平成26年5月 第31話

朝事*住職の法話

「仏さま中心」

 浄土真宗の流れを汲み、真宗の教えに触れるご縁を頂き、 聴聞ちょうもんさせて頂く幸せ感じる次第です。
 浄土真宗の流れと言いましたが、先祖が残して下さった精神的な財産の一つに仏壇というものがあります。
中には、自分が求めて購入された方もおられるでしょうが、先祖が残してくれた尊い精神的財産です。
仏壇とは、ご本尊が安置されているところです。 
ご本尊とは、阿弥陀如来あみだにょらいです。
教章きょうしょう」の中には、「本尊 阿弥陀如来【南無阿弥陀仏】」とあります。
いくら、ご本尊が安置されていても、この私と関係がないのならば、救いと私はいつまでも無関係になることでしょう。
しかし、ご本尊は、阿弥陀如来、つまり、限りない智慧と慈悲、限りない光明、限りない寿命ですが、 その無限なる智慧と慈悲、光と命が、この私に働きかけておられる。
その働きが名号みょうごう・南無阿弥陀仏となって、 今・ここで、私に働きかけておられるのです。
だから、「教章きょうしょう」の中には、「本尊 阿弥陀如来【南無阿弥陀仏】」と 書かれているのです。
これを南無阿弥陀仏は如来の呼び声であると、先輩たちは味わってこられました。
いつでも・どこで・誰れに対しても・こちらが願うより先に仏さまの方が、この私に南無阿弥陀仏となって 呼びかけておられるというのです。
その呼び声が、この私の心に至り届いて下さったことを 信心しんじんと言いいます。
ある僧侶の方は、六十代で、今までの疲れが一度に出られたのか、大病をされました。
家族には、十中八九助かる見込みはないと、医師から告げられていたそうです。
その後、回復して、仕事が出来るまでになられました。
その方はベッドで色々と心身の乱れが起こり、大変な苦しみの中で、闘病生活の日々を送られたと言います。
その苦しみの中で、浄土真宗の教えを聞かせて頂いてきたことが大きな支えとなったそうです。
死にそうな苦悩の中で、「浄土」というものが心に思われた時に、有難さと共に不思議に、心が にぎやかになられたそうです。
その方が言われるのには、心の賑やかさというものは、他人と一緒にいるから、賑やかなんだと思うけれど、それよりも、 自分の心が賑やかだから、賑やかになるのだと感じられたそうです。
体験者ならではの言葉ですね。
「仏法は一人居て喜ぶ法だ。」という意味の先徳の言葉もありますよね。
人間は孤独を感じると、一人ぼっちということに対して、恐れや恐怖を感じることがあります。孤独は恐いものですよね。
最近ある六十代の男性の葬儀に行きました。  
奥さんが言われるのには、「主人が、今日は体調が悪いから仕事を休む、と言うから病院に行きますか?と聞くと、行かないと言っていた。 それが、今度は本人が救急車を呼べと言いだして、救急車を呼びましたが結果的に亡くなりました。」と言われました。
奥さんの動揺は推して知るべしです。まさに無常という事実を突き付けられたような葬儀でした。
四十九日の法事のときに、奥さんは、「心の整理がなかなか出来ないのです。」と言われました。
色々な感情がおありのように見受けられました。ストレスが溜まるような出来事も近年あったみたいでした。 
そんな無常の事実の前に、難しい注文を出されても救いには間に合わないのではないかと感じました。
仏さまの、いつでも・どこでも・誰れにでも・こちらが願うより先に仏さまの方が、この私に救いの働きをされている。
その働きが名号みょうごうとなって、今・ここで・私に 働いて下さっている。
その教えが私の無常の現実に沿ったものであると、有難く感じさせられた次第です。
他人事ではありません。亡くなられた方に対しても、この私に身を持って無常ということを教えて下さったのですから、 決して無駄にせず、これをご縁にお念仏のみ教えを聴聞させて頂きたいものです。
そこに、日々の生活の中で、仏壇に参り、読経どっきょうし、 仏さまの言葉に触れて、仏さま中心の日暮をさせて頂きたいものです。
ある僧侶の方に質問された方がおられたそうです。
「住職さん、私は毎日、仏壇にお参りしています。それなのに、その上に、どうして寺に参って、仏さまの教えを 聞かなければならないのですか?」と聞かれたそうです。
その僧侶の方曰く、「日々、仏さまの言葉が書かれているお経を拝読しても、透明な仏さまの言葉を自分の煩悩の 濁った心で、汚して、間違って理解しているかも知れない。だから、お寺にお参りして、仏さまの透明なこころを間違いなく 正しく味わうご縁を頂くことが大事なのです。だから、寺に参り聴聞することは大切なのです。」と諭されました。
お互いに、仏さまのみ教えのご縁を頂いています。
このご縁を大切にして、み教えを白紙の心で聞いて、新しい発見を聴聞で体験させて頂こうではありませんか。合掌

                   
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
「私」
三つの「私」があるという
  
自分が知っている「私」
  
他人が知っている「私」  
  
本当の「私」
 
本当の「私」を
   
知らされ
   
味わえる一生でありたい
 

   

   


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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