2023年3月 第137話

朝事*住職の法話

「おそだてを頂いて」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「おそだてを頂いて」という題とさせて頂きました。
 
 安芸教務所発行の「見真」第555号に「無碍光」と題した
 武田 達裕師のご法話があります。
 
 『三十代のご夫婦がお参りに来られました。
 ご主人は第一線で活躍中の方です。
  奥さんが言われます。
 「主人は最近、自分が何のために仕事をしているのかわからない、虚しい虚しいとしきりに言うようになりました。」
 また、六十代のご夫婦が突然言われました。ご主人を亡くされた後も、立派に商売をしておられる方です。
 「今まで大事だと思ってきたお金や家などが、どうでもよく思えてきました。これからどう生きたらよいのでしょうか」。
 これらの方は、大切な問題に気付かれたのだと思います。時間がかかっても答えを求めていただきたいものです。
 人間の心の中には、厚い壁で囲まれた部分があります。
 光も入らないので そこは真っ暗闇です。
 真っ暗闇で何も見えないので、まるで存在しないかのように無視されています。
 しかし、この部分には、私たちの心の本当の姿が入っています。ですから、そこはいつかは明らかになりたいと待っているのです。
 この部分が明らかになると、我が身が知恵のない存在であると知らされます。
 怒りや憎しみ、悲しみ等の感情で一杯であることがわかります。
 が、同時に、そういう自分が、多くのものに支えられ許されて生かされている。
 そして、尊ぶべきもの拝むべきものに囲まれた幸せな身であるという事実にも気付かされます。 

 それは大きな発見であり、広い世界に放り出されたような解放感です。
 
 気がついてみれば 
 どれも これも
 私には すぎたものばかり
   (鈴木章子さん)
 
 こういう心を恵まれると、人生から自分が何を求められているかがわかってくるのではないでしょうか。
 ところで、厚い壁に囲まれた心の暗闇が、どうすれば明るくなるのでしょう。
 そのためには、壁を貫いて照らしくるものに出あう以外にはありません。
 阿弥陀様は、私の心の壁がどんなに厚くても、そこを通り抜けて暗闇を明るく照らして下さる不思議な力を持っておられます。
 そこで、無碍光(何ものにもさえぎられない光)とお呼びするのです。』
 (「見真」2000年10月1日)
 
 短くわかりやすく、とても大切な深い教えが説かれてあることに改めて驚きました。
 この法話の中に、
 『「主人は最近、自分が何のために仕事をしているのかわからない、虚しい虚しいとしきりに言うようになりました。」
 また、六十代のご夫婦が突然言われました。ご主人を亡くされた後も、立派に商売をしておられる方です。
 「今まで大事だと思ってきたお金や家などが、どうでもよく思えてきました。これからどう生きたらよいのでしょうか」。』
 とございます。
 
 ここに、自分の人生に対して大きな問いかけが起こっていることが示されています。
 あるご住職のご法話を拝聴しました。次のように説かれていました。
「人間は目先の出来事にショックを受けて、心が折れてしまい、視野がとても狭くなってしまいます。
 それに対して、阿弥陀様は限りない智慧と慈悲の視野で、私に働いていて下さいます。」と。
 ある方は、「人生に行き詰まったら、外に出て、太陽の下で考えよ。」と言われていました。
 何気なく聞いていましたが、「外に出て太陽の下で考えよ。」とはどういう意味でしょう?
「自分の視野だけでなく、もっと広い視野の世界に目覚めなさい。」という示唆だったのかな?と思ったりします。
 他人に対して、「自分の期待する姿」「相手のあるべき姿」を相手に願うあまり、「ありのままの相手の姿」「相手の抱えているいろいろな事情や苦悩」等を 見落としている可能性もあるような気もします。

 確かに、目先に色々な問題が起こっているときは、そのことしか考えられなくなったりします。
 そして、自分の都合だけで相手に腹を立てたりします。
 相手にも、他人に言わないだけで、色々苦悩がある。そんな当然のことも見えなくなり、視野が狭くなり、自分も苦しくなります。
 そういう相手を思いやる心も無くなって、ただ自分の自我の狭い思いだけになってしまいがちです。
 自己主張だけで、相手の言うことを聞かない世界を「地獄」というのだそうですね。
 一方通行だけではなく、「私はこう思うけれど、あなたはどう思う?」という態度も必要ですよね。
 互いの違いを認め合い、違いを受け入れ、話し合いながら、進んでいく、そんな態度が大事なんでしょうねえ。
 欠点をもろに指摘されることも、大事な「お育て」ではあります。
 反対に、「見て見ぬふり」そういう態度も大事なのでしょうね。
 あらためて、心のゆとり、余裕が大切だと思わされます。中々難しいですが、、。
 「笑いましょう。」という大らかさも、ほしいですね。
 まともに相手の欠点を指摘して、相手を変えようとしても、人間というものは、実に複雑な生き物で、中々その通りにはいかないですよね。
 ある門徒さんが教えて下さいました。亡き舅【しゅうと】が言っていた言葉だそうです。
「自分さえ変えることが出来ないのに、他人が変えられるわけがない。」と。
 「お育て」という言葉がありますが、色々なご縁を頂きながら、結局は、私自身が、目覚めるための、「お育て」を頂いているのかも知れないですね。

 「煩悩カルタ・本願カルタ」雪山隆弘 百華苑 に次のように説かれています。

 『 煩悩とは、悪い心のはたらき。心身をわずらわし悩ます精神作用のこと。
  仏さまにいわせると、百八つとも八万四千ともいわれる煩悩を、私たちは一つとして欠かさずみんな持ち合わせているんですって。
 この「煩悩カルタ」を読んで、思い当たれば、ハイとうなずいて、慚愧(ざんぎ)のこころを起こしましょう。
 当たりすぎて、気分が悪くなった方は、後編の「本願カルタ」を読んで、ホッとして下さい。

 《い》
 いちばん よい子は この私
憍慢きょうまん
 「差別の根源は、衆生の 憍慢心きょうまんしんにあり」とおっしゃったのが、おしゃかさま。
 私たちの思い上がりの心が、世の中に多くの差別を生んでいるというわけです。
 国民の意識調査なんかを見ますと、近頃はほとんどの人が、中流気分だそうですが、じつはこれ、アンケートに答えた適当なタテマエなんじゃないですか?
 ホンネはやっぱりなんてったって、自分が一番よい子だと思っているはずです。
 とにかくわたしたちは、それくらい思い上がっていなくては、安心して生きてはいられないんじゃないですか。
 もちろん、そんなこと、他人に言えたもんじゃないですが、心の奥底をさぐってみれば、それこそ、内心ひそかに、後生大事に、こんな煩悩をかかえ込んでいるわけです。
 ところがね、この 憍慢心きょうまんしんというヤツは、他人を傷つけたあげくに、なんと自分まで苦しめてしまうというおそろしい煩悩なんですよ。

 《ろ》
 ろくでもないのは みな他人
 【まん
 憍慢心きょうまんしんを細かく分けると、まず、この  まんです。
 どんな思い上がりの心かというと、他人と比べて思い上がるという心。
 「みんな仲良くしましょうね」などと口ではいいながら、わたしたちは いつでも、他人と比べて、自分が一番よい子だと思い込んでいるものなんです。
 「凡夫は自他の差別を見る」とある和上がいっていますが、ほんとにそんなものなんですねえ。
 山根の源佐(げんざ)さんは、これとまったくさかさまで
 「いっち(一番)悪いで しあわせだぁ」といいました。
 ろくでもないのは他人ではなくて、このわたしだったと気づかれたのです。
 そして、そんなわたしに、如来さまはご苦労くださっているのだと、よろこばれたのです。
 なかなか、源佐さんのマネは出来ないんじゃないですか?
「なによ、わたしはちっとも悪くないわよ。悪いのは まわりの人でしょッ」いつでも、これですものねえ。』
 【「煩悩カルタ・本願カルタ」雪山隆弘 百華苑 】

 これは、中々するどい指摘で、言われなければ、中々そんなふうには思えないですね。
 やはり「自分が一番正しい。相手が間違っている。」となってしまいます。
 しかし、み教えを聴聞する中で、少しでも、真実にかなった見方というものに、関心が向けばいいと思っています。
 死ぬまで無理かも知れませんね。

 「昨日も悪く、今も悪く、明日も悪い」それが、仏さまに照らし抜かれた凡夫である私の真実の姿なのかも知れません。
 煩悩カルタの法話は、いたずらに、自他の感情を害するのが目的ではなく、「気付かせて頂く」「気づき」というものがポイントです。
 高僧である香樹院徳龍和上は、 「自分の心が自分をだますのだ。」と注意を 喚起かんきされています。
 「自我」というものは、中々 狡猾こうかつなもので、てごわい百戦錬磨の強者なんだそうですね。
 自我は、実に 「ずるい」ということですね。
 香樹院師は
「自分の心が自分の心を だます!」
 ということを注意されています。
 例えば、真実の 信心しんじんでもないのに、如何にも、自分が真実の信心を得たように、 疑似体験ぎじたいけんをさせたりすることも自我というものはやってのけるのだそうですね。
 また、仏法に精進していると、
「他の人は、世俗的な欲望に、どっぷりと浸っているのに、私はこんなに、仏法を聴聞している。私は何て謙虚なんだ。」
 という態度で、「自我」が現れることもあるそうですね。
 蓮如上人は、そういう自分の菩提心【ぼだいしん】に潜む高上りの慢心を指摘して、「わがよきものに はやなりて」と戒められておられます。
 そのように「自我」というものは、実に狡賢く、自分の心を騙し続けていく百戦錬磨の強者なんだそうですね。
 他人に騙されることも気を付けなければならないことは言うまでもありませんが、 自分の中に、自分を騙すものが潜んでいることは、実に気付き難いことですし、恐ろしいことではないでしょうか?
 「煩悩に目鼻が付いたのが自分だ。」と法話で言われるのも、そういう意味なんですかね?
 自分という意識が、もう既に煩悩であり、自我ですよね。
 他人に騙されないようにすることより、自分の心に騙されることの方が、もっと恐ろしいことかも知れません。
 
 『煩悩カルタが、当たりすぎて、気分が悪くなった方は、後編の「本願カルタ」を読んで、ホッとして下さい。』とありますから、「本願カルタ」も紹介します。

 『仏さまの本当の願いを、本願といいます。その本当の願いとは、いま「いの一番」にあげる第一八願「一切の衆生 もらさず救う」という願いです。
  この私を、そして あなたを、生きとし生きるものみなすべてを仏にせずにはおかないと願って下さっているのが阿弥陀仏という仏さまなのです。

 《い》
 一切衆生 もらさず救う
 第一八願
  至心信楽ししんしんぎょうがん
 
 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、 至心信楽ししんしんぎょうして、わが国に生ぜんと欲ひて、 乃至十念ないしじゅうねんせん。
 もし生ぜずは、 正覚しょうがくを取らじ。ただ五逆と 誹謗正法ひぼうしょうぼうをば除く。

 一つのことに徹底して、それを全うすることが出来た方の事を仏さまといいます。
 東の方にいらっしゃる、アシュクビ仏という仏さまは、ハラを立てないという願いを起こして、それを全うじて仏さまになられたお方だと聞いています。
 では、阿弥陀仏は一体どんなことに徹底されたのかと申せば この四十八通りの願い、なかでも、とくに この第一八願。
 つまり、十方の衆生を、すべて浄土に生まれさせることができなかったら、自分もほとけにならないという願いを立て、そして その願いを全うじて仏さまになられたのであります。
 つまり、この願いの成就によって、この私も、間違いなく救われるに決まっちゃってるんですよ。
 《ろ》
 六道輪廻の 罪消えて
 第二 
 不更悪趣ふきょうあくしゅがん

 たとひ われ仏を得たらんに、国中の人・天、寿終りてのちに、また三悪道に かえらば 正覚しょうがくを取らじ。

 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上- 迷える者は、この六つの世界をはてしなく 輪廻りんねして、はかりしれない苦を受けるのでありますが、阿弥陀仏は、そんな私を おさめ取って捨てたまわず、でありまして、ひとたび浄土に生まれたならば、もう、地獄や餓鬼や畜生の世界に もどることは絶対にないのであります。
 この願いの働きを「抜苦」(ばっく)といいますが、とくかく毎日 三悪道や六道の只中にいて、苦しいとも思っていないのが私たち。
 迷いを迷いとも知らず迷っているんだから、仕方がない。
 しかし、それを凡夫というんですと。
 ところで「不更」(ふきょう)とは、かえらない ということ。
 ですから、この願い、今風にいうなら、 バック(抜苦)オーライ・ノーリターン(不更)、ですね。』
 【「煩悩カルタ・本願カルタ」雪山隆弘 百華苑 】
 
 煩悩しっかり持った私が、仏さまの南無阿弥陀仏「われにまかせよ 必ず救う」という働きの中に、仏縁を頂き、お念仏生活をさせて頂く幸に恵まれています。
 『「拝読 浄土真宗のみ教え」の味わい』【本願寺出版社】の中の親鸞聖人のことば の一部を紹介させていただきます。

 『親のよび声
  記憶力に自身のある読者でも、ご自身が自分の親を初めてよんだ時のことを覚えている人はおられないと思います。
  その時はもちろん「お父さん」、「お母さん」ではありませんね。
 「アーアー」とか「マーマー」であったかもしれません。
  しかし、子どもが親をよぶ前から、親はわが子の名を どれほどよんだことでしょう。
 それはこの世に誕生してからではなく、まだ母親の胎内に小さないのちが宿った時からです。
 正式に命名はしていませんが、親はわが子に声をかけずにはおれないのです。とても数えきれる回数ではありません。
 そして誕生後、母親に抱かれてお乳を飲んでいる赤ちゃんは、このお乳の中に不純物が混じっているのではないかとか疑う心など全くありません。
 自分を取り落とすのではないかと、不安な気持ちになるわけではありません。
 すべてを母親にゆだねて、安心しきっているのです。
 特に母親は、わが子の名前をよびかけると同時に、自分が「お母ちゃんだよ」と名のってよびかけます。
 それは、どんなことがあっても わが子を見捨てず、しあわせにせずにはおかないという親心です。
 その親心が子どもに届いたならば、教えたわけではないのに、自然といつの間にやら子どもの口から親をよぶ声が出てくるのです。

 しかし、近年は親によるわが子への虐待が数多く報じられることには心が痛みます。
 学僧・原口 針水師(はらぐち しんすい)(1808~1893)は
 「われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの親のよび声」
 と詠まれています。
 必ずわが国(お浄土)へ生まれさせずにはおかないという、阿弥陀如来のご本願のお救いのはたらきの確かさであります。
 わたくしが「南無阿弥陀仏」とお念仏を称え、その称えた自分の声を自分の耳で聞きます。
 そのことすべてが、実は阿弥陀如来のわたくしに対するはたらきかけであるとよろこばれておられるのです。』
【「拝読 浄土真宗のみ教え」の味わい』 本願寺出版社
 藤井 邦麿】
 
 
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
 八木重吉やぎじゅうきち 
           
『こころよ では いっておいで  
しかし また もどっておいでね  
やっぱり ここがいいのだに 
こころよ   
では いっておいで 
          


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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