2023年10月 第144話

朝事*住職の法話

きびしい御催促ごさいそく
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「厳しいご催促さいそく」という題とさせて頂きました。
 「大乗」令和5年7月号の「結婚して お坊さんになりました 76 前田純代、に『厳しいご催促さいそく』と題して、次のようなご法話が書かれていました。
 
 『厳しいご催促さいそく

  あの日、私は生まれて間もない長男を家族にあずけ、ひとり山あいの川沿いを走る小さな列車に揺られて、友人のお寺に向かいました。
 車窓いっぱいに広がる山の若葉とその緑を映した清らかな川の水面、信じられないほど美しい光景がその日の記憶とともに、以来何度も呼び覚まされることになります。
 友人は私より6つほど若く、ともに机を並べて仏教を学んだ仲でした。
 「将来は実家のお寺を継ぎ、住職として、布教使として、み教えを伝えていきたい」、そんな夢を語っていました。
 その彼が二十代半ばで急逝したと共通の友人から連絡を受け、喪服の用意もできず、黒っぽいワンピースを着て葬儀に参列したのです。
 彼のお寺は山の上の、美しい川の上流にありました。
 総代さんが涙をポロポロこぼしながら弔辞を読まれます。
 「坊(ぼん)は私たちの期待の星でした。ゆくゆくはお寺を継いで、この小さい村を盛り立ててくれると楽しみにしておりましたのに・・」
 友人は次期住職として、ご門徒や家族に期待され大切に育てられたのです。
 最後に喪主の挨拶をしたのは、現住職である友人のお父さまでした。
 ガックリと肩を落として前に立つその姿を目にした私は、胸をつかまれる思いでした。

 住職は静かに口を開かれました。
 「私はお寺の住職として、今までご門徒の悲しみに寄り添ってきたつもりでした。けれども、このたび跡取りである長男を亡くし、自分が今日まで本当の悲しみを知らなかったと気づかされました」
 そしてこう結ばれました。
 「息子の死を機縁として、今後は仏さまのみ教えに息子の死を問い聞いてまいりたいと思います。このたびは誠に厳しいご催促(さいそく)をいただきました」
 このときはじめて、「厳しいご催促さいそく」という言葉を聞きました。
 一体誰が何を住職に催促さいそくするというのでしょう。
 子どもを亡くし耐え難い悲しみの淵に沈ませることが催促(さいそく)とは、当時の私にはあまりに残酷なことに思えました。
 以来何度か、「厳しいご催促さいそく」という言葉を聞いてきました。
 いずれも浄土真宗の寺族やご門徒が、大切な家族、特にお子さんを亡くしたときに語られていました。
 昔から浄土真宗では、思いもよらない悲しい出来事を 「厳しいご催促さいそく」と受け止めてきました。
 これほどの悲劇が起こらなければ、自分は人の命のはかなさを知ることができなかった、お念仏をしようとも思わなかった、というのです。
 その私にアミダさまが「どうか早く命のはかなさに気づき、お念仏しておくれよ」と 催促さいそくされているのです。
 友人が生前、ご法話の中で語った言葉がよみがえります。
 「私の口から出るお念仏は、『何が起ころうとも、必ずあなたを仏にしてみせる』というアミダさまからのよび声なのです」
 「厳しいご 催促さいそく」とは、底知れぬ悲しみのなかでさえも、アミダさまのお慈悲に包まれていることを気づかせてくれる、しなやかで深い言葉なのです。』
 【「大乗」令和5年7月号 結婚して お坊さんになりました 76 前田純代 より】

 このご法話を読んで、心に色々な思いが湧いて来るのを感ぜずにはおれませんでした。皆さんも、きっと同じではないでしょうか?
 「大乗」令和5年9月号 読者のひろば にも感想が寄せられていました。
 ご紹介させていただきます。
 
 『7月号を読んで    茶屋征夫(鹿児島県枕崎市)
 「結婚してお坊さんになりました」の「厳しいご催促さいそく」は、まるで自分のことを書かれているようで、つい涙を誘われました。
 当時3歳の長男が交通事故による突然死から、来年は50回忌を迎えます。
 息子の死を機縁として寺でのお聴聞がはじまりました。
 息子が迷わずお浄土へ行けますようにと祈りを込めての寺参りでありましたが、ご住職のご法話のなかで、 「浄土真宗は祈る宗教ではありません。阿弥陀さまは誰でも等しくお浄土へお救いします。年齢や死に方を選びません」の意味が最初はわかりませんでした。
 しかし、お聴聞を重ねていくうちに、だんだんと理解できるようになってきました。
 家に仏さまを安置して朝晩お参りしていましたが、その目的が家内安全、仕事がうまくいきますようにという、まことに自分勝手のお願いごとであったと気づくことができました。
 今では、子どもの死で、絶望が希望に、悲しみが喜びと感じられるようになりました。
 浄土真宗は転(てん)の宗教であるように思います。
 おかげさまで、お寺の 責任役員せきにんやくいん、宗派の 宗会議員しゅうかいぎいんとしてのお役をいただき、日々お念仏できることに感謝しております。
 これも尊い厳しい ご催促さいそくでありました。』
 【「大乗」令和5年9月号 読者のひろば より】

 このほかに、皆さん一人一人が、それぞれの感想をお持ちではないかと思います。
 
 前田純代さんのご法話の最後に、
 『「厳しいご 催促さいそく」とは、底知れぬ悲しみのなかでさえも、アミダさまのお慈悲に包まれていることを気付かせてくれる、しなやかで深い言葉なのです。』
 とございます。
 私自身、この言葉に特に感銘を受けました。
 「人生は一瞬先は何が起こるかわからない。」と言いますが、自分の身近に起こって、初めて、そのことを真剣に考え始める私であります。
  「催促さいそく」という言葉が、 『蓮如上人御一代記聞書れんにょしょうにんごいちだいきききがき』の中にも、出てきます。ご紹介させていただきます。

 『懈怠けだいすることあるとき
 
 おおせに、ときどき懈怠することあるとき、 往生おうじょうすまじきかと疑い歎くものあるべし。
 然れども、もはや 弥陀如来みだにょらいを一たび たのみまいらせて 往生決定おうじょうけつじょうののちなれば、懈怠おおくなることのあさましや。
 かかる懈怠おおくなる者なれども 御たすけは 治定じじょうなり。
 ありがたやありがたやとよろこぶ心を、 他力大行たりきだいぎょう催促さいそくなりと申すと おおせられ候なり。(第十八条)』

 仏さまの大悲心に 値遇ちぐうするとき、自分が煩悩丸出しの懈怠なる者であることが 慚愧ざんぎされ、そういう私が阿弥陀様の大悲に、 摂取不捨せっしゅふしゃされている御恩を感じさせられます。
 仏さまのみ教えを聴聞し、仏さまの 大悲心だいひしん値遇ちぐうすることが大切だと蓮如上人は説かれています。

 そして、
 『然れども、もはや 弥陀如来みだにょらいを一たび たのみまいらせて 往生決定おうじょうけつじょうののちなれば、懈怠おおくなることのあさましや。
 かかる懈怠おおくなる者なれども 御たすけは 治定じじょうなり。』
 と説かれ、一たび、弥陀如来みだにょらいに、出会わせていただき、 摂取不捨せっしゅふしゃされた身は、煩悩の身のあさましさを 慚愧ざんぎするけれど、 一たび阿弥陀様に 摂取不捨せっしゅふしゃされたならば、決して捨てられることはないと、感動されています。
親鸞聖人は、 摂取不捨せっしゅふしゃの味わいを、 「仏さまから逃げていく者を追いかける」と言われています。
 まことに「仏ささまから逃げている」のが私自身の姿であります。
 そういう私を、どこまでも追いかけて、仏さまのみ教えを聴聞させ、摂取不捨せっしゅふしゃされるのだと。 摂取おさめとり捨てないのだと。

 そして、
 『ありがたやありがたやとよろこぶ心を、 他力大行たりきだいぎょう催促さいそくなりと申すと おおせられ候なり。(第十八条)』

 と説かれています。
 阿弥陀さまの御恩を、ありがたやと喜ぶことも、 『他力大行たりきだいぎょう催促さいそく』のおかげなんだと説かれています。
底知れない仏さまの深く広いお心に感謝申し上げます。
 この広大な御恩に少しでも、自分なりに、御恩報謝の生活をさせて頂きたいものです。 称名
 
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
*人生は良友と良師を得るが 
           
第一・良友とは信仰・  
           
良師とは智慧である  
*人生は、生・老・病・死・ 
青春のほこりも  
健康のよろこびも 
栄華のたのしみも  
一切は人の世の
虚しい影である   
*大海よりもなお壮大なものは   
大空である 大空よりさらに壮大な 
ものは 人の心である【ユーゴー】 
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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