2023年2月 第136話

朝事*住職の法話

「あるおばあさんの面影おもかげ
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「あるおばあさんの面影おもかげ」という題とさせて頂きました。
 もう何年も前にご往生されましたが、お寺の近所、寺から、四~五件先に、あるおばあさんが住んでおられました。
 「お寺の鐘の音が聞こえる。有難い。」と鐘の音を有難く聴いておられたおばあさんでした。
 このおばあさんから受けた感化は大変大きなものがあったと、しみじみ思います。
 おばあさんの面影を偲ぶときに、自然と、「おばあさんは信心の人だったなあー。浄土真宗のみ教えを心底喜んで味わっておられたなあー。」という気持ちが湧いてきます。
 おばあさんの面影の姿そのものが、今でも、私を導いて下さる気がします。
 そのおばあさんの面影の雰囲気、全てが、信心の香りとして、よみがえってくる気がするのです。

『蓮如上人御一代記聞書書』第210条に次のように書かれています。
【『現代の聖典 蓮如上人御一代記聞書』細川行信 村上宗博 足立幸子 法蔵館 」より】

 『蓮如上人御一代記聞書書』第210条

 「信治定しんじじょうの人は、みれば、すなわち、とうとくなり候う。
  これ、その人のとうときにあらず、 仏智ぶっちをえらるるがゆえなれば、いよいよ、仏智のありがたきほどを存ずべきことなり」と云々。」

 【現代語訳】
 「誰であれ、 信心しんじんを確かにいただいているというのは、まず初めにその人を見たところで、 まわりのものが尊くありがたい気持ちになるものである。
 けれども、これは 信心しんじんの人その人自身が尊いのではなく、その人が仏智をいただかれているからである。
 それなればこそ、ますます仏智のありがたさのほどを思わねばならないことである」
 とのお示しです。
 
 【要義】
  信心しんじんの人が尊く見えるのは、その人自身が尊いのではない。
 信心のところに真実・仏智の尊さを感じるのであると語る一条。
 私たちが 煩悩具足ぼんのうぐそく凡夫ぼんぶの身であることは、信心を得ても全く変わることはない。
 ただ、真実・仏智をよろこぶ信心の人の姿に、周りの者たちも、仏智の尊さを感じるのである。

【『現代の聖典 蓮如上人御一代記聞書』細川行信 村上宗博 足立幸子 法蔵館】
 
『蓮如上人御一代記聞書讃話』第五巻 柳田智照」には、次のように書かれています。

 「前章は 弥陀みだの光明の 御力おちからによって信心を得ることを示された。
 それを承けて、この章は 信心治定しんじんじじょうの人は、尊き仏智を得る故に、その人の賢愚老少によらず、尊くなることを示されている。
 それは、その人の 性得しょうとくが尊いからではない。
 本願を信ずる一念に、弥陀の仏智が行者の心中に 極速円満ごくそくえんまんと、 充満じゅうまんして下さるが故である。
 そのことを通していよいよ 弥陀仏智みだぶっちの有難きことに気付かせて頂けよとのみ教えである。」
 と書かれている。

【『蓮如上人御一代記聞書讃話』第五巻 柳田智照】

 信心治定しんじんじじょうの人は、尊き仏智を得る故に、その人の賢愚老少によらず、尊くなることを示されている。
 その人に尊き仏さまの智慧が働いているから、賢愚老少によらず、尊くなると説かれています。
 凡夫の身は、「性得しょうとく」という言葉のように、「煩悩抱えた あるがままの地金の私」であります。
 凡夫は煩悩をいっぱい抱えている。
 その凡夫が、本願を信ずる一念に、弥陀の仏智が行者の心中に 極速円満ごくそくえんまんと、 充満じゅうまんして下さる。

 「弥陀の仏智が行者の心中に 極速円満ごくそくえんまんと、 充満じゅうまんして下さる」
 と説かれている。

 寺の近所に住んでおられた、その有難いおばあさんには、弥陀の仏智が充満していたのでしょう。

 そのおばあさんは、何よりも「仏法聴聞すること」を大事にしてこられた方でした。
 
「阿弥陀経のおこころ」林 水月 探究社 に次のように書かれています。

 「念仏念法念僧と聞かれ、この心が生ずるためには、まずわれわれはご本堂に集まり、ご本尊さまに向かって、わが座を得てすわりますと、 「随順 = ずいじゅん」の働きが現れてまいります。
 随順とは大無量寿経に、講堂精舎宮殿楼閣と宝池の 荘厳しょうごんとして、お浄土の作用【はたらき】を説かれているところに出ている文字であります。
 「隋」とは、精舎で説かれる法は わたくしのために説かれているのだと聴聞することが出来るのであります。
 「弥陀みだ五劫思惟ごこうしゆいの願をよくよく案ずれば、ひとへに 親鸞一人しんらんいちにんが為【ため】なりけり」
 との心境になるのであります。
 「順」とは、いつのお説教も第十八願の名義【いわれ】を繰り返し繰り返し聴くのでありますが、何度聞きましても、ご本堂に座【ざ】して聞くのであれば、 「あきる」ことだけはありません。
 それで聖人は「入出二門偈」【八十三歳の撰述】 の中で、「随順名義称仏名」とお讃【うた】いになりました。

 名号みょうごうの義理【いわれ】はご本尊さまのいられる本堂にて聴聞し、南無阿弥陀仏と信心相続の感謝の称名念仏をするのだとのお心であります。
 次に念仏・念法・念僧の心が生ずるという事は、われわれが本堂に集会して聞法している行為が、そのまま阿弥陀如来の衆生済度をされる事業に参加し、これを手伝うことになっている事を 教示されているのであります。
 われわれは悲しみの中に、あるいは苦しみのうちに暮らしている人びとが少しでも幸福な日暮しをされるようにと願わずにはおられません。
 しかし、この願いをどのように実現させたらよいのでありましょうか。
 わたくしどもは心をはげまし、身体をご本堂に運んで、聞法の姿勢をとるよりほかに方法がないのであります。
 わたくしが 聞法もんぽうしているすがた、かたちが他者への真実の奉仕になるように、阿弥陀如来さまがして下さるからであります。
 これを 「聞法奉行もんぽうぶぎょう」と説かれ全員聞法全員伝道の実は一人ひとりの生涯かけての聞法の姿勢の中にある事を 阿弥陀経の中に知らしめられる事でございます。」

【「阿弥陀経のおこころ」林 水月 探究社 より】

 そのおばあさんを思うとき、おばあさん自身では、意図的に「私の姿を通して仏法を伝えていくのだ。」という気持ちはなくても、おばあさんの仏法聴聞 聞法している姿そのものが、 他者に感化を与えているのだと、この林 水月和上の言葉からも、改めて教えられる気がします。

 ここに
『「隋」とは、精舎で説かれる法は わたくしのために説かれているのだと聴聞することが出来るのであります。』

 「弥陀みだ五劫思惟ごこうしゆいの願をよくよく案ずれば、ひとへに 親鸞一人しんらんいちにんが為【ため】なりけり」との心境になるのであります。』
 と説かれています。
 「私の為の仏法」であると説かれています。
 
 また、お寺の本堂以外のところで説かれても、誰が説かれても、どこで説かれても、仏法は仏法です。
 場所は関係ありません!仏さまはどこにもおられます。
 しかし、世の中には、「お寺は自分とは何の関係もないところだ!葬儀や法事の時くらいしか用事はない。」とお感じになられている方も多いと思われます。
 しかし、たまには、本堂という環境は、仏法的に荘厳された場所だということに思いを寄せて、その場所の良さを見直し、活かして見るような、お寺のイメージの転換も、大切な気もします。
 私も毎日、本堂で、お勤めするひと時を大切にさせて頂いています。
 どうぞ、皆様お寺にお参りください。
 共に仏法聴聞させて頂くひと時を持ちたいものですね。
 共に聴聞するのはいいものですね。

 『「隋」とは、精舎で説かれる法は わたくしのために説かれているのだと聴聞することが出来る。』とありますが、
 ここに、「私の為に説かれている」とございますが、それに関連したことで、「私が救われる」ということについて、 おばあさんの言われたことで、大変、印象に残っていることがございます。
 
 おばあさんが入院した時のことを、私に話して下さったことがあります。
 それはこんな話でした。

 『入院して、病院のベッドに寝ていたら、先生と看護婦さんが話している声が聞こえ、「今晩が山だ。」と、おばあさんのことを話していたというのですね。
 もちろん、何とか持ち直して、元気になられたわけですが、その時は、「今晩が山なのか。」と、落胆の気持ちになったわけです。
 おばあさんが言われるには、「自分は今まで一生懸命に仏法を聴聞してきた。
 しかし、『今晩が山だ。』と言われると、今まで聞いてきた仏法が、全く何の役にも立たなかった。」
 そう私に言われたのですね。
 続けて言われるには、
 「自分は今まで、浴びるほど仏法を聞いてきた。
 しかし、「この私が救われること」を聞いていなかった。
 そこでベッドの上で、しばらくの時間、どれくらいの時間が経ったか分からないけれど、途方に暮れて、落胆して、うなだれて、過ごしていたら、
 「そういうお前だから救わずにはおれないんだよ。」という阿弥陀様の声なき声が聞こえてきた。』
 そう言われました。

 「私が救われることを聞いていなかった。」という言葉は、そのまま私への厳しい忠告として聞こえてきました。
 このおばあさんの話エピソードは理屈じゃないですね。
 そんな生易しい状況ではないですね。
 おばあさんの言われたことを、言葉通りに解釈すれば、
「今まで仏法を聞いてきた、その聞いてきた仏法が、土壇場で何の役にも立たなかったのなら、何のために仏法聞くのか?!聞いても役に立たないのなら、何の意味もないじゃないか!」
 そう思われても仕方ないようにも受け取れます。
 しかし、それは表面的な言葉なだけで、深いところでは、仏の慈悲が流れている、という感じがします。
 おばあさんは、その時何を感じて、どうその危機を乗り越えることが出来たのか?
 それはおばあさん自身に聞いてみなければ分からないことです。
 自分では、仏法をよく聞いてきたつもりではあったけれど、土壇場では間に合わなかった?なぜ?
 仏法が、心底、おばあさんの身についていなかったと言えば、その通りでしょう。
 しかし、そんな偉そうなことを私がどうして言えるでしょうか?
 私が今おばあさんと同じ状況になったら、間違いなく同じこと、いや、もっと情けないことになってしまうでしょうね!
 それは、自分が、一生懸命学んできたのは、自分自身の身についた仏さまの教え、智慧ではなかった。
 そういうことですよね。
 そこで、おばあさんは、情けない気持ちになり、うなだれ、うちしおれて、ベッドの上で、どれくらい時間が経ったか分からないけれど、しばらく過ごしていたら、 『そういうお前だから救わずにおれないんだよ。』という阿弥陀様の声なき声が聞こえてきた。
 これは、自分が今まで一生懸命積み上げて来たものが、身についていなかった仏法だと気づき、そのことが、より広い世界への開眼となっていったということではないでしょうか?
 それは、やはり今までおばあさんが一生懸命に仏法を聞いてきたから、聞法してきたから、そういう気づきが開眼があったのではないでしょうか?

 だから、「仏法を聴聞すること」、「聞法」が無駄であるということでは決してないと思うのです。
 土壇場で、役に立たなかったということが、より広い大きな世界への開眼となっていったのではないでしょうか?
 ただ単に、情けない出来事ではなく、より広い世界への開眼の出来事、それでこそ、「誰一人、決して見捨てない。」という仏さまのお慈悲というものではないでしょうか?
 そんなことを感じさせられる次第です。

 そして、この話には、続きがありまして、おばあさんが言われるのには、
 「もし、この病気が治ったならば、今度は、仏法聴聞に全精力を傾け、聞法生活をしようと固く決意しました。
 しかし、住職さん、人間とは浅ましいものですねえ。
 峠を越えて、再び元気になってきたら、病院での決意は失せて、ついつい、元の横着な生活になってしまいました。
 人間とは、本当に浅ましいものですねえ。」
 としみじみ言われました。
 
 ある仏法の法座で、このおばあさんが講師に質問されたことがありました。
 「大道を歩む姿を眺めれば、心配もなし、安心もなし」という言葉の味わいは如何?
 と質問されていました。
 それに対して、講師がどのように答えられたかは忘れてしまいましたが、おばあさんが、講師の答えを聞いて、満足そうに、しみじみ静かに味わっておられた姿が印象的でした。
 「大道を歩む姿」とは、「本願の大道」のことでしょう。
 本願の「大道を歩む姿を眺めれば、心配もなし、安心もなし」とはどういう味わいなのでしょうか?

 阿弥陀様の救いの働きは、今、現に、南無阿弥陀仏となって、「今・ここ・私」に働きづめに働いていて下さっている。
 「私が心配したり、安心したりすることではない。」
 阿弥陀様の救いの働きは、私の 思慮分別しりょふんべつではない。
 「南無阿弥陀仏は 仏【親】のいのち 通い来りて 私のいのち 親と子供が 一つのいのち 一つの息が お念仏」
 という法語のように、私の手の届かない、私の思慮分別では掴めないところに、阿弥陀様から私への呼びかけがある。
 おばあさんのエピソードから、そんなことを教えられる気がしたことでございます。
 
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
         
 
 蓮如上人れんにょしょうにん御一代記聞書 
           
『わが妻子ほど不憫なることなし。  
それを勧化せぬは、あさましきこと  
なり。宿善なくばちからなし。 
わが身をひとつ勧化せぬものが   
あるべきか。 
蓮如上人 
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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