2023年12月 第146話

朝事*住職の法話

大悲だいひの中にある」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「大悲だいひの中にある」という題とさせて頂きました。
 浅井成海師の言葉に次のようなお言葉がございます。 出処しゅっこ【どの本に書かれているのか?】はよくわからないのですが、ここに紹介させていただきます。
 
 『かぎりなき 光をうけて ここにあり

 仏語の重さ                      浅井成海
  深い悲しみにであうと、重い沈んだ心となって弾まない。
 大きな心配事があるとどんなに美しい花を見ても心は閉ざされる。
 そんなときに、一句の仏語にであうと、ぱっと光がさしこみ、そうであったかと知らされる。
 世界がひらける。
 光をうけるということは仏語とであうことである。
 仏語にであうということは、仏心とであうことであり大悲の中にあることを知ることである。
 一句の仏語は、無限のひろがりをもって、私の心にとびこみ私をつつむ。  (浅井成海)』

 仏語 仏様の言葉というものが、私の常識、理屈 等を、はるかに超えて、光に出会うことになることが示されています。

 「一句万劫まんごうかつす。」
 という法語を思い出します。

 仏様の言葉は、たとえ一句であろうとも、 「一句の仏語は、無限のひろがりをもって、私の心にとびこみ私をつつむ。」(浅井成海)
 というものであると教えられます。
 
 浅井成海師は
 「光をうけるということは仏語とであうことである。
 仏語にであうということは、仏心とであうことであり大悲の中にあることを知ることである。」
 
 と説かれています。
 ここに、「大悲の中にあることを知ることである。」
 と説かれています。
 
 「今 既に、私は大悲の中に在るのだ。」ということに目覚めなさい、と言われているような気がします。
 「今 既に 私は 大悲の中にある」のに、自分勝手に、大悲の外に出ているのが、私の姿であるということを思わされます。
 今 既に 仏様の大悲の心の中にあるのに、
「どうしたら 仏様を信じられるのだろう?」「どうしたら信心が得られるのだろう?」「仏様はどこにおられるというのだろうか?」
 と自分勝手に、仏様の心の外に出ているのが、私の姿のような気がしてなりません。


 ある説教で、次のような問答を聞きました。
 「お前は 今 どこに居るのか?!」
 「摂取光中弥陀せっしゅこうちゅうみだのふところ」

 実際問題として、
「お前は 今どこに居るのか?」
 と問いかけられたら、どう応えることが出来るでしょうか?

 ある浄土真宗の教えを深く喜ばれていたお婆さんは、
 「摂取光中弥陀せっしゅこうちゅうみだのふところ住まいです。」
 と味わわれて、生活されていました。

 浄土真宗では、阿弥陀様の救いのはたらきを 「摂取不捨せっしゅふしゃ」という言葉で説かれています。

 小林 顯英師が「摂取不捨」について説かれていましたので、紹介させていただきます。

 『 許せない
 阿弥陀如来様のすくいのはたらきを、 「摂取不捨せっしふしゃ」 という言葉であらわします。
 摂取とは、どれほどにげようとしても、決してにがすことのないはたらきです。
 不捨とは、一度つかまえたならば、二度と、はなすことはないというはたらきです。
 ですから、阿弥陀如来様のはたらきが、摂取不捨であるということは、どんなことがあっても、決してあなたを見捨てることはないから安心せよ。
もし、一人ぼっちにするようなことがあるなら、阿弥陀とは名告らないとおっしゃったのであります。
 ところで、「不捨」つまり捨てないということは、如来様のお心にそむいて、自分中心にしか生きることのできないこの私を、如来様は、許して下さったということですね、と私におっしゃった方がありましたので、
 私は、 「違います。不捨、捨てないと言うことは、むしろ不許、許せないということです」と言い、次のような話をしました。
 月忌参りに行き、おつとめがすみ、お茶が出ました。お茶うけにチョコレートが出ています。
 いつもはすぐにそばへ来る幼稚園へ通う女の子が、今日は、敷居際で、じっとチョコレートをにらんでいます。
 電話が鳴り、お母さんが立って行きましたので、「いいよ」と言うと、ニッコリ笑って女の子はチョコレートを口に入れました。
 そこへお母さんが戻ってきました。血相を変えて怒るお母さん。
 目に涙を一杯溜めながら泣き声を出さず、じっと私をにらむ女の子。
 私は、子どもだから仕方がない。許してやってと、お母さんに謝りました。
 私は、「子どもだから仕方ない」と許せるのです。なぜでしょう。
 極論すれば、わが子ではないから許せるのです。
 責任を持つ必要がないから許せるのです。
 親は、許せないから育てるのです。しつけとはしつつづけること、と教えていただきました。
 決して許すことができないから、いつも、南無阿弥陀仏と、私にはたらいて下さっているのです。
 自分中心にしか生きようとしない私。
 阿弥陀様は、そんな私を決して好きなわけではありませんが、阿弥陀と名告ったかぎり、親であると名告った限り、決して見捨てることがないと、はたらいて下さっております。
 決して見捨てることなく、育てて下さってある喜びを、大切にしたいものです。 『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より

 仏様の救いというものも、こちらの受けとめ方次第で、間違って理解される場合もあるということを、厳しく教えられています。

 親鸞聖人の御和讃の中で、最も有名なご和讃で、法座のたびに歌う 「恩徳讃おんどくさん」という和讃がございます。

 「如来大悲にょらいだいひく恩徳おんどくは  にしても  ほうずべし
 師主知識ししゅちしき恩徳おんどくも ほねをくだきても  しゃすべし」
 
 仏様の救いを聞かせていただいた者のあり方を示されたものだと思い、この和讃の心は、一体どういう心だろうと思っていました。

 浅井成海師のご法話から味わわせていただきます。

 『 「恩徳讃」では、「身を粉にして」「ほねをくだ」くとあります。
 それは、お返しできないほどのご恩を受けているということを表します。
 一般には、どなたからか何か結構な品物をいただいた折に、早速「有難うございました」とお返しをいたします。
 お返しをすれば、気持ちも落ち着いて「よかったな」と思います。
 これを 頂戴ちょうだいすれば必ずお返しをする「give and take」【ギブ アンド テイク】の思想と表します。
 しかし、大きなご恩を受けてそれに感謝していく報恩の思想は、お返ししたから それでそのめぐみに対する報謝は終わったと考えるのではなく、「お返しすることはできません。それほど大きなご恩を受けています」と、 報謝する思いなのです。
 表面的に考えれば、「身を粉にしたり、骨をくだくなどできません。そんな無理なことを親鸞聖人はおっしゃるのですか」ということになりますが、そうではないのです。
 深く深くそのご恩を慶ばせていただき、感謝する思いなのです。
 では、give and take ではなく、返しきれないご恩を受けたというめぐみとは、何を言うのでしょうか。
 
 お念仏のみ教えに遇う者は、阿弥陀仏の願心にお遇いすることができ、新しく浄土への歩みが始まるということです。
 いかなる悲しみや苦しみに遭うことがあっても、それだけでなく、賜ったこの命の尊さに感謝し、たとえ命終の時を迎えても、浄土(報土)への往生が約束されていることは、新しく命をいただいて無限に活動を させていただくことであり、さらに浄土に往生するものは再び迷いの世界に 還来げんらいして、縁ある人びとを導かせていただきます。
 すでに述べたように、浄土に往生することは、燃えさかる煩悩の火が吹き消される寂静の境地に到ることなので、必ず滅度に至るとお教えいただきます。
 さらに、このお覚り(おさとり)の内容により、 還相回向げんそうえこうを述べられます。
 
 還相回向げんそうえこうについて示される和讃は何首かありますが、  

「 往相・還相おうそう・げんそう回向えこう
 まうあはぬ になりにせば
 流転輪廻るてんりんねもきはもなし
 苦海くかい沈輪ちんりんいかがせん」
 
 「阿弥陀如来の往相 還相の二種の回向にもし出遇うことがない身となったならば、
  いつまでも迷いの世界をめぐり続けて、 生死しょうじの苦悩の世界に沈んでしまうのをどうしたらよいのでしょうか。」
 
 と讃えられます。
 これからも迷い続けていく身でありましたのに、往相も還相もすべて如来より廻向されるみ教え遇わせていただき、もう六道輪廻(ろくどうりんね)は断ち切られのです、とお教えくださいます。
 この命を賜り、この命を生きる本当の慶びを頂きます。
 このように、「三時讃」の内容は親鸞聖人のみ教えのすべてを表し、この世に命を賜った本当の慶びに気づかせていただきます。
 それゆえに、返しきれぬみ教えのご恩をいただいているのです。
 「恩徳讃」を大声で唱和しますが、われわれは実はこのような深い慶びをお讃えしているのです。』
 【月々のことば 平成二十二年より】 本願寺出版社

 ここに「この世に命を賜った本当の慶び」とございます。
 私の喜びとしているものは一体何だろうか? 
 それを問わずにはおれません。
  ほろびていくこの身の幸せのみではないだろうか?
 煩悩の喜びより知らない生き方をしているのが、この私ではないだろうか?
 そんな享楽的な煩悩の喜びしか知らない私に、南無阿弥陀仏の名号、「あなたを必ず救う」という「仏様の呼び声」が届けられているのでした。


 御園生 宣尚師のお言葉を紹介します。
  『喚び声
 浄土真宗では南无阿弥陀仏を、「弥陀の喚(よ)び声」と解釈します。
「呼」でなく「喚」と書きます。
 「招喚(まねきよばう)」の声だからです。
 「阿弥陀さまは私をいつでも、『そのまま参れよ』と招いてくださっている。」
 「私はお浄土で親様に待たれている」
 という喜びから自然にわき出た解釈です。
目の前の事に心奪われ、用事が何だったか忘れてしまう私がいます。
 日常に追われ、人生の目的を忘れてしまいがちな私。
 そんな私を阿弥陀さまの方が片時もお忘れでないという世界があります。
 私が私の事を忘れていても、阿弥陀さまは一時もお忘れでなく、
 常に喚び続けてくださっているというのが、他力の世界です。』
(「法座の言葉」より)

 法照禅師の 「五会法事讃」のお言葉がございます。

 『如来尊号甚分明  
 にょらいそんごうじんふんみょう
 十方世界普流行  
 じっぽうせかいふるぎょう
 但有称名皆得往  
 たんうしょうみょうかいとくおう
 観音勢至自来迎   
 かんのんせいしじらいこう』
  《五会法事讃》の文
※書かれている文は、親鸞聖人の兄弟子にあたる聖覚法印の 著された「唯信鈔」について、引用されている経文等について注釈したものである 「唯信釥文意」の初めの3文の内、 法照禅師の 「五会法事讃ご」の言葉からです。
 その言葉は、
『如来の尊号、 すなわち南無阿弥陀仏の御名(みな)は、 はなはだすぐれていて、よろずの衆生の 一人ひとりに、あきらかに分け与え届けられている。
 しかも十方世界に あまねくひろまって念仏となって活動して、一切衆生を たすけ導かれている。
 ということであるから、無碍光仏は、 智慧の光となって私たちのうえにはたらき、広大な 智慧である 本願の海に導き入れてくださるのである。』
 という意味です。

 最後に池山栄吉師の言葉を味わって終わりとさせて頂きます。

 池山栄吉師
『 よき人の仰せにききて み名呼べば、 喚ばせたまふ み声きこえぬ

 煩悩をのけた念仏は便所のない別荘だ。
 どんな立派な座敷でも便所がなくちゃ住めない。
 煩悩めあての念仏でこそ、われわれの安住所である。』
 
 
 煩悩や享楽の喜び、すぐ怒り、傲慢で、愚かな私、そんな私に「浄土という光」を、今、私に届け、照らし、 煩悩の喜びより知らない私に、お浄土への道をお教え下さり、死ぬことは滅ぶことだとしか思えない私に「往生浄土」の道をお教え頂き、 「阿弥陀如来あみだにょらい本願力ほんがんりきによって信心を恵まれ、お念仏申す人生を歩み、浄土で真の悟りを得る」
 という浄土真宗のご縁をいただいたことを、深く噛みしめ、遅々とした歩みですが、一歩一歩、み教えに導かれながら歩んでいきたいものです。 
 「み仏と 浄土と 御名の 大悲心 お慈悲なればこそ 
 お慈悲なればこそ」
 という法語も思い出します。 
                    
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
*すべての命をお救いくださる 
           
 どんな私もお救いくださる 
           
その如来さまこそ 南無阿弥陀仏  
称名 
*世の中に 難しい事  
ただ一つ  
自分の阿呆と 
仏の尊さ
*人は、信仰によって激流を   
渡り、精励によって海をわたる。  
勤勉によって苦しみをこえ、 
知恵によって全く清らかとなる。 
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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