2023年6月 第140話

朝事*住職の法話

「仏の名告なのり」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「仏の名告なのり」という題とさせて頂きました。
 「孤独が癒されるとき」 藤澤量正 本願寺出版社 から、抜粋させていただきます。
 
 『怨みや憎しみを強く意識すればするだけ苦しみが大きくなり、何か求めようとする思いが深ければ、それが得られない苦は深まるばかりである。
わばこれは、好ましくないものを見ることによって神経がいら立ったり、 あせりがあるために平常心を持ち続けることが出来ない苦しみである。
 人間の感情は決して論理の説得を受けるものではないと頭で解っていても、そうさせない人間の複雑な感情が、かえって苦をつくり出すことも少なくない。
 「小欲知足しょうよくちそく」と言われているように、足ることを知って、これ以上求めてはならないと自らに言い聞かせても、 どうにもならない現実にぶつかって、さらに苦しみを倍加させてしまうというのが人生の相なのであろう。
 三つ目の苦しみとして「行苦」が挙げられる。これは存在そのものが苦であるということである。
 このなかには生苦(しょうく)と五蘊盛苦(ごうんじょうく)を入れることが出来る。
 人は、生まれたから死をかかえているという事実は見逃すことは出来ない。
 また人間は、健康であれば病者以上に 煩悩ぼんのうが激しく燃えることがあるし、感覚が鋭ければ気にかかることが多いので取越し苦労も多くなるであろう。
 心やさしき人であれば、人のことまで苦になって落ちつかず、意志が強ければ、一つの事を貫くために、どうでもいいと思っている人よりはるかに苦は多い筈である。
 まさしくわれわれは、正常で健康であるから苦がないのではない。
 生きるままが苦から逃れることが出来ないのである。
 われわれの体を「苦器(くき)」と呼ばれているように、まさに人間は苦しみのつまった器であると言えようか。
 このように考えてみると、「一切は苦である」ということは、まさに不変の真理と言える。

 釈尊が『ダンマパダ』のなかで、「一切皆苦」と説かれたのは、われわれの人生のすがたを言い当てられたのであって、それは、人がそのことを好むと好まざるにかかわらず、誰れもが決して逃れることの出来ない事実であるということである。
 ところで人間は、何か特別な問題が起こって始めて苦悩するのではない。どんな 些細ささいな問題に出あっても困るように出来ているのである。
 それは「考える」という精神作用がある限り誰れびともまぬがれることは出来ない。
 そのようなわれわれのすがたを親鸞聖人は「苦悩の有情」と言われた。
 これは人間は本来苦悩的存在であるということを示したものである。
 その人間の苦悩の上に、救わねばならないという阿弥陀如来の大願が成就されたのである。
 苦悩をいつもかかえねばならぬ身なればこそ、われわれは常に如来の本願の真実を聞きひらいてゆかねばならないと説き続けたのが親鸞聖人であった。
 それによって苦がなくなるのではない。
 苦が超えられる道が拓かれてゆくということである。
 
 昭和の 妙好人みょうこうにんと言われた岩見(島根県)の浅原才市さんは、

 苦を抜いて下さる慈悲が南無阿弥陀仏
 苦を抜かずとも下さる慈悲が南無阿弥陀仏

 (※原文を漢字に直しています。)

(鈴木大拙「妙好人 浅原才市集」四五〇頁)
  
 と詠っている。
 彼は学問、知識はなかったが、ひたむきに仏法を聞き続けた勝れた念仏者であった。
 「苦を抜かずとも下さる慈悲」こそが、われわれから離れたもうことがない阿弥陀如来であると知らされたとき、苦をかかえながら大きくて広い仏のふところに抱かれたのであろう。
 だからこそ彼は、
 
 ええな(いいなァ)世界虚空が みな仏
 わしもそのなか 南無阿弥陀仏

 (※原文を漢字に直しています。)

 というすばらしい心境に至ったのであった。

 われわれは、苦が超えられるためには何が大切なのか、この人生を自己の責任によって生きねばならない限り、そのことを充分に聞き開いてこそ、明るく充実した日々が持てるということであろう。
 
 岡本かの子は、
 
 いづこにもわれは行かましみほとけのいましたまはぬ処(ところ)なければ
 
 と詠っている。
 見事な法悦の歌である。
 明日の人生がどのようになるかは誰れもが分からない。
 たとえそれが病苦で死期が近づく畏れがあるときでも、生活に疲れて見通しの利かない日を迎えねばならないときでも、
 「みほとけのいましたまはぬ処なければ」
 とたしかに受けとめることが出来れば
 「いづこにもわれはゆかまし」
 と明るく起き上がることが出来るというのである。
 ひとたびのいのちである。われわれは、いのちを粗末に扱ってはならないというごく当たり前のことを、しっかり確認しておきたいのである。』
 (『孤独が癒されるとき』 藤澤量正 より抜粋)

 ここには、苦悩と仏さまとが一つになっている信心の風光が書かれている気がします。
 
 『親鸞聖人は、八十五歳のときに「正像末和讃」を制作されて、そのなかに収められた和讃の一首に、
 
 
 弥陀・観音・大勢至みだ・かんのん・だいせいし
 大願のふねに じょうじてぞ
 生死しょうじのうみにうかみつつ
 有情うじょうをよぼうてのせたまふ
 
 というのがある。
 「有情」とはわれわれ衆生のことである。
 「よぼうて」は喚(よ)びつづけてということであるから、迷いをつづけているわれわれを、救いの船に乗せるべく喚(よ)びつづけながらはたらきづめだということである。
 われわれが願う前に、すでに願われているのであった。
 み名を称えて救われるのではない。
 救われるべきはこの私であったと聞こえたとき、称えるみ名は仏徳讃嘆であり、仏恩報謝となるのである。

 人間の生命そのものに力を与えるものは言葉であるから、真のことばに出あうかどうかは、われわれが本当に生きられるかどうかの問題であろう。
 すでに仏のみ名は、声やことばに生きるわれわれに、いつも声で触れていてくれるものである。
 仏のみ名ありて「新しき生涯」が得られると知らされれば仏のみ名こそ「力なり、生命なり」と言われるべきである。
 まさしく仏は、み名であり、み名は、仏そのものなのである。
 しかもその喚(よ)び声は力であるからこそ、つねに応答をつづけてゆく、それが念仏者の生活と知らされれば、仏と私とは呼応があり、会話があり、一人でありながら決して一人ではないという安らぎが得られるものである。
 孤独であって孤独が超えられ、しかもわがいのちの帰するところが明白になって、生きて甲斐のある人生が展かれてゆくと言うべきなのであろう。
 
 われわれは、いかに孤独にさいなまれても、大悲の如来にいつも喚(よ)びさまされて、あたたかな如来のふところに抱かれているということを決して忘れてはならないとともに、わがいのちが安らぐときが、 まちがいなく孤独が癒されるときであるということを知らねばならないのである。
 孤独から救われるのは、仏のいのちが通うているわがいのちであると知らされたときである。
 しかもわがいのちの帰するところまで明らかになれば、これにまさるよろこびはない。
 われわれは、いつもそのことを大事に考えて日暮を続けたいものである。』
 (『孤独が癒されるとき』 藤澤量正 より抜粋)

 いつでも、どこでも、この私の上に、今、ここで、南無阿弥陀仏と喚(よ)ばれ続けている。
 み名となった仏さまに会い、少しでも、前を向いて歩んでいきたいものであります。  称名
 

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
過去を追うな。未来を願うな。 
           
過去はすでに捨てられた。  
そして未来はまだやって来ない。  
だから現在のことがらを、 
それがあるところにおいて観察し、   
揺らぐことなく動ずることなく 
よく見きわめて実践せよ。  
ただ今日なすべきことを熱心に 
なせ。   
誰があすの死のあることを   
知らん。   
仏陀の言葉   
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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