2022年11月 第133話

朝事*住職の法話

「己の阿呆あほうと仏の尊さ」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。称名
 今月は「己の阿呆あほうと仏の尊さ」という題とさせて頂きました。
 この法語は、以前、ご法話の中で、聞かせていただいた言葉でありまして、はっきり意味が分からないままでありながら、なぜか深く心の底に残っている言葉であります。
 「阿呆」【あほう】という言葉は現代では、日常生活ではあまり使わなくなった言葉でしょうか?
 それとも、喧嘩するときに、「阿呆!」と言ったりするときに使ったりするのでしょうか?
 この法語を教えて下さった講師が、「一度『阿呆日記』というものを書いたらいいですね。」と言われたことも、覚えています。
 つまり、日常生活の中での、自分の姿を飾ることなく、書いてみて、如何に自分というものが阿呆であるか!?ということに気づけ、という趣旨だったと思います。
 それは「お前は阿呆だろう」というような相手を見下げた、非難めいたものではなく、もっと大らかな意味合い、ニュアンスで言われた言葉のように思いました。
 小説にも「私小説」というものがあり、自分の人生のことを、フィクションではなく、ありのままに書いていく、というものがあります。
 事実だからこその味わいや、面白い面も、確かにあるわけですが、作者が、本心をどこまで書くことが出来るか?
 中々、きわどいものがありますよね。
 それに登場人物や、起こった出来事も、事実なわけですから、良く描かれているのなら結構ですけど。
 悪い事実をそのまま小説に書かれたら、読む方は面白く読んで、笑い飛ばしても、書かれた方は、どんな気がするでしょうか?
 事実だから、仕方ないのかな?そんなことを、読んでいて、ふと感じたことがあります。
 「阿呆日記」は「日記」ですから、誰れにも見せるわけではないのだから、自由に書いていけばいいのでしょう。
 自分が描いている理想的な自分と、本当の自分の姿との間に、大きなギャップがあることに気づかざるを得ないことでしょう。
 浄土真宗でも、この「阿呆日記」のように、仏さまの教えを聞いていく中で、自分の姿というものを、自分の地金、値打ちというものを知らされていく、ということがあるのではないでしょうか?

「真宗を学ぶ 愚にかえりて」
 浅井成海師 永田文昌堂 
 という本の中に、次のような文章がございました。
 少し難しいですが、紹介させていただきます。
 
 『誓願にまかせまいらせる

 聖人の晩年は、京都でひたすら著述に専念されたが、門弟との文通も繁く、しかもその消息を通して浮き彫りにされる問題は多い。
 消息を通して聖人と門弟の人々との細やかな心の交流を伺うことができるとともに、徹底した他力の救いが説かれているのである。
 『末灯鈔』【まっとうしょう】第九通には「誓願名号同一の事」と記された法語がある。
 聖人の返書より、その問いを推察することが出来る。
 誓願と名号のいずれも切り離すことはできないが誓願を信ずるのみでよしと説くものがあり、【信心を強調するあまり、称名を必要なしと説く】。
 或は名号を信ずるのみでよし【称名念仏を強調するあまり、臨終まで信心が定まらぬ】と説くものもある。
 いずれも極端な主張であるとして、聖人はこれらをしりぞけられるのである。

 誓願・名号と申してかはりたること候はず。
 誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。
 かく申し候ふも、はからひにて候・・・・なんでふわがはからひをいたすべき。
 ききわけ、しりわくるなどわづらはしくは仰せられ候ふやらん、これみなひがごとにて候
【末灯鈔第九通】

 この文より、行と信の内容をつめればいかにとらわれを超えた内容をさし示すかが知られるのである。
 名号と誓願は、不離であることを述べながらなお「かく申し候ふもはからひにて候」と説き 「ききわけ、しりわくるなどわづらわしくは仰せられ候ふやらん、これみなひがごとにて候ふ」と述べ、聞きわけ、知りわけることもとらわれとするのである。
 事実は、名号を聞くことによって、次第に我々は育てられていくのである。
 全く仏法と無縁であったものが、さまざまな仏縁にめぐまれて、念仏申す身となり、念仏に聞く身となっていくのであるから、「ききわけ、知りわけていく」のであるが、 到達する点は、「ききわけ、知りわけ」て往生浄土の身となるのではなく、それさえも超えて「ただ念仏申す身である」ことが知られるのである。
 「末灯鈔」第六通には「故法然上人は『浄土宗の人は愚者になりて往生す』と候ひしことを、たしかにうけたまわり候ひし」と述べているのは、究極の他力というのは、 知識のつみかさねや体験のつみかさねで救われるのではなく、それら一切が くだかれ、捨てられるところに成立することが知られるのである。』
【「真宗を学ぶ 愚にかえりて」浅井成海 師より】
 
 中々難しい文章で、昔の文字の使い方ですので、余計に分かりにくくなっているような気がします。
 この中で、私たちは名号を聞くことによって育てられていくのだと説かれています。
 今までは全く仏法と無縁であった者が、様々な仏縁に恵まれて、念仏申す身になり、念仏に聞く身になっていくのだと説かれています。
 それは、仏法を知り分け、聞き分けていくことであると。
 しかし、知り分け、聞き分けて往生浄土の身となるのではなく、それさえも超えて「ただ念仏申す身である」ことが知らされるのであると説かれています。
 故 法然上人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と言われたと説かれています。
 他力というのは、知識の積み重ねや体験の積み重ねではなくて、それら一切が くだかれ、捨てられるところに成立する、と説かれています。
 蓮如上人は「仏法は聴聞に極まるなり」と言われています。
 しかし、ここでは「知り分け、聞き分けて往生浄土の身になるのではない。」とはっきり言われています。
 これは、どう味わうべきなのでしょうか?
 ある先生が「要るものが要らないものであり、要らないものが要る。」と言われたことを思い出します。
 片方に偏り、「要る」とか、「要らない」と、決めつけるのではなく、「要るものが要らないものであり、要らないものが要る。」ということなのではないでしょうか?
 聞き分け、知り分けることが要らないということではなく、聞き分け、知り分けしていく中で、自然と、 「己の阿呆と仏の尊さ」が、しみじみと感じられていくのではないでしょうか?
 『他力というのは、 知識のつみかさねや体験のつみかさねで救われるのではなく、それら一切が くだかれ、捨てられるところに成立することが知られるのである。』 と説かれていますように、仏法を聞いていく中で、知っていく中で、己の阿呆なこと、仏さまの尊いことが自然と、我が身に知らされていくことなのでしょう。
 
『朗読法話集 第一集』【本願寺出版社】の中に、次のように説かれています。
 
『法を聞く
 私たちは、なかなか自分では、自分の姿に気が付きません。
 人から 指摘してきされるまで、自分の姿を知ることができないことが多いようです。
 そして、人の欠点ばかりが目につき、人の悪口ばかりいって、お互いに傷つけあっているのではないでしょうか。
 このような、自分を振り返ることのない、自己中心のこころを 「煩悩ぼんのう」といい、これが私の迷いや、悩みの原因となっているのです。
 しかし、自分のみにくい姿は、とても見えるものではありません。
 それどころか、迷っていることさえ気づかないのです。
 自分の欠点だらけの姿を見るということは 不愉快ふゆかいなことですし、たとえ親しい人から指摘されたとしても、受け入れにくいものです。
 仏法も同じことで、なかなか耳に入ってきません。
 お寺の法要や 聞法会もんぽうかいなどで、せっかく法話を聞き、ご縁にあわせていただいているのにもかかわらず、素直に仏さまの教えを受け入れられないのは、 やはりひとりよがりの心が邪魔をしているからです。
 仏法を、他人ごととしてしか受けとめようとしないのは、その心のせいです。
 浄土真宗は、 ほう【みのり】を聞くということを、なによりも大切なことだと教えます。
 法を聞くことによって、私たちは自らのはずかしい姿を知らされると同時に、このような私に 慈愛じあいをそそぎ、救わずにはおられないと願い続けておられる、阿弥陀如来の存在を知らされるからです。
 私のかたくなで、みにくい心をくずして、素直に仏さまの言葉が耳に入るようになるには、何度も何度もくりかえし、教えを聞いてゆかなければなりません。
 
 一生涯いっしょうがい聞法もんぽうです。 
 そうして、この煩悩だらけの私も、阿弥陀如来の大きな慈悲の中に、いだかれていると気づかせていただくとき、素直に、「南無阿弥陀仏」と称えさせていただけるようになります。
 忙しい日常生活の中で、なかなか仏法を聞く機会を見いだしにくいかも知れませんが、つとめてみ教えに触れ、わが姿を反省していきたいものです。』
 と説いてあり、「法を聞くこと」が何より大切なことだと説かれています。
 「聞くに始まって、聞くに終わるのが浄土真宗」なのでした。
 
『朗読法話集 第一集』【本願寺出版社】の中に、次のように説かれています。

 『慚愧ざんぎ歓喜かんぎ
日ごろから私たちは「南無阿弥陀仏」と、お念仏をとなえさせていただいております。
 ではお念仏をとなえるとは、どういう意味があるのでしょうか。
 他のご宗旨しゅうしでは、たとえば 「百万編念仏ひゃくまんべんねんぶつ」 などといわれますように、数多くとなえるほど 功徳くどくがあると、回数を問題にされる ところもありますが、浄土真宗では、念仏の数が問題なのではありません。
 お念仏をとなえさせていただくことは、お念仏を聞かせていただいているのです。
私のような煩悩具足ぼんのうぐそく凡夫ぼんぶを救うために、 如来さまが与えてくださった本願の名号ですから、名号を称えますと、そこには、「罪はいかほど重くても かならずたすける」と仰せられる、仏さまの大悲の本願が聞こえてくるのです。
そして仏さまの慈愛の中に、生かされている自分であることに、気づかせていただくわけですが、 同時にまた、仏さまの教えに照らされますと、私の愚かな姿が見えてきます。
平気でウソをいうし、人をどなりつけたり、ねたんでみたり、欲張りなことを考えたり、 とにかく、罪深く愚かな私であることが、しみじみと知らされます。
  
 妙好人みょうこうにん浅原 才市あさはらさいちさん
 【島根県温泉津ゆのつ町】は、
 「あさましい」と「ありがたい」という言葉を、いつも口にしておられたそうです。
「あさましい」とは、我欲にまみれた私であるという、深い反省から出た言葉です。
また、「ありがたい」というのは、こんな「あさましい」私を救うと仰せくださるとはなあ、という感謝の思いを あらわされたものです。
 この「あさましい」と「ありがたい」が、お念仏を聞き、お念仏を申す生活の中でひとつになるのです。
この「あさましい」私を、あさましいままで、阿弥陀さまはお救いくださる、なんと「ありがたい」ことかと よろこぶと同時に、だからこそ、このみ仏の御恩に報いるためにも、懸命に生きなければならないのです。
 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏・・・・。』
 
 ご紹介させて頂いた『朗読法話集 第一集』の中で、「己の阿呆と 仏の尊さ」が繰り返し説かれているように思います。
 「世の中に 難しいものが ただ一つ 己の阿呆と 仏の尊さ」

 「自らのはずかしい姿」が、「己の阿呆」でありましょう。
 「このような私に 慈愛じあいをそそぎ、救わずにはおられないと願い続けておられる、阿弥陀如来の存在」が「仏の尊さ」でありましょう。
 「私のような煩悩具足ぼんのうぐそく凡夫ぼんぶ」が「己の阿呆」でありましょう。
 「私のような煩悩具足ぼんのうぐそく凡夫ぼんぶを救うために、如来さまが与えてくださった本願の名号」が「仏の尊さ」でありましょう。
 
 「浅原 才市あさはらさいちさん
 【島根県温泉津ゆのつ町】は、
 「あさましい」と「ありがたい」という言葉を、いつも口にしておられたそうです。
「あさましい」とは、我欲にまみれた私であるという、深い反省から出た言葉です。
また、「ありがたい」というのは、こんな「あさましい」私を救うと仰せくださるとはなあ、という感謝の思いを あらわされたものです。
 「あさましい」が「己の阿呆」でありましょう。
  「ありがたい」が「仏の尊さ」でありましょう。
 この世の中では、「真ん中にいる者」と「端にいる者」とがあり、「真ん中にいるもの」と「端にいる者」との違いがあるように思います。
 しかし、仏さまの教えを聞かせていただくと、「誰れもが、真ん中にいる者」と味わわせていただくことが出来るのではないでしょうか。
 「落ちぶれて 袖に涙のかかるとき 他人の情けの薄ごろも」という歌もございますね。
 円は どこをとってみても そこが中心なんだそうですね。
 「誰れもが、真ん中にいる」ということなんでしょう。
 「己の阿呆」を「零点」とするならば、「仏の尊さ」は「百点満点」となりましょう。
 『この「あさましい」と「ありがたい」が、お念仏を聞き、お念仏を申す生活の中でひとつになるのです。
この「あさましい」私を、あさましいままで、阿弥陀さまはお救いくださる、なんと「ありがたい」ことかと よろこぶと同時に、だからこそ、このみ仏の御恩に報いるためにも、懸命に生きなければならないのです。』
 と説いてございます。
 「あさましい」【零点】と「ありがたい」【百点満点】が一つになった味わいということでしょうか?
 「我一人」が救われるのならば、「我ら」の世界に目覚めさせて頂き、懸命に生きなければならないと教えられます。
 どこまでも、凡夫の私です。それを忘れず、み教えを灯りとし、阿弥陀様に、見られ、護られながら、感謝を忘れず、慚愧しつつ、精一杯生きていきたいものでございます。称名

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                  
 
 蓮如上人れんにょしょうにん御一代記聞書 
           
『一日のたしなみには、  
朝のつとめにかかさじと  
たしなむべし。』 
一日のうちに心がけるべきことは、   
毎朝、お内仏の勤行を 
怠らないようにたしなむこと。 
凡夫の身のあさましさを  
省みれば省みるほど、   
たしなみが大切です。』  
蓮如上人 
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






トップページへ   朝事の案内   書庫を見る