2023年7月 第141話

朝事*住職の法話

「私と共にを乗り越えて下さる」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「私と共にを乗り越えて下さる」という題とさせて頂きました。
 
(本願寺新報 2011年01月01日号掲載)に次のような稲城選恵和上のご法話が記載されています。

生死出づべき道
稲城 選恵(いなぎ せんえ)勧学
生命に宿る問い
 「自分が死んでいかなければならない」
 これは極めて宗教的な問いです。しかし、この問いを持つ人は少ないのではないでしょうか。
また、臨終になろうとも、この問いを真剣に考えることなく死んでいく人もあることでしょう。
ところがこの問題は、たとえ若くとも、また健康に自信があろうとも、決して無関係ではなく、この世に生まれた万人が抱える共通の問題なのです。
 この宗教的な問いをひとたび持つような事態となれば、この私を支えてくれるものは何ひとつないことに気付かされます。
ただ一人この世に来て、ただ一人この世を去っていく。まったくの単独者であり、孤独です。
「自分が死んでいかなければならない」という宗教的な問いは「生命」そのものの中に宿っているといってよいでしょう。
 「生命」を営んでいくために必要な教養や知識、蓄えた財産などは、死を目の前にしては何の支えにもなりません。
 では、ただ一人空(むな)しくこの世を去っていかなければならないのか、と思い悩むしかないのでしょうか。

 生と死は紙の裏表のようなものですから「生死(しょうじ)の問題」といい、「生死の壁」ともいいます。
 浄土真宗では「後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)」ともいいます。
 生死の壁の前で終わる人生は、ただいたずらに暮らし、いたずらにあかした生活であり、そこに、人間に生まれた意義を見いだすことはできません。
 あたかも人生は夢のようなもので、夢を見ているときはそれが現実で、その現実にいかり、腹立ち、悲しみ、喜びます。
 しかし夢から覚めてしまうと、夢の中の現実は、まったく空ごとたわごとというものでしょう。
 この生死の壁を超えていく道を明らかにされたのが、今年、750回大遠忌のご法要がおつとめされる親鸞聖人です。
聖人が説かれた仏法は、まさしく「生死出(しょうじい)づべき道」なのです。
煩悩をかかえたまま
 仏法のさとりは涅槃(ねはん)といい、涅槃をインドの古語ではニルバーナといいます。
それは煩悩(ぼんのう)を吹き消した状態を意味します。
しかし煩悩具足といわれるこの私は、煩悩の世界から一歩も出ることは不可能です。
というのは、この煩悩は、自己中心のメガネをかけて人生を受けとっているために生じるのです。
このメガネはいかに知識や教養があっても取り除くことは至難です。
しかし、阿弥陀如来のご本願にあわせていただくと、「正信偈(しょうしんげ)」に「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」(煩悩を断(た)たずに涅槃を得る)とあるように、煩悩の身のままで、涅槃のさとりに至る道が開かれています。
 阿弥陀如来のご本願は、煩悩から一歩も出ることの不可能なこの私のために特別に誂(あつら)えられた大慈悲の願いだからです。
このご本願に「必ずたすける」と誓われたまま、この私の上にはたらいてくださるのが南無阿弥陀仏のお名号です。
 この南無阿弥陀仏は、私の存在するところに、いつでも、どこでも既に与えられているのです。ですから、この私の生死の問題は私が解決するのではなく、解決してくださっている南無阿弥陀仏の法が先に与えられているのです。
 それ故(ゆえ)、浄土真宗の教えは、今ここが臨終であっても、このご本願を聞けば、間に合う教えなのです。

 俳人・松尾芭蕉の門人として知られる曽良(そら)の句に、
  行きゆきてたおれ伏すとも
  萩の原
 と詠(よ)まれたものがあります。
 南無阿弥陀仏のはたらきは、いま私の上に至り届いています。それは私を仏にするというはたらきであり、私がどこで倒れようともそこが彼岸の世界、お浄土なのです。「萩の原」とは、このお浄土をあらわした名句です。
 不治の病となり、明日をも知れない状況であっても、阿弥陀如来は一人も漏らさず救うはたらきとなってくださっています。その証拠が、いつでもどこでも誰にでも届けられている南無阿弥陀仏であり、皆さんのお家のお仏壇(ご本尊)です。
 この私のたすかる道を、自分が求め聞いて理解するのではなく、救い取って捨てないという南無阿弥陀仏の法を聞かせていただくのが、浄土真宗の要なのです。 (本願寺新報 2011年01月01日号掲載)

 稲城選恵和上には、生前、何回かご法話を聴聞するご縁をいただき、また、光西寺にも来て頂き、ご法話して頂いた、その時のことを懐かしく思い出します。
 本当に仏法一筋の和上さまでした。そこにある種の爽やかさを感じさせられる方でしたね。
 思えば色々な仏法のご縁をいただいたからこそ、今の私があるのだと、「お育て」を頂いてきたことへの感謝の思いが湧いてきます。
 この私の口から「南無阿弥陀仏」とお念仏が称えられるようにお育て頂いたことを深く感謝申し上げる次第です。
 
 最近、お亡くなりになられた、音楽家の坂本龍一氏は、もちろんYMO(イエローマジックオーケストラ)の一員でもあり、世界的な音楽家です。
 そのYMO(イエローマジックオーケストラ)のメンバーの、坂本龍一氏が、生前、言われた言葉に、「クラシックというのは、聞く耳が出来れば、どんなクラシック音楽を聴いても、よくわかるようになる。」というような意味のことを話されていたように思います。
 私自身は、全くクラシック音楽は分からないんですが、坂本龍一氏は「クラシックを聴くには、クラシックの聴き方みたいなものがあって、一度、それがわかると、どんなクラシック音楽を聴いても、その曲の聞きどころがわかるようになる。」
 そんなことを言われていたように覚えています。

 浄土真宗の教えを聞くにも、どこか共通するところがあり、一度それがわかると、どんな法話を聴聞しても、その法話の聴き所が分かるようになるということがあるのかも知れないと、そんなことを連想したりしました。

 私も、かつては、夢中になってYMO(イエローマジックオーケストラ)を聞いてきたファンの一人です。
 3~4年前頃の、私の誕生日に、息子に「誕生日プレゼントに何かほしいものはある?」と聞かれたので、YMO(イエローマジックオーケストラ)のDVDを要望して買ってもらったことがありました。
 それが、それから何年も経たない間に、高橋幸宏(ドラムス・ボーカル)が亡くなり、坂本龍一(キーボード・シンセサイザー・コーラス)が亡くなるなんて、思いもしなかったことですね!
 YMO(イエローマジックオーケストラ)のメンバーの細野晴臣(エレクトリックベース・シンセベース・コーラス)は、さぞかし寂しいことでしょうねえ。
 私の周りにも、無常の出来事が多く起こり、いまさらながら、仏法の教えの真実性というものを、まざまざと感じさせられる昨今です。
 4~5年のうちに、こんなに変わるものなのか?! という実感があります。
 そして、それは、他人のことではなく、私自身の姿であると目覚めなければ意味がないと思っています。
 そう思って、仏法を聴聞しなければ、「明日も聞ける。」くらいに思っていては、結局は「他人ごとの仏法」になってしまうのではないかと猛省する次第です。
 「明日も聞ける。」という、その明日はあてにならない!と思い知る日が来るのではないでしょうか?
 死ぬまでは、仏縁は頂く可能性はあり得るわけですから、あきらめないようにしたいものです。

 私は、今まで色々な仏法の法座や研修会や勉強会等で、録音したものを沢山持っています。
 しかし、いざ聞こうとすると、劣化していたりして、再生できなくなっていることが、最近は多々ありますね。
 「データーは水物」と言いますが、まさに、その通りですねえ。あてにならないものですねえ。それを実感することが多いです。

 最近では、「聞けるうちに、仏法を聞く。」
 「今日聞くことが出来る仏法が全てである。」
 と思うようになりました。
 「今日一日にどれだけ仏縁に会えるか?」 
 それが全てではないか?
 今日一日しかないですね。
 自然と、そう思うようになりました。
 今まで録音してきた、法話のデーターも、劣化してしまえば、何の役にも立たないんですね。結局はあてにならないんですよね。
 「録音して、またいつか聞けばいいや。」と全く、今まで、のんきな気分でいたもんだな?と反省です。
 自分では、真剣に仏法を求め、聞いているようでも、実際は、そうでもなかったということですよね。
 
 『親鸞聖人は、八十五歳のときに書かれた「正像末和讃」、その和讃の一首に、
 
 
 弥陀・観音・大勢至みだ・かんのん・だいせいし
 大願のふねに じょうじてぞ
 生死しょうじのうみにうかみつつ
 有情うじょうをよぼうてのせたまふ
 
 というのがあります。
 「有情」とはわれわれ衆生のことである。
 「よぼうて」は喚(よ)びつづけてということであるから、迷いをつづけているわれわれを、救いの船に乗せるべく喚(よ)びつづけながらはたらきづめだということである。
 われわれが願う前に、すでに願われているのであった。

 親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」という名号は、「呼び声」であると教えて下さいました。
 その仏さまの「呼び声」「南無阿弥陀仏」は一体誰を呼んで下さっているのでしょうか?
 何と、その「呼び声」「南無阿弥陀仏」は、この私を呼んで下さっていたのでした。
 ある和上様は、
「呼び声、呼び声というと、何か遠いところから、私を呼んで下さっているように感じるが、そうではなくて、私の中に入り込んで、「共に生きていきましょう。」と、私と共に居て下さっているのです。」
と諭されました。
 有難いことです。

 「人生の重きときあり星月夜」
 稲畑汀子
 という俳句があります。
 誰でも、人生の中で、経験する事ではないでしょうか。
 先日も、奥さんを亡くされた方の法事に参らせていただきました。
 御主人は、自分ではどう思っているのか知りませんが、私から見ますと、格好つける余裕もないくらい、ガックリされているのが感じられました。
 その時思いました。「そうなんだ。本当に辛いときには、人間は格好つける余裕もないんだ。」と。
 よくよく考えたら、普段から、別に格好つける必要なんか何もないのですよね!
 それなのに、何故か、人間は格好つけていますよね。
 自分がプライドという小さな壁にぶち当たっていることを教えられ、プライドから少しでも離れられたら、本当に他人と交流できる広い世界が恵まれることをもっと知りたいものです。
 自分からプライドをかなぐり捨てていかなければ誰れも私の替りにプライドを捨ててはくれません。
 色々なことに振り回され、格好つける余裕もない私の中に、名号「南無阿弥陀仏」は共に居て下さり、遠くから呼びかけるのではなく、「一緒に苦を乗り越えていこうね。」と、私の称名となって、働いていて下さるのでした。

 最近お亡くなりになられたある男性は、生前
「住職、『このまま』ということが分かりますか?」
 と、禅問答みたいに、よく問いかけられました。
 平成2年頃の話です。
 やはり、いくら答えようとしても、無い袖は振れないんですよね。
 私は本当に分からなくて、答えられなくて、随分悔しい思い、情けない思いをしました。
 「このまま」とは、「仏さまが私と同居して下さる。」という味わいだったのでしょうか?
 今、そんな気がしています。
 そう思えるのも、色々なお育てのご縁はもちろんですが、その「住職、『このまま』ということが分かりますか?」と問いかけた方が亡くなられ、仏さまと成られて、今、私を導いて下さっているからなのでしょうか?
 その方との生前のやりとりを思い出しながら、そんなことを思ったりします。
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 
 仏法の教えは、凡夫がどんなに一生懸命になって聞いても、分からない深さというものを持っているようです。
 それが仏さまの「お育て」のおかげで、聞くことの出来ない仏さまの呼び声が聞こえ、仏さまの力で、仏さまの心に触れることが出来るようになるのかも知れません。
 それが、稲城選恵和上の言われた、
 「この私のたすかる道を、自分が求め聞いて理解するのではなく、救い取って捨てないという南無阿弥陀仏の法を聞かせていただくのが、浄土真宗の要なのです。」
 ということではないでしょうか。 称名

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
*戦場において百万人に勝つよりも、 
           
唯だ一つの自己に克つ者こそ、  
           
じつに最上の勝利者である。  
*自己こそ自分の主(あるじ)であ 
る。他人がどうして(自分)の主で   
あろうか?自己をよくととのえた 
ならば、得難き主を得る。  
*落ち着いて思慮ある人は身をつつし 
み、言葉をつつしみ、心をつつし   
む。このようにかれらは実に己れを   
まもっている。   
【仏陀の言葉】   
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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