平成25年1月

朝事*住職の法話

「お育て」

本年もよろしくお願い申し上げます。

除夜会の時に、『朝事』のポスターを見た人に、朝事のことを聞かれましたので、 今日参ってこられるかなと期待していましたが、来られなかったようです。
今後、朝事のご縁が広がるといいですね。

昨年も色々なことがございましたが、私が個人的に、一番印象に残っていますことは、次の歌です。

『世の中に、おかしきことのあるものよ。死の覚悟無くして、病人に説く。』

という歌でした。

ある方が、病院に、死にゆく病人を見舞い、仏法を説きました。 そのことを師匠に報告されたそうです。その後、暫くして、ある本に 『世の中に、おかしきことのあるものよ。死の覚悟無くして、病人に説く。』 という歌を載せておられました。 それを見た弟子の方は、自分のことだと反省され、 自分の考え違いを深く思われたそうです。

自分が病人を見舞い、自分が病人に教えてあげるのだと、思っていたけれど、それは違っていたのだ。

病人が『人間の姿はこの通りですよ。』と、病人の方が自分に教えて 下さっているのではないか。そのことに気づかれたのだそうです。

昔聞いた話に、ある研修会で、仏教壮年会の方が言われました。

『年取って、何の役に立たない病人は、本人も辛いし、周りの人達も、 看病するのも大変だから、早く死んだ方がいいのではないのでしょうか?』と、真面目くさって質問されたそうです。

その質問に対して、『病人は、自分の最後の命を見せながら、人間の 姿を教えて下さっているのではないですか。それを早く死んだ方が本人も楽だし、 周りの人もいい、なんて、あまりに人間の都合で考え過ぎる。 仏教壮年会の人が、そういうことを言うようでは困る。」と答えられたそうです。

それから、その仏教壮年会会員は、熱心に教えを聞き、とても有難い人になられたそうです。

お釈迦さまは、永遠の世界から、肉体を持って、この世に生れられ、 八万四千の教えを説かれましたが、最も根源的な説法は、この世に肉体を持って出られ、 『死』というものを示したことだそうです。

「死ぬことなんて誰れでも知ってるし、みんな死ぬではないか。」と思いますが、 身近な死に遇うとき、驚きは否定できませんよね。

釈尊は、『この世の中には、何一つとして、真に拠り所となるものはない。』 ということを、自らの死をもって、示されたのです。

そういう気持ちで、改めて、仏さまの前に座ると、また、違った気持ちで、 仏さまの姿が仰がれてくるような気がします。

親鸞聖人の語録を集めた、『嘆異抄たんいしょう』の中に、

煩悩具足ぼんのうぐそく凡夫ぼんぶ火宅無常かたくむじょうの世界は、 よろずのこと、みなもてそらごと・たわごと、まことあることなきに、 ただ念仏のみぞまことにておはします』とあります。

「自分は煩悩にまみれた凡夫であり、この世は燃えさかる家のように危険極まりない無常の世界であってみれば、 すべてのことはみなうそ偽りであって、真実なるものは一つもありません。 そうした中に、たった一つ念仏だけはまことのものであります。」
《『嘆異抄 親鸞己れの信を語る』【霊山勝海】著より》
という意味です。

そういえば、先日、法事に行くと、仏壇の横に、色紙が掛けられてありました。 白寿の方の詩のようです。

法語ほうご
誰れにだってあるもんだよ 他人に言えない苦しみが
誰れにだってあるもんだよ 他人に言えない悲しみが
言えば言うほど愚痴になる
思いなおして
見れば
月が出てます 照らします
我もその中 光の中
ああ有難や 南無阿弥陀仏
平成十五年  白寿・・・
【色紙の詩】


娘さんが言われるのには、「母は仏壇に参る時、いつもこの詩を読んでいます。」ということだそうです。

九十才過ぎて、自分の主人のご法事にそういう話を聞くと、なんとも言えない気持ちになりました。

この老婦人も、他人に言えない色々な愚痴があるのだろうなあ。

この人に限らず、みんな、言わないだけで、誰れにも言えない愚痴があるまま、 生きているのだと、ため息のようなものを感じたのです。

仏さまの教えを聞き、自分の姿を、情けない、どうしようもない人間だと、嘆く。

仏さまへの思いが深いほど、自分を責める気持ちは強くなる。

仏さまの前に座った時に、自分の悪を感じ、懺悔ざんげする。

親鸞様の在世の頃にも、既に、「仏様はどんな人間でも救って下さるのだから、 何も反省もしないで、好き勝手に、生きていけばいい。」

と、親鸞様の教えを、誤って聞いていた人たちがいました。

親鸞様が、お亡くなりになって、750年が経ち、正しく教えを聞かなければならないと、 自己を戒めながら行きたいと、新年にあたり、自分に言い聞かせる次第です。

「教章」にも、慚愧ざんぎという言葉があります。心したいものです。

ある本に「今の世の中、ノウハウが流行していて、坊さんまでが、そうなっている。 坊さんくらい、『なるようになる。』という、大らかな生き方をしてほしいものだ。」 とありました。

言っている方が大らかな方なんでしょう。読んでいるこちらまで、 大らかな気持ちになりました。

私たちは、こうして早朝より寺の本堂に集まっています。

これは、永遠なる世界から呼びかけられているからでしょう。

仏さまのこころ私たちに伝わるから、こちらまで不思議に仏さまのことが思われ、 安らかにやるのでしょう。有難うございました。  合掌


最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。





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