2023年9月 第143話

朝事*住職の法話

弥陀みだのエレキで」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「弥陀みだのエレキで」という題とさせて頂きました。
 阿弥陀様の慈悲の働きを表現するのに、「弥陀のエレキ」という言葉を使わせていただきました。
 「エレキ」とは「エレキギター」のエレキで、直接触れれば、「ビリ」ッ来る電気のことです。
 日々のお仏壇の前でのお勤めの時に、浄土真宗のご本尊であります、阿弥陀様の絵像(掛け軸)であったり木像であったり、又は「六字名号」(南無阿弥陀仏)を中心に掛けることもあります。
 絵像と六字名号どちらも阿弥陀様のおはたらきを表すものです。
 阿弥陀如来の働きを絵で表したか、お六字で表したかの違いになります。
 その御本尊に対して、向こう側におられる方だと、自分勝手に仏様と自分の間に境界線を引いて、仏様の救いの働きを受け入れてこなかった。
 阿弥陀様の救いの働きは、向こう側からの働きというよりも、私と一体になって下さっている救いの働きではなかったか?
 日々の仏壇の前でのお勤めをしながら、そんな感じがしてならない。
 その感覚を「弥陀のエレキ」と表現させていただきました。
 今まで向こう側おられると、無意識に思い込んで、自分勝手に仏様と自分の間に境界線を引いていたけれど、仏様はそんな境界線など飛び越えて、私のところに常に届いていて下さったのだ。
 それに気づかせていただいたときに、阿弥陀様の慈悲のお心が「エレキ」のようにビビッと私に感じられたような気がした次第です。
 
 日々のお勤めを仏壇の前で読経する。あらためて、これはとても大切なことに思えます。
 仏壇というものを、今一度、どういうものなのか?学ばせていただきたいと思います。
 「仏壇とは何か?」ということについて、『浄土真宗の仏壇の意味』稲城 選恵師【探究社】という本をご縁に、共に味わってみたいと思います。部分的に抜粋させて頂きます。
 
 「浄土真宗の仏壇は浄土真宗の教えの内容が、そのまま仏壇の内容になっているのである。
 仏の慈悲の心をいただいた生活とは・・「聞其名号信心歓喜」であった。
 この名号が浄土真宗の御本尊である。
 浄土真宗の御本尊は南無阿弥陀仏-阿弥陀如来といってもよい-という名号を形の上で説明したものであり、浄土三部経や正信偈、御和讃、御文章はすべて文字で南無阿弥陀仏を説明したものである。
 この南無阿弥陀仏の名号とは親鸞聖人は教行信証の信巻で「仏願の生起本末(しょうきほんまつ)」といわれている。

 随ってお寺の御本尊も一般家庭の御本尊も、御木像でも御絵像でもこの内容をお姿で説明したものである。
 この仏願とは本願のことである。
 法然上人はこの本願を選択本願(せんじゃくほんがん)といわれた。
  選択本願せんじゃくほんがんとはこの私の上に特別に別注したもので別あつらえといってもよい。
 レディメードでなく、オーダーメイドである。
 どんなに小錦(→相撲取りの名前)の洋服が立派であっても、私には私の身体に合わせて 別誂べつあつらえしたものの方がよいのである。
 またこの私が着なければ全く意味がなく、存在理由を失う。
 ここに本願はこの私を離れては全く本願の存在理由を見失うのである。
 歎異抄(たんにしょう)の後序(こうじょ)に
 「弥陀みだ五劫思惟ごこうしゆいの願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり」とある。
 親鸞一人を除いては弥陀の本願の存在理由を見失うのである。
 本願を本願たらしめているものは親鸞一人であり、この私一人にあるのである。
 このような意味において仏壇の内容はこの私に直接するものである。」
 (『浄土真宗の仏壇の意味』より)

 どこまでも、「私一人」に対して、直接、働いて下さっている阿弥陀様の救いの働きであることが力強く説かれています。
 「親鸞一人」という言葉で「私一人」の為の救いの働きなんだよ、ということが表現されていたのですね。
 引き続き『浄土真宗の仏壇の意味』よりご紹介させて頂きます。

 「しかし、人間は私一人ということが問題にならない。
 一人であるということは誰もわかっているが、ほんとうに一人ということは誰も思っていない。
 ほんとうの一人という自覚は死の自覚においてのみ成立する。
 人間が動物と異なる一つに死を自覚して行動するところにあるといわれる。
 ・・また労働ということも死の自覚がないものにはいえない。はたらかねば食えない、食わぬと死ぬからである。
 しかし、多くの人は死を自覚して行動しているのであるが、現実とは全くかけ離れた彼方において ながめているのである。
 「オレだけは大丈夫」という固い ふたをして、現実には全く無関係のもののように、彼方においているのである。
 そのくせ、死と四とのように全くかかわりのないものでも、「シ」という発音そのものも 敬遠けいえんし、よけようとするのである。
 しかし、死は「オレだけは大丈夫」という、いかに固い蓋 (ふた)をしていても自らの身勝手な解釈であって、そこには何等の科学性もなく、保証もないのである。
 今は健康体であっても次の瞬間には如何なる事故が待ち伏せしているかも知れないのである。・・
 まことに人生は火宅無常の世界といわねばならない。
 「オレだけは大丈夫」という蓋(ふた)をとると、死は現実の生の否定的内容として生きているのである。
 この死の自覚は、今ここのこの私の上にある。
 昨日の問題でも、明日の問題でもないのである。
 この自覚の上にたつと、私はただ一人だけとり残されるのである。
 名誉も地位も教養も財産も、妻子眷属も何ら支えにならない。
 無量寿経にあるように、
 
 「愛宝貪重して、心労し、身苦しむ、かくの如くしておわりに至るに 恃怙じこするところなし、独り来り、独り去り、一として したがうものなし」

 財産づくりに浮身をやつして心身をすりへらすだけ苦労してもいよいよ 命終めいじゅうになると、何もあてにするものは一つもなく、ただ一人生まれ来て、一人去って行く、誰一人として代わってもらうことも出来ないし、代わることも出来ない。
 全く私一人である。
 それは人間最後の問いであると共に最初の問いでもある。
 この問題を後生の一大事、生死の一大事、往生の一大事といわれる。
 この問題は今ここにあるこの私一人の問題である。
 このただ一人の私をかけはなれて成立しないのが本願である。」
 (『浄土真宗の仏壇の意味』より)

 実に厳しいことが説かれていますが、いたずらに怖がらせるための説法ではなく、このような孤独で苦悩する私たち一人一人の上に、仏様の願い(本願)がかけられていることを知らせたい為の説法ではないのでしょうか?
 引き続き、「浄土真宗の仏壇の意味」より、ご紹介させて頂きます。

 「仏願の生起本末(しょうきほんまつ)の生起(しょうき)とはこの私の救われない問題がそのまま本願の上に先に問題にされていることを意味する。
 歎異抄(たんにしょう)第九条に「仏かねてしろしめして 煩悩具足ぼんのうぐそくの凡夫(ぼんぶ)」とある煩悩具足の凡夫であるこの私の問題は私が問題にする先にかねて本願の上に問題にされているである。
 それ故、今のこの私の救われないまま、救われない心配は本願の上にあるから救われない私の心配は無用となるのである。
 また仏願の本末の本はこの私のたすかる心配のことである。
 随ってどうしたらたすかるかという「どうしたら」ということは本末の内容といえる。
 ここに救われる問題も救われない私の問題もすべて仏願-本願-の内容となっているのである。
 しかも、私が問題にする前にすでに本願の上で問題にされているのである。
 また本末は果末の 成就じょうじゅを意味するのである。
 この成就しょうじゅすがたこそ南無阿弥陀仏ということである。
 蓮如上人の御文章には、

 「されば南無阿弥陀仏とまうす体(たい)はわれらの往生のさだまりたる 証拠しょうこなり」

 とあるように本願成就せることが南無阿弥陀仏ということである。
 この名号は信ずる対象として彼方におかれているのではない。
 いつでもどこでも、この私のいるところは先に既に与えられているのである。
 仏壇は多くの人は拝む対象としてあるように思われている。
 拝みものとして彼方に信仰の対象としておかれているのでなく、私のいるところはどこにいてもより先に既に与えられていることをお姿で表しているのである。」
 (『浄土真宗の仏壇の意味』より)

 私が、「どうしたら私は救われるのだろうか?」という心配も、「どのようにして救われていくのだろう?」という心配も、全て阿弥陀様の方で先に心配して下さっていた。
 真宗の信者は、阿弥陀様のことを「親様おやさま」と言って、慕ってきましたが、子供より親の方が先に心配して下さっていたのですね。
 引き続き、『浄土真宗の仏壇の意味』よりご紹介させていただきます。
  
 「元来、親鸞聖人の用いられた御本尊は多く、、 「帰命尽十方無碍光如来きみょうじんじっぽうむげこうにょらい」という十字の尊号を用いられているのである。
 この十字の尊号は近畿地方では殆ど多くの家庭の仏壇の 御脇掛おわきがけ-右側-に安置されている。
 帰命尽十方無碍光如来の十字の尊号は天親菩薩(てんじんぼさつ)の御言葉であるが南無阿弥陀仏の徳号であり、はたらきの面からつけられた尊号である。
 尽十方はどこにいても逃げる場所もなく、かくれる場所もない。
 次の 無碍光むげこうは親鸞聖人の著作には殆どこの解釈は出されている最も愛好された言葉である。
 無碍むげの碍には、 内障ないしょう外障がいしょうとあり、外障は「弥陀如来名号徳」の一カ所しか解釈がない。
 残りはすべて内障の解釈である。
 外障の上からいえばどこにも逃げる場所もかくれる場所もない。

 それ故、私の生涯は恥ずかしいという言葉しか残らない。
 「日本人はただ一人であれば何をするかわからない人種である」と外人がいっているということである。
 ただ一人でも逃げられない自らの行動を批判するものをもつことは完全な道徳ともいえよう。
 それは あたかも車のブレーキのような役割ともいわれる。
 スピードの速いものほど、ブレーキは重要である。
 今、日本人はブレーキの不完全な高速度の車に乗っているようなものである。
 子供の教育でも最も重要なことは一人でも見られている世界、知られている世界を与えてやることである。
 これを無視するものは全く動物と同じような教育といわねばならない。
 外の さわりのいかなるものでも障りとならないことだけでも重要であるが、親鸞聖人はほとんど内の障(さわり)の解釈ばかりである。
 内の障(さわり)とは 悪業煩悩あくごうぼんのうのさえられないことを意味する。

 悪業煩悩とは人生を自己中心の眼鏡かけて行動していることから生起するのである。
 人間は理屈の上からはどんなきれいなことでも考え、いわれるけれども、この自己中心の眼鏡をとりはずことは至難である。
 是非善悪すべて己の自己中心の眼鏡によってきめつけようとする。
 彼は大好きであるといっても、若し自らに不利なことがあれば直ちに大嫌いとなる。
 逆に大嫌いな人でも自らに都合がよければ大好きとなる。
 この眼鏡をかけている限り、人間はまともな人はあり得ない。
 しかもこの眼鏡はいかに名医であってもとりはずすことは出来ないし、体内のどこを探してもレントゲンにかけても見ることは出来ない。
 しかも誰もこの眼鏡をかけているのである。
 ここに宗教の 領域りょういきと科学の領域と次元の異なることが明らかに知られる。
 この眼鏡をかけているから世の中で最も不可解な、見ることの出来ないのは私自身である。
 もっとも身近なところにいて探す必要のないこの私ほど、遠くにおかれているものはない。
 私自身が解らないから、いかに最高裁判所の長官でも自分の家のトラブルは解決出来ないものである。
 それは人でなく、己自身が問題の外におかれているからである。
 今、この南無阿弥陀仏の名号はこの悪業煩悩の外に活動する場所がないということを無碍光(むげこう)の意味によって表しているのである。
 私の生活の外に南無阿弥陀仏のはたらいている場所はないのである。
 人間の自己中心はいかに外面を よそおっても取り去ることは出来ない。
 それによって自らも自滅の道を 辿たどることとなる。

 阿弥陀経の六鳥の中に 共命鳥ぐみょうちょうが出ている。
 この鳥は一つの胴体に二つの頭のある二羽の生命をもった鳥である。
 この二羽の鳥は共に美声を出して鳴くのであるが、両者の仲が悪い、相手を殺さんとして一羽の方が毒を与えたら、両者ともに死んでしまったということである。
 人間の在り方をそのまま物語っているのである。
 このような自己中心の悪業煩悩が南無阿弥陀仏の活動の場であるから、宗教を外的にとらえようとする人には全く通じないことがわかる。

 かつて 讃岐さぬきの丸亀に願船というお寺の法務員がいた。
 彼は無我に法を喜ぶ人であった。
 住職から講師の接待をたのまれ、風呂をわかしたのである。
 ところが自分が先に風呂に入り、住職にとがめられるとその時、彼はお仏壇のおすすぬきをしただけである-お掃除のこと-といったということである。
 彼のお仏壇は奥の座敷には安置していないのである。
 自らの きたない身体の外にないのである。
 但し、禅宗のような自分が仏であるということではない。
 南無阿弥陀仏のはたらいて下さる場所は自分の悪業煩悩の外にないことを意味するのである。
 そこで、浄土真宗の立場は 平生業成へいぜんごうじょうといわれるのである。
 平生(へいぜい)はいつでもを意味するから、今ここである。
 今こことは私の存在する場所である。
 ここに既に救いの法は与えられているのである。
 ・・というのは自らの求めに先行して救いの答えとしての南無阿弥陀仏が与えられているからである。
 この南無阿弥陀仏は悪業煩悩のない浄土のさとりの世界、真実の世界からそのままこの私の上に救われる因法となって与えられているのである。
 生死の世界をこえた世界から、生死無常の現実のこの私の上に直接しているのである。
 ここに生きる望みのない人生に、生死をこえた真実の法、悪業煩悩のそのまま成仏の道が開かれた答えを見いだすのである。

 生と死は恰(あたか)も勝負や損得と同じように表裏の関係にあるのである。
 勝つことの研究は縁起をかつぐことでなく、負けることの研究であり、儲けることの研究は徹底的に損をすることの研究をしなければならない。
 我々の生きるほんとうの答えは死の正しい解決の道を見出すことによってのみ開かれるのである。
 念仏往生とはまさしくこの死の正しい解決の道の開かれたことを意味する。
 念仏即ち南無阿弥陀仏の方にあうことは生死をこえた場の開かれたものにあうことである。
 しかも悪業煩悩の現実のままでこの至宝にあうことが出来るのである。
 ここにほんとうの人間の生きる意味を見出すことが出来るのである。

 いかに 大言壮語だいげんそうごする人でも死の前にはあわれな存在である。
 この場合、生きようと死のうと用事のない高次な世界の開かれたものは地球上の財宝がすべて自分のものになるよりも高価なものといわねばならない。
 それ故、 曇鸞大師どんらんだいしは無上宝珠の名号といわれている。
 この地上のあらゆる財宝よりも高価な至宝を見出すことは有難いことである。
 浄土真宗にあうということはこの至宝を見出すことである。
 この浄土真宗を自らが見出した人は稀である。
 我々は幸いに祖先を通してすでに与えられているのである。
 それ故、我々の祖先から のこされた最大の至宝は浄土真宗といわねばならない。
 かつて朝日新聞の重役であったH氏が癌で七十才の生涯を閉じる時、家族にいった次のような言葉を遺している。
 「私の生涯にはさまざまの良いこと、悪いことがあったが、七十年間の生涯で最も大きな宝は浄土真宗の家に生まれたということであった。」と。
 この浄土真宗を祖先から伝えられても一生涯この至宝にあわなければ全く意味がない。
 全く「宝の山に入りて手を空うして帰る」といわれる通りである。

 浄土真宗は生きたこの私以外には関係がないのである。
 しかもこの私にとって最大の宝を祖先を通して私に伝えられているのが仏壇の内容である。
 祖先からいただいた最大の宝にあってこそ、祖先の人も喜び、自らもほんとうの生きる答えを見出すのである。
 仏教ではほんとうの親孝行、祖先崇拝は五逆罪(ごぎゃくざい)の逆によって明らかにされている。
 五逆罪(ごぎゃくざい)のはじめの二つは恩田(おんでん)に反し、残る三つは福田(ふくでん)に反するといわれる。
 恩田(おんでん)とは自らの身体は両親によって与えられたものであるから、自分の所有物でないのである。
 親からいただいたものである。
 この親からいただいたものを大切にするのが先づほんとうの親孝行である。

 すでに論語にも

 「身体髪膚しんたいはっぷこれを父母にうく、 あえ毀傷きしょうせざるは孝の始めなり」
 とあるように儒教道徳にも通ずる。
 しかし、いかに自らの身体を大切にしても、悪いところに使ったら決して親孝行とはならない。
 両親からいただいたこの身体を百パーセント有効に使うことによってはじめてほんとうの親孝行といわれる。
 この有効に使うことが次の福田(ふくでん)という三つの内容である。
 これは一言につくせば仏法にあうことである。というのは仏法にあうことは人間であることのほんとうの有難さ、尊さを見出すからである。
 ほんとうの生きる意味を見出すことである。ここに浄土真宗の法、南無阿弥陀仏の法にあうことはそのまま人間のほんとうに生きる意味を見出し、最も親からいただいた身体を有効に使うこととなる。
 それ故浄土真宗の法にあうことがほんとうの親孝行といわれ、ほんとうの祖先崇拝となるのである。
 せっかく祖先から大切な至宝を遺されても一生涯それを外に眺めて、あわなければ全く意味のないこととなる。」
 (『浄土真宗の仏壇の意味』より)
 
 中々激しい厳しい言い方ですが、深い慈悲心からのお言葉と拝し、当然のことながら、先ず、私自身に深く味わいたいと思っている次第です。
 日々宝に会いながら、それに気づかずにいる、ということは、まさに私自身の日々の生活そのものではないか?
 自分の身体もどれだけ大切にしているだろうか?
 仏法・浄土真宗の法の真っただ中に住まわせていただきながら、どれだけ、真宗の真髄に触れて来たのだろうか?
 真宗の教えを正しく体得し、他に対しても、正しく伝えているのか?
 「灯台下暗し」とは、決して他人事ではないと思います。
 しかし、ここに「至宝」という言葉が言われていますが、「宝」に会いながら、宝を宝だと気づかないで、見過ごし、見失っていくことは、大変な喪失ではないだろうか?
 宝がないのではない、気づかないだけである。
 稲城選恵和上の言葉は激しい面も多々ございますが、深いお心からの厳しい言葉と、先ず私自身に味わいたいことでございます。
 引き続き『浄土真宗の仏壇の意味』からご紹介させて頂きます。
 「仏教とはこの我々の生きる不安な場をこえて、ほんとうの生きることを明らかにされたものである。
 それ故、転迷開悟(てんめいかいご)といわれる。
 悟とは真実を見る智慧を開くことである。そこには生死をこえた世界であり、自他不二・一如平等の世界である絶対至高の妙境といわれる。
 この世界を目標とすることが仏教者の願いである。しかし、悪業煩悩の身から離れることの出来ないこの私には高嶺の月でしかない。

 ここに 涅槃浄土ねはんじょうどのさとりの世界のそのまま悪業煩悩の私の現実に因法としてはたらきかけて下さる南無阿弥陀仏にあうことによって、 「念仏成仏自然(じねん)なり」とあるようにさとりへの道が開かれているのである。
 この念仏、南無阿弥陀仏の通ずる道はただ一つ、聞法することである。
 浄土真宗の人の行は聞法の行である。
 聞くほかに通ずる道はないのである。
 浄土真宗で聞法の行を怠ると浄土真宗は滅びてしまうのである。

 仏壇の内容はいかなる極悪人をも 抱擁ほうようする大慈悲の活動相であり、この私をはなれて成立しない。
 南無阿弥陀仏のほんとうのおこころをあらわしたものである。そこに私のほんとうに生きる答えを見出すことが出来るのである。」
 (『浄土真宗の仏壇の意味』より抜粋)
 
 共々に、多用な生活の中、少しでも、聞法の機会を持たせていただき、祖先が残して下さった宝に会うようにしたいものです。
 以前、あるご門徒が、仏教壮年会の研修で、意見発表されたことがございました。
 その男性が言われるのに、「仕事帰りに寺の法座に参り、仏法聴聞していた。しかし、仏法聴聞しながらも、「こんなことして一体何になるんだろう。」と感じていました。
 それからも、続けて、仏法聴聞しているうちに、「どうなるとか、ならないとか、こんなことして一体何になるのか?とか、ならないとか、そんなことはどうでもよくなった。」と、仏法との出会いを、意味深長な言葉で淡々と語られました。
 もうお亡くなりになられたご門徒ですが、その方の仏法聴聞をして、喜んでおられた姿は、私の中にいつまでも生き生きと生き続けています。色あせることはないですね。
 その方の仏法喜ぶ姿、その嬉しそうな深い味わいを湛えたお顔を思い出す度に、「仏法は大事なものなんだな。仏法聴聞は大切なことなんだな。」と教えられ、「私も仏法聴聞しよう。」という気にさせられます。
 私を導く師ですね。やはり人を通して法は伝わるのですね。
 勿体ない事です。南無阿弥陀仏
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
*仏の心は不思議なものよ 
           
目には見えねど話しができる  
           
仏と話しをするときは  
称名念仏これが話しよ 
【浅原才市さん】   
*物は心をもってうく。 
法は身をもって聞く。  
【金子大栄】 
*こまった時にゃ   
お念仏に相談しなされや   
【源佐さん】   
*松かげの暗きは 月の光かな
【法然上人】   
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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