて畜生となす」という状態になっていないか?
わが身に当てて深く考えてみたいことです。
ある方は「仏教の教えは地図のようなものである。」と言われました。地図を見ると今自分がいる場所や往くべき方角などが分かってきます。
「道標」とか「道しるべ」という言葉がありますが、み教えを聞くということは、絶えず、自分の今居る場所や往くべき方向性を 確認する、「人生の指針をいただく。」ということなのではないでしょうか?
高尚な仏教の理論を学ぶことも、勿論大切なことだと思います。しかし、その通りに自分が日常生活の中で実行出来るかどうかは別問題です。
浄土真宗のみ教えを常に片手に携帯して、地図を見るように、絶えず地図を見て確認しながら毎日の生活を歩みたいものです。
もうお亡くなりになられた方ですが、私の寺の近所にAさんという有難い信者の女性の方が住んでおられました。
仏法聴聞に生涯をかけられたような方でした。身体も少しご不自由な様子でした。一人暮らしでした。
しかし、そのお婆さんは、前向きでした。私にも、「いくら遠くても仏法の教えの聴聞に行くようでなければいけない。」と強く 言われたこともありました。
そのAさんが、ある日私に言われました。
御院家ごいんげさん、ある法語に 『摂取光中せっしゅこうちゅう 弥陀みだふところ』という言葉がありますけど、 私はね、その後に「住まい」という言葉を付けたんですよ。」と言われて、嬉しそうな顔をされました。
人間は自分が本当に好きなものを他人に言う時には本当に嬉しそうな顔をするものですよね。
たとえば、酒好きの人が自分が飲んだ酒が美味しかったら、頼まれなくても、自然と他人に、 「あの酒美味いよ。ぜひ飲んでみたら。」と紹介したりしますよね、
その時は本人は気づかなくてもほんとに嬉しそうな顔をしているものですよね。
つまり、Aさんは、『摂取光中せっしゅこうちゅう 弥陀みだふところ』に『住まい』をつけて、 『摂取光中せっしゅこうちゅう 弥陀みだふところ住まい』と味わわれていたのですね。
「御院家【住職のこと】さん、私はね、死んでから先ではなくて、今、仏さまのふところに住まわせて頂いているのですよ、 だから幸せなんですよ。」とそっと教えて下さったような気がします。
Aさんは、今思い出しても本当に懐かしい人です。私にとって善知識ぜんちしき 【私を仏法に導いて下さった方のこと】だったとしみじみ思います。
今思えば身近なところに善知識は居て下さったのだなあ。それが見えていなかったのだなあと思います。
色々なお蔭の上に今日の私が在らしめられている。そういう働きを仏教では、 「自然じねん」と言います。 「自然じねん」といいまして、「自然」を「じねん」という時は「動詞」なんだそうです。
私たちを仏法に導いてくれる働きがあって、私たちは仏法を聴聞するようになったのでしょう。
自然じねん」は「動詞」である、ということを味わわせて頂きたいものです。
                                      合掌
                   
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
「いのちかがやく」
光の中に 
  
草も木も
  
虫も 小鳥も  
  
人も 動物も 
 
すべてが 等しく
   
照らされ つつまれて
   
それぞれに
 
いのち かがやいている
   
せいいっぱい 生きている
   
 
 
  
   
    
   


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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