平成25年5月

朝事*住職の法話

「自己の値打ち」


「共に凡夫のみ」という言葉を聖徳太子は言われています。
唯仏是真ゆいぶつぜしん」(ただ仏のみ真である)という言葉と裏表の言葉のように感じます。
「仏さまの言葉のみ真実」という意味です。 それが、そのまま「共に凡夫のみ」ということにつながってといるのではないでしょうか。
ある信者は、「仏さまの教えを聴聞すればするほど、自分に値打ちのないことがわかる」と言われました。
仏法を聞いて、だんだん自分が立派になっていく人と、自分に値打ちのないことが知らされてくる人がいます。
どちらが本当の信心の姿でしょうか?
「み仏の鏡にうつる わが姿 落ちる私と知らされる・助かる私と知らされる」という法語を聞いたことがあります。
み仏の鏡にうつる わが姿とは、どんな私でしょうか?おそらく自分でもぞっとするような心ではないでしょうか?
そういう心を持ちながら、平気で他人の欠点ばかり見て、貶しているのが自分の心の姿ではないかと思うのです。
隣の家の障子が破れていると、自分の家の破れ障子から覗いて笑っていた、という話がありますが、 決して他人事とは思えません。
他人の欠点ばかり見ていたら、たとえその人が良いことをしていても、認められないものです。
「凡夫」という言葉は、自分の都合の良いように使っては、仏法を間違って聞くことになるのではないでしょうか。
他人が、自分に対して嫌なことをしたり言ったりすると、「信者のくせに何というひどいことを言うのだ」と すぐ非難しますが、「相手も凡夫なんだ。凡夫だから仕方ない。」と許す方には、中々心が向きません。
自分が何か失敗したり、他人に対して悪いことをしたりしたときは、「凡夫だから仕方ない」と言い訳します。
しかし、いくら、言い訳しても、「道ならぬこと」をすれば、必ず自分自身が苦しむことになると、 仏法では因果の道理を説いています。厳粛なものです。
仏法は自分の都合で聞くのではなく、仏さまの教えは教えのままに聞かなければならないのでしょう。
私たちは、仏様にお育てを受けている、共に凡夫ではないでしょうか。
仏さまのお育てを抜きにして「私が」という「我」が先に出てしまうと、自我の色が出てしまい、仏法が死んでしまう。
一番大切なのは「仏さま」でしょう。仏さま抜きにして、「真宗」も「信心」も「念仏」もないでしょう。
その一番大切な、一番の中心である「仏さま」を抜きに、仏法を味わい、他人に説こうとしても無理でしょう。
ある信者は 「信者は如来様がつくる。人間が人を育てたら、妙なものができる。 学者が信者を育てたら理屈の多いものが育つ。如来様が育てたら信者ができる」と言われたそうです。
先ず私が、仏さまのこころを、そのまま頂き、「尊いことだなあ、もったいないことだなあ、不思議なことだなあ」と、一番根本の 仏さまを仰がせて頂きたいものです。
正信偈しょうしんげ』に
「我も光のうちにあり」
「まどいの眼には見えねども、仏はつねに照らします」とも説かれています。
煩悩によって眼がさえぎられて、仏さまを見ることはできませんが、仏さまは常に私を照らし護って下さっています。

最後に 林 ミサヲさんの言葉を紹介させて頂きます。
『人生の四季』三宮 義信師 永田文昌堂より
林 ミサヲ
 嫁となりて、  浮き世の道は、
 山あり谷あり、  水の流れと我が身の命、
 寸時も休まず  流れゆく。
 流れる流れる  十数年の間に、
 可愛い我が幼子に  四人も先立たれ、 
 その度毎に、  我が身をそぎ取られる
 思いの日々でした。  
 水の流れは目に見える  時の流れは目に見えぬ 
 うっかりむなしく  過ごしてしまう
 しかし、時の流れに  油断はなく
 人の命は消えてゆく  流れ止まらぬ今日一日を 
 うっかり過ごすことは  できない
 うっかりしておれない  粗末にならぬこの一時
 行きて帰らぬ流れに  人生は今が一本勝負 
 コツコツと時計の刻む音  せつなせつなに近づく親里
 年ごとに老いを覚える  身となりて
 み親の里の近きを知る   
 今日もまた助かって  くれよと たのまれて
 口からこぼれるお念仏  
 生かされて真実の中に  今日も生かされゆく 
 尊き八十三年  今朝のうれしさ


ようこそ、お聴聞して下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。





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