2024年3月 第149話

朝事*住職の法話

自信教人信じしんきょうにんしんは報謝の行」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「自信教人信じしんきょうにんしんは報謝の行」という題にしました。
 これは、「見真」2024年令和6年3月号に掲載していただいたものです。

  自信教人信は報謝の行   光西寺 住職 長上弘雅

 80代の男性が自死された。
 医師から体について色々と言われ、今後の人生を悲観してとのことだった。
 奥さんは、「私には、主人の看病する気持ちはあったのに、80代なんだから、もう少し頑張れなかったのか?」
 「長年一緒に生きて来たのに、何故、私に何も相談せずに、一人で逝ってしまったのか?」など、堰を切ったように辛い思いを吐露され、言葉を詰まらせていた。

 亡くなられる少し前、ご主人は私にこうおっしゃっていた。
「私の兄弟もみんな体が悪い。街を歩いても、知った人間に会うこともない」「一体何の為に生きているのかわからない」と。  
 私は、「どうぞお寺に参り聴聞して下さい。」と言ったが、寺には来られなかった。  
 情けないことに、そんなに深く悩まれていることにも気づかず、伝えるべきことも言えず、慚愧のみである。

 月命日の時に奥さんがその後のできごとについて話された。
 「長年親しく付き合い、仲の良い奥さんが訪ねて来られて、嬉しくて、今までの辛かったこと、聞いてほしくて、、、、家に上がるように言ったんです」
 「でもその奥さんは『家に上がることはできない』と、冷たく言って、お菓子を投げるように置いて、逃げるように帰りました。ショックで夜も眠れなかった。 真に辛い時に、力になってくれるのが友人というものではないのでしょうか」

  「逆に、そんなに親しくないと思っていた奥さんがお菓子をくださって、『何かあったら言って下さいね』とやさしく言ってくれたんです。嬉しかったです」と。
 「真に辛い時に、力になってくれるのが友人じゃないのか!」と、私自身に厳しく問われた気がした。

 本当に辛い時、他人の心がよく見え、親切が身に沁みることが思われる。
 胸迫り やるせない時、ただ独りの時に、寄り添う心こそが、まことの慈悲のみ仏さまである。

 金子みすずの詩に「さびしいとき」という詩がある。

 私がさびしいときに 
 よその人は知らないの 
 私がさびしいときに 
 お友だちは笑うの
 私がさびしいときに 
 お母さんはやさしいの 
 私がさびしいときに 
 仏さまはさびしいの


「どのような人間であろうと分け隔てなく平等に救う」という阿弥陀如来の本願が、呼び声となって、いつでも、どこでも、誰にでも、今この私に南無阿弥陀仏の名号となって届けられている。
 さびしさと苦悩の底に法光ほうひかる。

 それを拠り所にして生きる者として、苦悩している人に対し、何ができるのだろうか? そんなことを省みずにおれない。
 
※「見真」2024年令和6年3月号より

   
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
*仏さまには他人がない。 
           
*仏様は今私の胸の中に 
           
来て下さっている。  
それに気づかなければ 
来ていないのと一緒だ。  
*南無阿弥陀仏が仏のいのち  
通い来りて私のいのち 
一つの息がお念仏。
*雨の音 聞く人有りて   
雨の音。  
雨の音 聞く人もなき 
空き家かな。 
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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