平成25年7月

朝事*住職の法話

「仏さまの智慧の灯火ともしび

ある先生の問題提起です、『悪いと知って悪いことをする人と、悪いと知らずに悪いことをする人と、どちらが罪が 深いでしょうか?』
たいていの人は、おそらく、悪いと知っていながら悪いことをする人の方が、悪いと知らないで悪いことをする人よりも、 罪が重いと言うはずです。
しかし、仏さまのことを「一切知いっさいち」 ともいうのでございます。一切知者いっさいちしゃとは、 「すべてを知る者」という意味でございます。
仏さまというものを拝むときには、すべてのことをお見通しであるお方というふうに頂くべきなのですね。
だから、自分は知らないで悪いことをしたのだから、罪が軽いということにはならないのですね。
無知むちということがいかに罪が重いかということを 知ることが大事になってくるのですね。
悪いことをしたかしないかよりも、悪いと知っているか知らないかということの方がより大事なんだということですね。
悪いと知っていて悪いことをする方が罪が深いと考えている人は、悪いと知ったら悪はすぐやめられると思っているからです。
悪いと知らないで悪いことをしている人は、知らないからやむをえないと許しているわけでございますね。
だけど、本当にそうでしょうか?という問題提起なんですね。
悪いと知っていることはやめられるでしょうか?
もし、悪いとわかっているなら、悪いことがやめられるのなら、 世の中は、もっと悪が少なくなっていくはずでしょう。
ところがなくならない、悪いとわかっていながらやっている人がいるからですね。
身近な、たとえでいいますと、たばこは体に悪いと知っている、わかっている。知っているけれど、やめられない。
「わかっちゃいるけど、やめられない。」といいますけど、まさにその通りの私の姿ですね。
確かに人間は、悪いと知ったらやめるというほど簡単なものではないですね。悪いと知っていても悪いことをしたがるのが 人間というものですね。
人間は悪いことと知れば悪いことをしなくなるのではない。悪いと知っていても悪いことをするのが人間ですね。
そこで、同じ悪いことをするにしても、知っていてするのと、知らないでするのと、どっちが罪が重いでしょうか?
悪いと知っていてやっていると、「私は悪いことをしているけれど、今日は少し止めておこう。」という慎みというものが起こる かもしれないけれど、知らないでやっている人は、悪いという自覚がありませんから、やめようという気にもならないわけですね。
だから悪いと知らないと、ずっと悪いことをし続けるということになります。考えてみれば、ずいぶん迷惑なことですよね。 自分のこととして考え、反省してみたいものです。
そこで、仏教では、知恵というものを 大切にするけれど、一面、人間が自分のしていることを悪いと知らないということの怖さを説いていると思います。
阿弥陀さまは、お立ち姿でございますが、無知むち無知むちと知らない凡夫を見ておれないと、立っておられるのでしょうか?
ある家で色紙が掛けてあり、その色紙に書いてあった言葉に、『若者来た道 叱るな 年寄り行く道 笑うな 思いやりこそ 人の道』と ありました。
他人の姿を見ていて、確かに、過去の自分のしていたことと同じことをやっているなあ、今思うと本当に迷惑なことだったんだなあ、 と思うことがあります。
自分の姿を他人がしてみせてくれて、私に「あなたも、これと同じことをしてきたのではないですか?」と問われている気がすることが ございます。恥かしいことです。その人を単純に怒れない、批判出来ないものがございます。
「共に、凡夫のみ」ということでしょうか?他人に迷惑なんかかけたことなんかないと、言い切れる人がいるでしょうか?
以前のご法話で『善人は善をしながら悪所に生れ、、、」という言葉を聞きました。もちろん善をおこなうことは大事なことですし、 善は行わなければならないし、悪は止めるべきです。
「仏教とは、善いことをして、悪いことをやめて、心を清くする」という言葉もあります。
しかし、いくら善いことをしても、そこに「私は善人だ。私は善いことをしているのだ。」という自意識がくっつくと、 他人から見て、鼻持ちならない悪臭を放ってしまう、ということがあります。
だから、善をしながら悪所に生れると言うのでありましょう。逆に、「私は悪い人間だ。」と、 自己を反省する視点のある人の方が人間らしい心を持っている場合もあるのかも知れません。
仏教は「無我」の尺度で見ていますから、人間の純粋でない、不純な行為は鋭く見つめるところがございますね。
もし、自分の心の微細な罪まで、全て照らし出されたら、気が違ってしまうかも知れませんね。 自分の心の醜さを知らされた為に発狂してしまったという話を以前聞いたことがございます。
親鸞さまも、いくら修行をされても、自己の心が清らかに成り切れないと泣かれたのではないでしょうか?
私たちは、いつも仏さまから見つめられているのですね。決して誤魔化せないものがあるのですね。
仏法は自己を厳しく見つめるという視点を大切にしています。
最近は、「自己を問う」とか、「自分たちの体質を問う」という、「自己研鑽」という視点の研修ではなく、 自己を問うことなく、ただのお客さんになってしまっていると、自己を問うことから後退していると指摘された方がございました。
考えなければならないところがそこにあると思います。
親鸞さまは、「教行信証きょうぎょうしんしょう」の 「総序そうじょもん」に、 「無碍むげ光明こうみょう無明むみょうあんする 慧日えにちなり」と、説かれています。
南無阿弥陀仏の念仏を頂く人は、 無明むみょうの闇が晴れて、智慧の眼が開かれます。 智慧が開かれるとは、自分が偉くなるのではなく、自分の 無知無明むちむみょうが明らかになってくるということですね。
この親鸞さまのみ教えを共に仰ぎながら、自己を知らされながら、自己の病んでいること、闇であることを知らされながら、 大地に足をつけて、歩みたいと思っています。
仏と共に、一歩一歩、仏さまの智慧の灯火ともしびに照らされながら歩みたいと思っています。
他人ばかりを責める生活ではなく、もめ事を教材として、喧嘩から、トラブルから 自分で気づかない色々なことを気づかされながら、ザンギと歓喜のお念仏生活をさせて頂きたいと思っています。         合掌
【『仏は叫んでいる』 田中 教照 著 武蔵野大学出版会 から、学ばせて頂き、引用させて頂きました。 有難うございました。  合掌】

「信心の歌」
人のことではありませぬ
早く後生を求めましょう
私一人をお目当てに
深きお慈悲の奥を聞け
聞かねばお慈悲が判らない
身は息災と思えども
無情の風には勝れない
夜昼常に護りづめ
一人じゃないぞ
親がおる


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。





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