平成25年9月 第23話

朝事*住職の法話

「自己の愚かさ」

昔聞いた、逸話ですが、ある方が「阿呆あほう」 という言葉を壁に掛けていたというのですね。
ちょっと常識で考えると、「この人は頭がおかしくなったんじゃないか?『阿呆』という言葉を壁に掛けて、それを見て 喜んでいるなんて、これだから宗教には、ついていけないのだ」と思うでしょう。
この方は、確か、「阿呆」という言葉を拝んでいたというのです。これは一体どういう意味なのでしょうか?
これは、味わいの上からのことで、理屈で考えると、奇人・変人になるでしょう。もちろん味わいの上からだということです。
人間という者は、自分の能力というものを知らず知らず買いかぶり、高上りしているものなのではないでしょうか?
自分の力で何でも理解できるものだ。努力さえすれば分からないことはないと、思っているものではないでしょうか?
しかし、実際はそういうことはありません。自分で分からないことは沢山あります。
阿弥陀さまのことを「不可思議光如来ふかしぎこうにょらい」と いいます。
「不可思議とは、自分ではよくわけは分からなくても、そのようになる」という意味だと聞いたことがあります。
自分が全て理解できなくても、この世も、自然界もある一定の法則の元に、自分が理解しようがしまいが、 動いているということもいえましょう。
み教えを聞くということは、自分の阿呆さ加減を知らされていくものではないでしょうか。
「阿呆」という言葉を壁に掛けておられた人は、きっと喜びの上から、そうされていたのではないかと思うのです。
自分の阿呆さを知らせていただいたのは、そこに仏さまの智慧の働きがあると味わわれたのではないでしょうか?
私は、煩悩ぼんのうという、どうしようもないものを抱えています。
しかし、仏さまは、そんな愚かな私たちを決して馬鹿にされたりはしません。
むしろ、仏様は私たちを敬っておられるというのです。
「あれは仏様だ。仏様が煩悩ぼんのうで迷っているのだ。惜しいことだ」と。
そう聞かされますと、もったいないことです。日々、煩悩ぼんのうさいなまれながらも、仏さまに、仏様だと敬われているとは。
森ひな という信者が、子供たちの為に、自分の教えを聞いた味わいを残しておこうと思い、歌を残されました。
その一節に
「わが機ながめりゃ あいそもつきる わが身ながらも いやになる ああ はずかしい なむあみだぶつ」
(「機」とは人間のこと)
という一節があります。
鈴木大拙という方が、その 森ひな さんの歌を見て、森ひなさんに会いたくなり、会われました。
鈴木大拙さんは、森ひな さんに
「ここに、わが機ながめりゃ あいそもつきる、という唄あるが、こりゃあんたの 煩悩ぼんのうやろ。朝から晩まで出る 煩悩ぼんのうのことを、あんた言いなさるんやろさけ、この 煩悩ぼんのう、半分わしにわけてくれんか」と、たずねられました。
それに対し、森ひな さんは
「こりゃあげられん」と。
鈴木大拙氏曰く
「あんた、わが身ながらもいやになる 煩悩ぼんのうなら、半分くらいわけてくれてもよかろう」と。
森ひなさん曰く
「これはあげられん。」
鈴木大拙氏
「なんでや?」
森ひなさん曰く
「この煩悩ぼんのうあればこそ、この 煩悩ぼんのう、照らされてはあゆましてもろうとるやが。 十劫の昔から、この煩悩ぼんのうにかかりはててくださった親さまやも。       
いまがいまとて、この煩悩ぼんのうとは、ほんとうに あさましい横着なもんや。その煩悩ぼんのう、見せてもろうては、 懺悔ざんげさせてもろうとるさけ、あんたにわけてあげられん」と。
鈴木大拙氏曰く
「ああそうじゃ、あんたにわけてもらわんでも、ワシャあんたよりか、二倍も三倍も 煩悩ぼんのうもっとるぞ。いのちのあるかぎり、この 煩悩ぼんのう見せてもろうていこうね」と、おっしゃった。
教章きょうしょう」の中にも、 「慚愧ざんぎ歓喜かんぎのうちに」という言葉がございます。
阿弥陀如来の救いに出あえたことは、この上なくよろこばしいことです。親鸞聖人は、そのよろこびを、 「とてもあうことは難しく、聞くことも難しい教えに、既にいま、あうことができ聞くことができた」と述懐されています。
私の努力ではあうことなどできない仏法に、あうことができたと、 「よろこばしいかな」と、こころの底から 吐露とろされています。
また、救いのよろこびを吐露とろする親鸞聖人が、 「悲しきかな」とも述べられています。
信心をめぐまれて救いの中にあり、 往生成仏おうじょうじょうぶつ決定けつじょうした仲間 「正定聚しょうじょうじゅ」になりながら、 そのことをよろこばず、たのしむこともない、恥ずかしく、 なげかわしいわが身であると述懐されるのです。
阿弥陀如来の救いを聞くことは、安心を得ますが、同時にその救いをよろこべない私がいる事実も 知らされます。
そこには、このような私を救う阿弥陀如来であったかと、さらに救いのよろこびが深まります。
信心のよろこびは、「慚愧ざんぎ歓喜かんぎ」がとめどなく深まっていきます。  
【『生命の大地に根を下ろし』松本梶丸 樹心社
 『浄土真宗 必携 み教えと歩む』本願寺出版社
  を参考にさせて頂きました。】

最後に 「森ひな」さんの歌から、一部紹介させて頂きます。    
【『生命の大地に根を下ろし』  松本 梶丸師 樹心社】 
                             
「森ひなさんの歌(一)」
おさないときより
まいりはすれど
なんのきもなく
きいていた
われのこころの
なやみのために
おてらまいりに
ふみだした
われのちからで
でるとはおもうた
そうじゃなかった
おやちから
たりき たりきと
おもうていたが
おもうたこころが
みなじりき
いやになるような
ざまたればばに
ついて はなれぬ
おやござる
ああ ありがたい
なむあみだぶつ
あみだによらいと
親子になれど
ときどき ぼんのうが
でてならん
ああ はずかしや
なむあみだぶつ
おもいだしては
きはいそいそ
うれしあまりに
うたをかく
われでかかれず
わがこにかかす
ともによろこび
ふでをとる


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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