2024年1月 第147話

朝事*住職の法話

られる者としての
自己」
     
 旧年中は色々とお育てを頂き、有難うございました。
 本年もご教示よろしくお願い申し上げます。 称名

 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「られるものとしての自己」という題とさせて頂きました。
 「本願寺教学伝道研究所ニュースレター あなかしこ」
 第二号に次のように書かれていました。
 
 『教えを学ぶ  出遇いと姿勢   連載 先學にきく 
  知る者として自分を捉えるんじゃなくて 
  知られる者としてある   
  梯 實圓 【本願寺派 勧学】
 
  *真宗との最初の出会いは?

 若いころ、友達と読書会をやってました。その友達が倉田百三さんの『出家とその弟子』を持ってきまして、その本の扉に


煩悩障眼雖不見ぼんのうしょうけんすいふけん  大悲無倦常照我だいひむけんじょうしょうが

 と書いてありました。
 それを見た時に、こちらから見ることはできないけれども、向こうから見られている、常に護られている、そういうのを非常に印象深く読んだ。
 直感的に違う世界があると感じたんですね。
 知る者として自分を捉えるんじゃなくて、知られる者としてある、そういう風な逆転が非常に印象的だったのを覚えていますね。
 年は十八か十九くらいですね。
 仏教に本格的に遇うのは、その後、行信教校へ行ってからですな。

 *行信教校ではどのような講義を?

 遠藤秀善先生の講義は非常に高度で、当時の私にはほとんど分からなかった。
 だけどね、分かりたいっていう気持ちを起こさせてくれる講義だった。
 先生の人徳がそうさせたのでしょうな。
 個人的な指導もいただいた、山本仏骨先生の講義は、非常に論理整然として分かり易い。
 だから、この講義で仏教っていうのが、少しずつ開けていくんです。
 遠藤先生と山本先生、お二人のコントラストが良かったんですな。(笑)
 
 *先生から影響を受けたことは?

 一年の二学期に山本先生から『選択集』の解釈書『指津録』を読みなさいと言われた。
 非常に分かり易くてスッと読めました。
 分かり易いから余計、『選択集』が論理を飛躍して展開しているところに気付かされました。
 それで、この『選択集』の飛躍しているところをちゃんとしたくて、法然教学をまとめようと思ったんです。
 これでその後、教員になって『選択集』を最後まで講義することになったわけです。
 五十歳になって『法然教学の研究』を書いてからは、法然上人と親鸞聖人の違いについて見ています。
 今のところは、お二人が非常に接近しているというか、スッと繋がっていくことがあると思っているんですよね。

 *後学の者へ、励ましの言葉やお薦めの書籍を教えて下さい。

 私には、そういうことをできるようなものは何もないんで、、、。
 今思うのは、もういっぺんあのお経を読みたいなとか、もういっぺんきちっと通読したいなと感じますね。
 お経は、何回も読んだら、そのたびに新しい視点やら、考え方、味わい方というようなものを開いて下さいますのでね。
 まずは、一番肝心の三部経と七祖聖教をもう一度じっくり読まなあかんなと思うんです。
 例えば『大経』(大無量寿経)は、始終読んでいるんですけど、実は読み落としていることがなんぼでもありますわ。
 読んでいるんですよ、言葉では。だけど全然こっちに響いてなかった。
 そういう意味では、何度でも読みたくなりますな。
 もう一つは、いろんなお経や論書をもう一度読みたいなと。『摂大乗論』などをもう一度読みたい。『華厳経』の「入法界品」あたりも。
 しかしね、もういっぺん読むちゅうたって、あれを目の前に置いた途端に、ああこんだけあるんやって。(笑)
 そんなんで、読みたい本ばっかり、そんな感じがしてますな。』
【『本願寺教学伝道研究所 ニューレター あなかしこ』より】
 
 大学者のインタビューですから、少し専門的な言葉が出て読みにくかったかも知れません。
 「僧侶だけが分かる話ではなく、在家の者に通用する話、みんなが聞きたい話」そんな法話が中々できなくて、すいません。力不足です。

 このインタビューの中で、梯 實圓師は、
 「若いころ、友達と読書会をやってました。」と言われていますが、当時は、今ほど色々な仏教の本が自由に購入できる状況ではなかったみたいですね。
 そんな中、苦学されたのでしょう。真似したいです。そんな姿勢を!
 読書会などは、色々な本に出合う貴重な機会だったのでしょうか?
 そんな知恵ある仕組みがあったのでしょう?
 そういう意味では、今は大変仏書に恵まれて、簡単に手に入る時代になったですよね、その恩恵を忘れているような気がします。

 「その友達が倉田百三さんの『出家とその弟子』を持ってきまして、その本の扉に

 「煩悩障眼雖不見ぼんのうしょうけんすいふけん  大悲無倦常照我だいひむけんじょうしょうが

 と書いてありました。

 それを見た時に、こちらから見ることはできないけれども、向こうから見られている、常に護られている、そういうのを非常に印象深く読んだ。
 直感的に違う世界があると感じたんですね。
 知る者として自分を捉えるんじゃなくて、知られる者としてある、そういう風な逆転が非常に印象的だったのを覚えていますね。
 年は十八か十九くらいですね。」
 と、梯 實圓師は言われています。

 ここに、自分が主体ではない視点を感じられています。
 この短い「正信偈」の一説が、若い梯 實圓師に、不思議な衝撃を与えたことを感慨深く言われています。

 「煩悩、眼を障 (さ)へて見てたてまつらずといへども、 大悲、倦 (ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。」

 「〈現代語訳〉 煩悩にさえぎられて、その光明を見ることができない けれども、大悲は怠ることなく常に私を照らして下さる。」

 いまさらながら、あらためて、「正信偈」の言葉の底知れない深さを思います。仏語の重さ、深さですね。

 若き梯實圓師は、「それを見た時に、こちらから見ることはできないけれども、向こうから見られている、常に護られている、そういうのを非常に印象深く読んだ。」
 「直感的に違う世界があると感じたんですね。
 知る者として自分を捉えるんじゃなくて、知られる者としてある、そういう風な逆転が非常に印象的だったのを覚えていますね。」
 と、この「正信偈」の中の一説が、何か、直感的に、違う世界があることを、感じさせたと言われています。

 自分が自分を見ていても、どうしても自分中心的に見てしまうものではないでしょうか?
 自分が自分を評価する時は、どうしても知らず知らず点数が甘くなりがちではないでしょうか?

 仏さまに見られている自分の姿
 「み仏の 鏡に映る わが姿 落ちる自分と知らされる 助かる自分と知らされる」

 仏さまの世界は、凡夫の私が分かる世界ではない。
 しかし、私たち凡夫にはわからない世界から、この凡夫の私に、何か知らないけれど、呼びかけているものがある、働きかけているものがある。
 何かを教え届けようとしている働きがある。
 それを大事にしたい。
 そうでなければ、ただ自己の欲望に身を任せた人生になる。欲望の激流に簡単に流されてしまう。
 若い梯 青年は、それを感じられ、静かだけれど、底知れない衝撃を受けられたのでしょうか?
 我々からは、手の届かない、不可思議な仏さまの世界から、南無阿弥陀仏の名号となって私に仏さまの心を伝えようとしていることが、何となく感じられます。
 『本願寺教学伝道研究所 ニューレター あなかしこ』に、
 次のように書かれています。

 『阿弥陀如来の本願

 阿弥陀如来は「すべての生きとし生けるものを、必ず救う」という本願をたてられた仏さまです。
 私たち衆生を願いの対象とした阿弥陀如来の本願は、ひとり子を想う親の心にたとえられます。
 親は子どもを想い、慈しみの心を向けています。
 私たちは、自らの身をふりかえり、私たちを育ててくれた親の心に気づいたとき、大きなよろこびと、感謝の思いを抱くのではないでしょうか。
 子どもが親の心に気づくよりも前に、親の心は子どもに向けられているように、阿弥陀如来は、私が願うよりも前に、私たちを願いの対象とし、慈悲の心をふり向けてくださっているのです。

 「南無阿弥陀仏」のよび声のなかに

 私たちの人生は、決して平らな一本道ではありません。
 喜びもあれば、避けがたいさまざまな悲しみ、苦しみがあります。
 時には希望さえも見失ってしまうこともあるでしょう。
 しかし、どのような時であっても、阿弥陀如来の本願のはたらきは、「南無阿弥陀仏」の名号となって、常に私を目当てとしてはたらき続けてくださっているのです。
 いつ、どこで、どのような状況にあったとしても、阿弥陀如来の本願は、見捨てずにはおかないと、私をよびつづけているのです。
 今、ここに至り届いている「南無阿弥陀仏」の六字の名号は、はるかなる過去から迷い続ける私たちを救いとる、阿弥陀如来のよび声なのです。
 「南無阿弥陀仏」というよび声を聞きひらいたとき、すでに阿弥陀如来の本願による救いのはたらきのなかにあったことを知らされます。
 南無阿弥陀仏の六字のなかに、つねに私によびかけ、救わずにおかないとはたらき続けてくださっていた、阿弥陀如来のご本願を知り、よろこびのなかで お念仏の毎日を歩むことができるのです。
 (中平 了悟)

 お経の中にも、 「不可思議ふかしぎ」という言葉があります。
 「歎異抄たんにしょう」にも 「弥陀の誓願不思議みだのせいがんふしぎ」とあります。
 親鸞聖人は、どうして、ただ「弥陀の誓願に助けられるんだ。」とは表現されず、「弥陀の誓願不思議に助けられる」と「不思議」という言葉を付け加えられたのでしょうか?
 仏法は、凡夫が自分の力量で理解したというような自分の理解を誇るような、そんな凡夫の世界に引き下げた理屈で救われるのではない。
 凡夫の私の力が無にさせられる世界なのでしょうか?
 自分の手柄など微塵もなく、仏さまの前に阿呆にさせられる世界なのでしょうか?
 「仏さまの功徳(くどく)で救われるのだ。」と、仏さまのお救いの働きを仰ぐことを教えられたのでしょうか?
 「仏法を聞く」ということは、「仰ぐこと」なのだ、「聞くことは仰ぐこと」と教えて頂いたことがあります。
 「仏さまの心を聞く」ということは、「どうか聞いてくれよという仏さまの願い」なのだ、と教えられました。
 以前、ある有難い同行からの年賀状に、
 「法界の風 涼し ただ 仰ぐのみ ただ伏すのみ」
 と書いてあったのを思い出します。
 本年も、厳しい幕開けとなりましたが、辛い時、灯りが見えない時、何が本当のよりどころなのでしょう?
 共に学ぶ一年でありたいです。
 本年も、ご教導、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
   合掌 称名  
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
*衆生病めば、 
           
則ち菩薩も病み、 
           
衆生の病いゆれば、  
菩薩もまたいゆ。 
【『維摩経』】  
*こまった時にゃ  
お念仏に 
相談しなされや。
【源佐 同行】   
*有難い、  
恥ずかしい、 
もったいない。 
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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