平成26年4月 第30話

朝事*住職の法話

「変わらないもの」

 四月に入りました。桜が美しく咲いています。毎年、誰れも「咲く時期ですよ。」と教えなくても、自然と咲いています。
その命の不思議に感銘を受けます。自然は人間よりはるかに賢く素晴らしい力を持っていると感じます。
 人間には桜の時期・春の季節もありますが、夏もあれば、秋もあれば、冬もあります。
ただ、春に浮かれていてはいけないよ、冬が来ますよ、と教えられてきた気がします。
しかし、考えてみれば、冬の間じっと地面の中で我慢してきて、やっと春を迎え花咲いたのだとも味わえないでしょうか。
人生も、人それぞれ見た目だけではわからない、一人一人色々な思いを抱えて生きておられるのでしょう。
自分では望んでいないのに、色々な苦悩に巻き込まれ、苦しんでおられる方も確かにおられます。
ある六十代の婦人は、『本当に苦しんでいる時には、人間は未来のことは中々考えられないものなのだ。 今、幸せな人が未来も幸せであってほしいと、 未来のことを考えるのだ。本当に苦しい時は今を耐えて今をしっかり生きていくことから未来を開いていくのだ』と言われました。
その女性は、小学生のころから、家庭の事情で、色々な問題に子どもながらも巻き込まれ、その中をじっと我慢の子で 耐え抜いて大人になっていかれたのでした。
『ぬくぬくとして、何の苦労もなく、生きてきた人が大人になって、はじめて苦しみに出会うと、今まで苦労してきていないから、 自分にふりかってきた苦しみをどう乗り越えていけばいいのか分からなくなって、自分の人生の苦悩に対して、為す術もなくなってしまう。』
『雨降って地固まる、という言葉のように、人生の苦しみが自分を鍛え、地面が固まるのだ。その地面に種を植えることができるのだ。』
『苦労は買ってでもしろ、という言葉があるけれど、人生の苦しみは、地面が固まるためには大切なことで、その上に種が植えられるのだ。』
その婦人の力強い言葉は、自分の苦しい実人生の体験から来るものとして、自ずと説得力を持って迫ってくるものがありました。
桜もただ綺麗なだけでなく、咲くためには見えないところで苦しみを耐えてきたのでしょうか。
しかし、桜の美しさは、そんな苦労もみじんも他に感じさせないところがありますね。
人生を四季にたとえると、生・老・病・死という四苦があります。
先日、ある、ご縁の深い方が亡くなり、通夜・葬儀と会葬しました。
その方の棺おけの中の姿を拝ませて頂きました。深い沈黙・静けさが漂っていました。
自分と近しいご縁の方の死というものは、自ずと、「知った人が亡くなり、段々と淋しくなるなあ。自分もいつかは死ぬのだなあ。」という 気持ちを起こさせます。
自分もいつかは死ぬ、「後生ごしょうの一大事」という言葉があります。
一大事ということは滅多に使わない言葉だ。生前亡き父がそう言っていたのを思い出します。
以前聞いた法話で、『亡くなるとムシロの上に遺体を置いて、みんなで見て、「あわれだなあ。」としみじみ 人生を考えることが葬儀で大切なことではないだろうか?自然と真剣に人生のことを考える機縁となっていくのではないか。』
という話があります。
折りあるたびに、繰り返し繰り返し何度でも思い出すのです。
縁ある方の死を無駄にしない。と言われますが、死に対して深く考える、瞑想するということではないかと思うのです。    
しかし、実際は、縁ある方の通夜・葬儀に会葬しても中々思いが深まるようなご縁にするということは難しい気もします。 
しかし、いつかは必ず自分も死の中に入っていかなければならない、その時は冗談や言い訳などは通用しないのでしょう。
いつかはではなく、今・自分は死と共に在るのではないのか?「常に死王とともに居る」と言われた高僧がおられたそうです。
「今を臨終のように生きよ。」という意味だと聞いたことがあります。
無間心むけんしん」 「無後心むごしん」いう言葉を聞きました。
もう明日は無いのだ、という心境でしょうか?
そういう気持ちで仏法を聴聞しなければならないのだと常に聞かされてきた気がします。
仏法はすぐに死ぬことを言うから若い人が仏法を聞く必要性を感じないのだ、という声を聞いたことがありますが、 「今を臨終のように生きよ」という意味なら、「今を生きる仏法」と味わえないでしょうか?
実際に、先ほどの子供の頃に家庭の事情から大変苦労して大人になられた婦人の言葉にありましたが、 「人間はほんとうに苦しい時は未来のことは考えられないものだ。今を耐えて、今をしっかり生きていくことが素晴らしい未来に つながっていくのだ。」
という言葉のように、人生は今・ここしかない。ということが事実であり、救いとは、常に「今・ここ」の問題として説かれてきました。
「後生の一大事」ということも、突き詰めていけば、「今・ここ」の問題となるのでしょう。
ある先徳は、「あるがままを受け取って念仏申す。これがあまりに地味なので誰れもするものがいない。」という意味のことを言われました。
人生は、あるがままでしかありません。
自分の心の中を見つめてみると、欲も多く、怒り腹立ち、妬む心、憎む心、色々な火事場同然の内容です。
しかし、それを離れて私の実人生も生活もあり得ません。そこにしか私の居るところはないのです。
仏さまの大きなこころを仰ぐとともに、そこに懺悔【ざんげ】のこころも自ずとおこってきます。
私たちは、先立っていかれた方々から何を頂いているでしょうか?本当の拠り所とは一体何なのでしょうか?
「どんなことがおこっても、天地がひっくりかえっても仏さまが私たちを救って下さる事実は変わらないのだ。」
ということを繰り返し繰り返し説法された住職がおられました。
子どもの頃からその法話を何回も聞くご縁を頂いていたある方は、大人になって仕事で色々苦労して天地がひっくり返る体験もされました。
その時に住職さんの言われていた、「天地がひっくりかえっても、仏さまの私たちを救って下さることは変わらない。」という言葉を 思い出されたそうです。仏法のご縁に会っておくことの大切さを教えられます。
仏法は一回聞いただけで、すぐにわかるというものではないのかも知れませんですね。
そこには、たしかに面倒に感じられる面もあるかも知れません。
しかし、私はもう亡くなられた方ですが、ある仏法の研修会で発表された男性の言葉を忘れることが出来ません。
その方は、仕事の帰りに、寺の説教に寄って、仏法を聴聞していたそうです。    
「こんなことして一体何になるんだ!?」と何回も思われたそうです。無駄なことをやっている気がしたのでしょうか? 
それが、仏法を聴聞することを続けていると、「仏法を聞いて、一体どうなるんだ、ということも全く気にならなくなった。」と 言われました。
その人ではないので、私もその人の本当に言いたかったことは何か、いまだにはっきりとは分かりませんが、 不思議な感動を覚えました。
静かな感動と言ったらいいのでしょうか。元々感動なんて、はっきりした理由があってするものでもないのでしょう。
仏さまの大いなるいのちを海とすれば、私の命は波でしょう。
波は海の一部ですね。「波だけくれ。」と言うわけにはいかないでしょう。
「今・ここ」を深く味わい生き抜く立脚地として、私たちのバックには背景には、海のごとく大きな仏さまの救いの働きがあったのでした。
                   
最後に 「人生のほほえみ」【中学生はがき通信】の言葉から、一部紹介させて頂きます。    
【『人生のほほえみ』波北 彰真 著 本願寺出版社より】 
                             
「本番」
今年こそ本番
  
今日こそ本番
  
  
  
今こそ本番
 

   

   


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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