2023年5月 第139話

朝事*住職の法話

「自己の内なる他者たしゃ
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「自己の内なる他者たしゃ」という題とさせて頂きました。
 「命の尊さ」藤島秀天 山田村カルチャー叢書1 に次のように書かれています。
 
『私は 煩悩ぼんのうという言葉を、非常に現代的な言葉で言い表した先生の講義を寺の本堂で聞いたことがあるんです。
 富山大学の学長をなさいました 梅原真隆うめはらしんりゅう先生です。梅原真隆先生はお坊さんでもありましたけど、富山大学の学長を務めた日本でもまた世界でも有名な学者です。
 そのように世界的に、日本より外国で有名な梅原真隆先生が、私の寺の本堂で煩悩とはどんなものかとおっしゃった時に、こんな言葉でおっしゃったんです。
 自己の内なる他者
 「自己の内なる他者」と規定されておりました。
 「自己の内なる他者」とは、私の持ち物だけども、いざどうかなってくると私でもどうすることも こうすることもコントロール不可能なものが私の中にあるということです。
 だから、一つ何かでもってその環境の中に身を置くと、もう勝手に頭をもたげてきて、自分で抑えることの出来ない、そういうものが自分を支配するということなんだと思います。
 それが煩悩という言葉の意味で、「自己の内なる他者」という言葉で梅原真隆先生はおっしゃった。
 自分なら自分で思うように出来るけれど、他人だったら自分の思うようにならないでしょ。
 そういうものが私の中に潜んでいると。
 「煩悩具足」ということは、くっついてはなれない。そして、「おぎゃ~」と産声をあげたとたんに私たちの命の中に埋め込まれているもの、という意味が「煩悩成就」ということです。』
  【「命の尊さ」藤島秀天】
 
 「自己の内なる他者」と言いますと、何か、とても高尚な哲学用語のように感じますが、しかし、現代的な感覚で煩悩というものを教えて下さっている気がします。
 「煩悩成就」と言われるように、その煩悩が成就している、ちょっとやそっとの簡単な煩悩ではない、私自身の根本から煩悩で汚染されているという感じでしょうか?
 その煩悩が、この人生という舞台で色々な形で現われてくるわけですね。
 「命の尊さ」藤島秀天 の中に、あるお婆さんの逸話が書かれています。
 少し長いですが、抜粋してご紹介させていただきます。

『 お婆ちゃんの家出
 
 「なんと人間というものは煩悩の深いもんや」と言いますけども、ほんの少し頭をもたげてくると自分でどうしようもないものが出てきて人生を狂わすもんだな、と思ったことがあるんです。
 今年の四月十八日に、私の門徒で川崎の人の葬式に行ってまいりました。川崎ですよ、神奈川県の。
 川崎で何代か前に門徒になっているところへ行ったのではなくて、今から八年前までは堂々と富山県に住んでいたお婆ちゃんだったんです。
 そのお婆ちゃんが、ほんの少し煩悩の腫れ上がってくる度合が自分の思うようにならなくて、長い間生活し四人の子供を産んで生活していた家から離れて、一番末っ子のおっちゃん(富山県の言葉で二男三男)のところのアパートに、 たった一人寂しく、本当に寂しく死んでいったんですね。
 そのことを少しお話しておくと、皆さん方、「なんと、そういうものが私たちの命を満たしていたのか!」と気付いていただけると思うんです。
 この家は商売をしておりまして、酒・タバコ・塩も売っている雑貨屋で、そんな雑貨屋のお婆ちゃんだったんです。
 今から八年前の正月の元旦でございました。元旦の朝の六時半位だったでしょうか。犬が鳴くものですから私が玄関に出ますと、その門徒のお婆ちゃんが立っておりました。
 一日の元旦に来たのですから「お~、元旦からお年頭に来てくれたんか?」と言ったら、そのお婆ちゃんが私の顔をしばらく見ておりまして、「へぇ、元旦?」と考えておって、「あ~、今日は一月の一日。若はん、今日は元旦やったんやね。」と 言うとる。
 「あんた、何しに寺に来たがかね。」と私言いましたら、「ちょっとあげてくたはんせ」というから「まあ入りなはんせ」と。
 「まあ入んなさい。」と入りましたら、「ちょっと仏さんお参りさせてください」とよく来てくれるお婆ちゃんでしたから、 「お参りしておいで」としばらく待っておりました。
 坐って話し始めたときに、やっと何で、一月一日に、しかも朝六時半に私の家の玄関に立ったかということが分かりました。
 このお婆ちゃんは、雑貨屋のお婆ちゃんだったんですけれども、この人は今、家をたてているお父ちゃん、それから二番目と三番目は女の子でありまして、皆嫁に行きまして大きい孫がおります。
 一番末に四十一歳の時に間をおいて産まれたおっちゃん(男の子)がおるんです。このおっちゃんが大変勉強が出来まして、横浜国立大学を出まして川崎の世界的な企業に勤めました。
 そこで、同じ職場に勤めている女の人に出会って一緒になり子供が二人おります。そこのおっちゃんをお婆ちゃんがとてもかわいいんでしょうね。
 四十二歳で産まれた子どもであったし親孝行で、「この間川崎のおっじゃ(男の子)からこんな手紙が来ました」とその手紙を見せたり、「孫がこれだけ大きくなりました」と私がお参りに行く度におっちゃんの話ばかりしていたんです。
 そして、一年間に二回(お盆と正月)、このおっちゃんが必ず家族を連れて富山に帰って来るのを楽しみにお婆ちゃんが働いていたのです。
 一生懸命頑張っていました。
 その年いよいよもうすぐ正月だというときに、この川崎のおっちゃんから手紙が来たというのです。
 「お母さんお元気ですか。私は今年も家族を連れて富山へ帰ろうと楽しみにしていたけれども、会社から突然一年間アメリカへ出向するように言われ、春からの準備のために今年は富山に帰る訳にはいきません。でも、元気でいて下さい。 家族では帰れないけれども、私はアメリカへ行く前に必ず富山に帰ってお婆ちゃんの顔を見てから行きます。今年はとても残念だけれど、富山に帰ることは出来ません。」
 という手紙が来たそうです。

 そこで、日がだんだん年の瀬に向かって来るに従い、「来てくれないのだったら年が明けたら自分だけでも、何日か川崎へ行きたい」という気持ちが募ってきたんでしょう。
 暮れの二十九日、思い余って朝ご飯を食べている時に、父ちゃん(跡継ぎ)に向かってお婆ちゃんが恐る恐る言ったらしいんです。
 「父ちゃん、ちょっと頼みがあるがだけど。」
 「実は川崎のおっじゃが年が明けるとアメリカに一年間行って、日本におらんがだと。それで、暮れに準備もあるということで、今年は正月は家に帰る訳にはいかんと言うて来たんだけど、一年間も会えんと思うと一目会っておきたい。 気兼ねだけども、正月明けたら、川崎へやってもらえんだろうか。」
 と、お婆ちゃん。朝ご飯食べている時に頼んだんです。本当にお婆ちゃんは大事な仕事をしていましたから人手が薄くなるわけです。
 そしたら、お父ちゃんが、
 「え~。おっじゃ、アメリカへ行くってか。今度正月に帰ってこんてか。川崎へ行きたい~!。そんなら、一晩や二晩と言わず、ずっと行ってらっしゃいよ。」
 と、ご飯を食べながらお父ちゃんが言ったというんです。
 その言葉 一言ひとことが胸に入ったとたんに、お婆ちゃんは自分を見失ったんですね。
 家では自分が大事な位置を占めていると思い込んでいたのに、一晩か二晩どころか、「ずっと行ってらっしゃいよ!」というその言葉一つに自分を見失ったんです。
 そして、二十九・三十・三十一日と「いつ寝たか、いつ起きたか、覚えていない。」そして、「ご飯をいつ食べたか覚えない。いつ寝たか覚えない」と。
 「あんた、寺へ来ようと思って来られたんでしょう!」と言うと「なぁ~ん。気が付いたらいつの間にか寺の玄関に立っていた。」と言うんです。
 あのお婆ちゃん、私の寺に来るまで歩いて来ると三時間かかります。三時間です。
 だから、朝六時過ぎということは、三時には家を出ているはずです。暗がりの中。 もう思い余って歩いているうちに気付いてみると、私の寺の 庫裡くりに立っていた。私はこれは大変なことになったんだと思い、
 「お婆ちゃん、私は長い間、あんたんところのお父ちゃんとお付き合いしているけど、あんたのことをそんなに邪険に扱うような人ではない。
 だから悪いようには取らないで、きっと一年間は日本にいないということだから、ゆっくりと喋ってこられ、ゆっくりおっちやんや孫と会ってこられという思いで、一晩や二晩と言わずゆっくりしてこられという思いで言ったと思う。
 悪く取らないで、せっかく言ってくれるのだから二晩や三晩ゆっくりして帰っておいで。」
 と私はお婆ちゃんをなだめて返したんです。
 しかし、どうしてもお父ちゃんの言葉が胸に刺さりまして、お婆ちゃん、その日の夕方家を出てしまったのです。
 一年間おっちゃんがアメリカに行っておりますから、二人の娘が嫁に行っている家に半年ずつ転がり込みました。
 そして、おっちゃんが帰って来るのを待って、川崎の社員のマンション(アパート)へ行き、そこで七年間、唯の一度も家に帰ることなく今年四月十八日に亡くなりました。
 その間、何回か、報恩講と永代祠堂経の案内は川崎のおっちゃんのところへしていたんです。
 そしたら、川崎から報恩講二回と永代祠堂経に一回来てくれました。
 ところが、川崎から私の寺に来ておりながら、自分が嫁に来てから何十年、四人の子供を産んで育てた自分の家に寄らないで、直接川崎に帰って行きました。
 川崎のおっちゃんからは何度も本家へ手紙も電話もあったようです。
 
 「兄さん、婆ちゃんを見ていると寂しそうだ。周りに誰とも喋る相手もおらず、自分たちがいる間はいいけど、家族がいなくなると本当に寂しそうにしているから、あんたが悪いとは思わないけど、一言言い過ぎたと謝って婆ちゃんを 富山に連れて行ってほしい。見ていると哀れで見ておれないから。」と。
 それで富山から二回、夫婦で迎えに行ったそうです。「婆ちゃん、おらが悪かった。おら言い過ぎた。だから、帰ってくれ!」と。しかし、それでも頑と帰らず、七年間川崎にいて遺言までしていきました。
 「絶対、家、(富山)では葬式を出してくれるな。寺の住職に川崎まで来てほしいと。」
 それで、二十日に葬式でしたので私は川崎まで行って葬式し、お骨はどうするということになったので、「お婆何言うとったって死んでしもうたもん、富山へもって帰らにゃどうする!」と私が言いまして持って来ました。
 今は本家の方にお参りに行っていますが、
 そういうことがあるんです。
 見ていると本当に穏やかな優しいお婆ちゃんでした。ところが、お婆ちゃんの「命の中」から、長男が言った一言で大きく煩悩が膨らんで、長らく生活した自分の家に帰ることも無く、帰りたいと思う思いを耐えながら川崎で死んでしまったと思うと、 なんと人間の心の奥底というのは図り知ることが出来ない「自己の内なる他者」という、自分の中にありながらいざ大きく広がってくると自分でコントロール不可能なものが私たちの中にあるんだなぁ、ということを、このおばあちゃんから教えて頂いたんです。』
  【「命の尊さ」藤島秀天】

 こんな話を聞きますと、何も特別このお婆ちゃんだけの話ではなく、誰れしも、何か一つ機縁があれば、同じことが起こり得るような話ではないかと思うのですが?如何でしょうか?
 「人間は感情の動物」と言いますが、ちょっと一言を言ったのが、相手の胸に刺さって、とても嫌な感情がいつまでも消えないで、その人を苦しませる、ということはありますよね。
 十分に気を付けて言葉というものを発しなければ取り返しがつかないと、深く自戒する次第です。
 「言葉の響きは、こころの響き」と言われた方がありますが、その人が一言発した、そのちょっとした言葉の響きの中にも、その人の持っている毒気のようなものが全て入っているのだそうですね。
 発した言葉は、たった一言であっても、少ない言葉数であっても、その中には、その人の全体が入っているのだそうですね。
 それと同じように「南無阿弥陀仏」とはたった六字で、何の役にも立たないように思いますが、その中には阿弥陀様の全体が入っているのだそうですね。
 勿体ない事ですね。
 この他人の悪口しか言わないような口から南無阿弥陀仏が称えられていることは、不思議な事実であります。
 
 大江淳誠和上の言葉に次のようなものがございます。
 「馥郁(ふくいく)たる香りを漂わせる一輪の梅の花に、天下に春の来れるを知る。  
 叢(くさむら)に集(すだ)く一匹の蟋蟀(こおろぎ)の声に、天下に秋の来れるを知る。
 一人の人間の称えるお念仏に、如来すでに我に来れるを知る。」
 私たちは本願力をどこで知るのでしょうか。
 たとえば野原に花が咲いていたら、すでにそこには春がきているとわかります。     
 阿弥陀さまが私のところにきてくださっていると知れるのは、私が称えているお念仏からです。 
 お念仏は阿弥陀さまのはたらきそのものだといただくべきです。
  (大江淳誠和上)
 ここに「お念仏は阿弥陀さまのはたらきそのもの」と言われています。
 それに比べて、私はどうでしょうか?
 何でも「私がした!私がした!」と、どこまでも自分の手柄というものを主張して、自他共に苦悩して行かざるを得ない悲しい性(さが)の私だと、自分の業の深さを思います。
 仏さまだけが知っていて下さっていたら、他の人に排斥され、悪口言われても、仏さまが、私を知り尽くして、護っていて下さっている。
 どんな時も、仏さまが、私を一番可愛がって下さっていることに気付いたら、世間の苦悩も耐えていけるのでしょう。

 色々なことに振り回されて、一安心したかと思ったら、又、不安になって、ずっと続く安心ではないのですね。
 我々人間の境涯は、所詮は一安心で、流転の生活しかないのでしょうか?

 「いのちの帰するところ」藤澤量正 著 探究社 に次のように説かれています。
 
 『慈光はるかにかぶらしめ
 ひかりのいたるところには
 法喜をうとぞのべたまふ
 大安慰を帰命せよ
 
 と「讃阿弥陀仏偈和讃」にある「法喜」には「みのりをよろこぶなり」という御左訓があります。
 法が喜べるということは、悲しい中でも喜べるということです。
 条件の整った中で喜ぶのはだれでも喜べます。
 どんな悪条件の中でも喜べる道、それは何か。
 私の人生を見抜き、私の人生の力となり、支えとなるのは、帰命釈の中にある「帰悦なり、帰税(きさい)なり」にみられるように「よりたのめ、よりかかれ」という仏の喚(よ)び声です。
 「我れをたのめ、汝を救う」という如来の宣言は、実は私が苦悩を抱き、罪業にあけくれていることを見抜いた中に生まれたという厳粛な事実、そこに目が開かれていかねばならないのです。
 それが聞こえたということです。
 だから私の喜び心は当てになりません。
 あくまで仏の大悲の深さを喜んでいくということです。
 つまり、法に遇(あ)うということが、実は法によって おのれが知られるということなのでする
 光というものは物を照らす働きがあります。
 光は闇の中にこそ機能を発揮するものです。
 光が物を照らすということは、同時に物の所在を明確にするものです。
 それと共に、物を育てるという働きが光にはあります。
 光はあたたかい。
 仏の光に遇うということは、自分が見える。
 仏法を聞くということは自己の姿に驚くことです。
 そのおのれの姿が見抜かれたのを、親鸞聖人の言葉で言えば「地獄一定」(じごくいちじょう)と言うのです。
 現代人は地獄一定なんて思ってもいません。
 「俺はまともだ」と思っています。
 だから裁きの論理しか出てこないのです。
 「俺はまともだ」と思う者は必ず人を裁いていきます。
 親鸞聖人は裁けなかった人なんです。
 裁かるべきはおのれであるというのを見た人でありましょう。
 何か悪いことが起こると、時代が悪い。環境が悪い。生活が悪い。親が悪い。
 いつもおのれだけがまともであると思いこんでいるのが現代人ではないでしょうか。
 政治が悪い、坊さんが悪い、教師が悪い、親もできちゃおらん、何もかも皆悪いという事は、おのれがまともだということでしょう。
 そのおのれがまともだと思っている人間が集まっている世が「末法濁世」です。だから、

 大集経だいじつきょうにときたまふ
 この世は第五の五百年
 闘諍堅固とうじょうけんごなるゆえに
 白法 隠滞おんたいしたまへり
 
 という御和讃が生まれたのです。
 闘諍とは争いの事ですが、争いが強くなるということは、
 おのれがまともだと思う人のぶつかり合いです。
 「念仏は自我の崩れる音である」と言った人がありますが、仏法を聞くということは、おのれ自身に遇うということ、自分の本当の姿に遇うということです。
 自分に出遇うということは、自分の姿に驚くということです。
 この驚きが、現代人にはないのです。
 何にも驚かなくなってしまったのです。
 蓮如上人は「念仏は驚きやすし」と「聞書」の中で言っておられますが、この頃の人間は何にも驚かない。
 驚くのは物価の上がったとき、財布を落としたときに驚くぐらいです。
 「ただいたづらにあかし、いたずらにくらして、老のしらがとなりはてぬる身のありさまこそかなしけれ」と「御文章」にありますが、食うて寝て一生終わっているのが現状です。
 そういう人生の中に、我々が聞かねばならないことは、実はほんとうの自分に出遇うということの大切さです。』
 (『いのちの帰するところ』藤澤量正 )
 
  平成29年9月19日、光西寺が、周防大島に日帰り旅行をしました。
 周防大島の荘厳寺(しょうごんじ)に行きました。
 以前、光西寺にお参りされた方が、 荘厳寺の寺報である 「荘厳寺便り」【寺で発行している新聞】第36号【昭和64年1月1日発行】を 私に下さいました。
 その新聞に「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という題の 法語が 載っていました。
 その法語が心に響いたので、そこをコピーして、法事などで、よく配布してきました。
 その法語を下記に載せます。
『摂取不捨(せっしゅふしゃ)

 浄土真宗のみ教えは、私の心がどのようであろうとも、阿弥陀さまが 
 この私を、必ず仏にせずにはおらない、という 摂取不捨(せっしゅふしゃ)の光の中に
 生かされてあるということであります。
 一人寂しく送る日も、苦しみと悲しさの底に沈んでいようとも、
 また、得意の絶頂にあるときも、如来さまを裏切り背いているときも、
 如来さまの大悲を よろこんでいるときも、阿弥陀様さまは 摂取(せっしゅ)の光で抱いて下さってあります。

 凡夫の目には見えずとも
 大悲は常に照らします。

 いつでも、どこでも、阿弥陀さまとともにあるという人生を、力強く歩む日々を、
 南無阿弥陀仏と届けて下さってあるのです。』
【荘厳寺だより 第36号・昭和64年1月1日発行より】

 「正信偈」次のような一節がございます。
 
 極重悪人唯称仏
 我亦在彼摂取中
 煩悩障眼雖不見
 大悲無倦常照我

 極重(ごくじゅう)の悪人はただ仏を称すべし。
 われまたかの摂取(せつしゆ)のなかにあれども、
 煩悩、眼を障(さ)へて見たてまつらずといへども、
 大悲、倦(ものう)きことなくして、
 常にわれを照らしたまふといへり。

(意訳)
 罪の人々 み名をよべ
 われもひかりの うちにあり
 まどいの眼には 見えねども
 ほとけはつねに 照らします
 
 (「正信偈」源信(げんしん)和尚(かしよう)の教え)
 
 「凡夫の目には見えずとも
 大悲は常に照らします。

 いつでも、どこでも、阿弥陀さまとともにあるという人生を、力強く歩む日々を、
 南無阿弥陀仏と届けて下さってあるのです。」
 とございます。
 
 「南無阿弥陀仏」は「如来の喚(よ)び声だと親鸞聖人は教えて下さいました。
 
 岩本月洲師の言葉に次のような言葉がございます。

 常に居ますを仏という 
 此処に居ますを仏という
 共に居ますを仏という 
 この仏を南無阿弥陀仏という
 このいわれを聞いて歓ぶを信心という 
 称えて喜ぶを念仏という  

 如来様の喚(よ)び声が、私に届いているから、このような言葉が言えるのでしょう。
 臼杵祖山師の歌に
 「碍りなくすべてを照らすみ光りは さわりある身のうえにこそ照る」
 とございます。
 
 阿弥陀さまの、どんなところへも、行き渡る、届かないところはない、そんな力強い光が、さわりがある私の上に働いている。
 そんな光を、常に受けているこの身を深く感謝し、常に居ます 此処に居ます 共に居ます仏 南無阿弥陀仏を聞かせていただきましょう。

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
 憂きことに 会うた人なら 
           
解るぞな  
憂きことに 会わざる人なら  
解らんぞな 
ため息ほど つらいものは ない   
心のやり場ない ため息 
弥陀に摂(と)られて  
南無阿弥陀仏 
南無阿弥陀仏と 申すばかりよ   
【妙好人 浅原才市】 
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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