2022年10月 第132話

朝事*住職の法話

横川法語よかわほうご
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。称名
 今月は「横川法語よかわほうご」という題とさせて頂きました。
 『横川法語』は、親鸞聖人が浄土門の七高僧(インドの龍樹菩薩・天親菩薩、中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、日本の源信和尚・源空(法然)上人) と尊敬された中の、 お一人の、日本の源信和尚【恵心僧都(えしんそうず)とも尊称される】の法語であります。

 『横川法語』【源信和尚 (恵心僧都)】について、『わが親鸞』PHP 紀野一義より、部分を抜粋するという形で、ご紹介させて頂きます。

 「それ一切衆生、 三悪道さんまくどうをのがれて、人間に生まるること大いなるよろこびなり。
 身はいやしくとも、畜生におとらんや。
 家まづしくとも、餓鬼にはまさるべし。
 心におもふことかなはずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。
 世のすみうきは(住み憂き)は、いとふたよりなり。
 人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがふしるべなり。
 このゆえに人間にうまるることを悦ぶべし。
 信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼めばかならず往生す。
 念仏ものうけれども、唱ふればさだめて 来迎らいこうにあづかる功徳莫大なり。
 このゆえに、本願にあふことをよろこぶべし。 
 また妄念はもとより凡夫の 地体ぢたいなり。
 妄念の外に別の心もなきなり。
 臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎にあづかりて蓮台にのるときこそさとりとはなれ。
 妄念のうちより申しいだしたる念仏は、 にごりにしまぬ はちすのごとくにして、 決定往生けつじょうおうじょううたがひあるべからず。
 妄念をいとはずして信心のあさきをなげき、こころざしを深くして、常に名号を唱ふべし」【源信和尚 (恵心僧都)】   

 この『横川法語』を読むと、恵心僧都は「三悪道をのがれて、人間と生まるること、大いなるよろこびなり」と言われている。
 わたしはよく本の中に、「生まれてきたことが救いである」と書いているが、それを恵心僧都は「人間と生まるること、大いなるよろこびなり」と言われたのである。
 人は「人間と生まれてきたことは、大いなる悲しみである」と言うが、悲しんだところで続くものは続くのである。
 「世のすみうきは、いとふたよりなり」という言い方は現代人には抵抗があるかもしれないが、この人生に生まれてきた以上、ウカウカと生きるのではなく、 人間の世の中は本当はきれいなものではないという性根をどこかで据えなければならない。
 別の言葉で言えば、 「厭離穢土・欣求浄土おんりえど ごんぐじょうど」である。 
 若い時は楽しくて、世の中はいいわなどと言っているが、そんなものがいつまでつづくか。
 人間はそれほどきれいなものではない。
 どこかで一度、「いとふ」ということがなければならない。
 「信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼めばかならず往生す」 
 人間の信心がどんなにあさくても、本願の方はそれを上まわって深いのであるから、ちゃんと救われるというのである。
 これをみると、親鸞の思想はすでに恵心僧都において、徹底した形で現れていると思われる。
 親鸞は、人間のことを「貪瞋邪偽」と言い、「無漸無愧」と言い、「邪蝎奸詐」と言い、人間の生きざまのあさましく空しく、恥なきことを悲嘆するのである。
 しかるに恵心僧都は、「妄念はもとより凡夫の地体なり」と言う。
 人間の本性は妄念であり、正念などはないと言う。
 「妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏」せよ。
 つまり、念仏をしたから少しはマシになったなどと思うなというのである。
 
 長年仏教の話を聞いたりしていると、心のどこかで少しはマシになったなどと思ったりするものであるが、人間はそんなことでマシになるような生易しいものではない。
 少しぐらい話を聞いてマシになったと思うのが、そもそも妄念というものである。
 人間は少し良いことがあると俺はあいつよりマシだと思ったりするが、あいつよりと比べるのは餓鬼なのである。
 その妄念がひるがえるのは、蓮台に乗ったとき、つまり死んでから、と恵心僧都は言う。
 「妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りにしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがひあるべからず。妄念をいとはずして信心のあさきをなげき、こころざしを深くして、 常に名号を唱ふべし」
 という恵心僧都の心は、実に静かに澄んでいる。
 恵心僧都は少しも興奮していない。まったく透明である。だからといって楽天主義でもない。
 人間は妄念のとりこであるとちゃんと見ている。
 静かで澄みきっていて、しかも見るべきものは見ている。
 これが『横川法語』であり、これが後に法然、親鸞につながる念仏の信心の源流になっている。
 この『横川法語』を念仏の信心の人はもっと読むべきである。
 恵心僧都の言われたことを、一言でいうと、口で「南無阿弥陀仏」と称え、浄土をつぶさに目の前に観想するということに尽きている。
 しかし、それによって人間は長い「生死の長夜」の夢から醒め、さとりの世界へ行く。
 
 それは自分の力で行くのではなく、本願によって行くのである。
 阿弥陀如来が衆生をして、浄土へ生まれしめるという願を持っている。
 その願が、天のはるかな所からわれわれを動かしている。
 その力が非常に強いので、われわれの信心がどんなに浅いものであっても、そこへ行くことができるのである。
 そのような確信に満ちた世界を、『往生要集』という長い文章や説明によって、恵心僧都はわれわれに訴えているのである。
 人は元気な時は、極楽は退屈だから地獄の方が好いなどと言っているが、いよいよとなったときはやはり、地獄へ行きたいなどとは思わぬ。
 やはり極楽へ行きたいのである。極楽というのもわれわれが観想している仏の世界であって、実際はそうでないかも知れない。
 しかし、そこへ自分が行くのだと考えることが人間を変えて行くことは確かであると思う。
 死んでからのことは仏さま任せでどちらでもよいが、死ぬまではわれわれの責任である。
 だから死ぬまでは極楽に行きたいと考え行動することが、人間としては本当なのではないだろうか。 
 親鸞は横川にいる間中、こういう問題について考えられるだけ考えたのであろう。
 それでもついに安心できず、山を下り、京都の六角堂に百日参籠するのである。」
 【『わが親鸞』PHP 紀野一義より 抜粋】
 
 紀野一義師の言葉は、表面的には、時に、中々、激しい言葉だったりしますが、その厳しい、激しい言葉の裏に、慈悲心を感じるのですが、如何でしょうか?
 ひょっとしたら、紀野一義師は、誤解されることも多かったのかなあ?と思ったりします。
 どんな偉い方でも、誤解に対しては無力なのかもしれませんね。
 一人一人、自分の都合で受け取り、受け止め方が違うのかも知れません。
 布教される方に、付きまとうことですね。仕方ないことです。
 今回『横川法語』について話そうと思いましたのは、以前、ある信者の方から、横川法語を写経したものをいただいたことを思い出したことにあります。
 『横川法語』について、もっと味わいたいと思って、色々と、参考書を探しました。
 しかし、『横川法語』の解説の本が意外に見つからないと感じました? 多分、私が知らないだけですよね。
 それはともかく、何と言いましても、「妄念は凡夫の地体なり 妄念の外に別の心もなきなり。」という言葉ほど、深い言葉はないと感じました。
 仏さまの世界というものは、われわれの考えが及ばない世界である。
 それを何とかして、我々凡夫に分からせたい。そのための仏教用語なんだそうですね。
 「仏陀の言葉は、月を指す指」と聞いたことがありますよね。
 それを仏さまの教えを、ついつい、我々の世間の考え方に、仏の教えを合わせて解釈しようとするところに、仏さまの心を誤ってしまう危険があるのではないでしょうか?
 私自身がそうですね。とても微妙なところなんでしょうが、そこに落とし穴があるように感じますね。
 お釈迦様は、仏さまの世界を、我々の言葉を使って、説いていて下さっていますが、それは、我々は、我々の使っている言葉でなければ何一つ分からないからだそうですね。
 わかりやすく説かなければ分からないということは確かにその通りですね。
 しかし、仏さまの世界は、我々とは次元が違うと言います。
 妄念しかない私たちには、本当の意味で、わかる世界ではないのでしょうね。情けないですが。
 蓮如上人の「ご法義をよく心得ていると思っているものは実は何も心得ていないのである。」という言葉の深い意味を思いたいものです。
 月を指す指が教えの言葉であれば、月を見ることこそが大事でありましょう。
 全て、私自身のことですけどね。
 他人のことばかり心配して、関わってばかりで、よそ見するばかりでなく、まず自分が信心の道を歩むことこそが一番大事ですよね。

 親鸞聖人が山を下りたのは、二十九歳の時である。そして六角堂に百日籠り、九十五日目の朝、 示現じげんをこうむった。
 それについて紀野一義師は、次のように説かれています。

 『わが親鸞』PHP 紀野一義より、ご紹介させて頂きます。

 「この 示現じげんのあと、すぐに親鸞は六角堂を出て吉水に行った。その行動は唐突である。
 しかし、そんなことはどうでもよい。とにかく親鸞は、横川にいて念仏の滔々たる流れがこの日本を動かそうとしていること、その流れの先端に法然という人物がいることを すでに知っていた。
 しかし、山を下りても、すぐには黒谷に行かなかった。そこへ行くには、今少し、密度が足りなかった。
 思索の前に必ず瞑想があると、哲学者 三木清は言ったが、人間がその生涯を決定する行動に出る前にも、やはりそれがある。
 法華経を説く前に仏は、無量義処三昧という三昧に入り、そこから立ち上がって法華経を説かれた。
 それと同じことは、法を聴く者の側にもあるはずである。
 九十五日の六角堂参籠は、時期熟し、機縁熟し、親鸞の中に十二分の気息が充実するためにどうしても必要な手続きであった。
 その手続きの完了を、救世観音は告げたのである。」
 【『わが親鸞』PHP 紀野一義より 抜粋】
 ここに「時期熟し、機縁熟し、十二分の気息が充実するためにどうしても必要な手続き」という言葉があります。
 親鸞聖人を通して大切なことを我々に教えられている言葉だと感じました。
 これを火を燃やす、という面から、味わってみたいと思います。
 「時期熟し、機縁熟し、十二分の気息が充実する」ということについて、火がつき、発火するという話で、述べさせて頂きます。
  
 私は、住職であった父が、長年、ボーイスカウト活動をしていたので、私も小学生から大学生まで、ボーイスカウトをしていた。
 キャンプでは、当然のことながら、火を焚いて、ご飯を焚かなければならない。
 飯盒(はんごう)の下に、焚き木を置いて、火をつけて、うちわで扇ぐのだが、扇ぎ方が下手だと、中々、火が上手く燃え上がらない。
 そこで一生懸命、火を起こそうと扇いでいると、ある時、「ボォ!」という音がして、発火して、全体が火に燃え上がる瞬間がある。
 仏法の世界でも、発火するまで、自分自身をもっていくことが大事ではないでしょうか?
 紀野一義師は、親鸞聖人を通して、法を聴く者の側にも、時期熟し、機縁熟し、道を求める自分自身の中に、十二分の気息が充実することが大事だと教えられている気がします。
 私自身の問題として、「仏法は聴聞にきわまる」という蓮如上人のお言葉を思わずにはおれません。
 「仏法聴聞されている御門徒の姿」に、自然と感化を受けて来た私であります。
 その姿そのものから学んだ、という気がします。
 その仏法聴聞する姿を見て、知らないうちに、仏法聴聞が大事なんだと、自然と感化されたということですね。現場で感じることですね。
 これからも、御門徒の方々の仏法を求め、真剣に聴聞する姿に引っ張られて、共に、歩んでいきたいですね。

 『安心決定鈔あんじんけつじょうしょう』という蓮如上人の愛読された書物の中に、たきぎのたとえが記載されています。

 「たきぎは火をつけつれば、はなるることなし。たきぎは 行者ぎょうじゃしんにたとふ、火は 弥陀みだ摂取不捨せっしゅふしゃの光明にたとふるなり。
 心光しんこう照護しょうごせられたてまつりぬれば、わが しんをはなれて 仏心ぶっしんもなく、 仏心ぶっしんをはなれてわが しんもなきなり。
 これを南無阿弥陀仏とはなづけたり。」

 このことについて、『御一代記聞書講話 藤沢量正』に次のように説かれています。

 「仏心は如来の真実心です。凡心はどこまでも 愚痴蒙昧ぐちもうまいで、苦悩の絶え間のない煩悩心でありますから、一つになる筈(はず)がないのです。
 ところが、信の一念のとき、この私を救いたもう如来の願力によって、如来の真実が私に至りとどいて下さるところが信心であるから、信を得た一念のところをさして 仏凡一体(ぶつぼんいったい)というのであります。
 浄土真宗では、この愚かで罪業深き身の上に、この私の迷える心のなかに起こったものを信心とは言わないのです。
 信心の体は名号です。如来の大きな働きです。
 そこを覚如上人は 『最要鈔さいようしょう』の中で、第十八願や、本願成就文を釈して、
 この信心をば、まことのこころとよむうへは、凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり。
 この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心といはるるなり。

 と明らかにされています。
 いろいろな縁にふれて、さまざまに心が動く私たちは、まことの心と思いこんでいても末通らず、清い心を起こしても、さながら水に画を描くようなものであると書かれています。
 
 仏心ぶっしん凡心ぼんしんが一体になるのは、信の一念のときであるから、これは 法徳ほっとくと言われるもので、私のてがらではありません。
 まことの心のない私に、まことの心がさずけられたときが信心でありますから、これは全く仏の恵みであることを十分 領解りょうげすべきであります。」
 【『御一代記聞書講話 藤沢量正』より抜粋】

 この中に、「いろいろな縁にふれて、さまざまに心が動く私たちは、まことの心と思い込んでも末通らず、清い心を起こしても、さながら水に画を描くようなもの」
 と説かれています。
 それに関連したことを、紀野一義師は次のように説かれています。
 『わが親鸞』PHP 紀野一義より、ご紹介させて頂きます。

 「とにかく法然は親鸞に「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」と言っただけである。
 それをその通りに信じたのである。
 この「ただ」が恐ろしい。要するに、「ただ念仏する」だけである。したらどうなるというのではない。どうにもならぬのである。なんにもならぬのである。
 沢木興道という老師が熊本で禅風を起こした時、五高の生徒たちが座禅に来たそうである。
 一人が、「和尚、座禅するとなんになる」と訊いた。
 老師は「なんにもならん」と答える。
 「なんにもならんのなら、やめた」といってみんなかえってしまった。
 それっきりかと思ったら、あくる日、「和尚、なんにもならんことをやりに来た」といって神妙に座禅したそうである。
 老師はこの連中に随分教えられるところがあったと、よく話されている。
 ただ座る、ただ念仏する、ただ愛する、ただ親切にするのである。
 誰れかのためとか、人類のためとかいうのは、どこかに嘘が入る。

 そんなことをいうと、どこかしらけるのは、嘘が入っていることが誰にも分かるからである。ただ、ただ、風が吹くように行くのである。
 それができるのは、その人をしてそうなさしめる力が働いているからである。
 そういう力は、おおむね、人を通して働きかけてくる。法然がその人である。
 法然には、一目で人を引きつける何かがあったに相違ない。
 それが親鸞を捉えた。そういうときは理屈もなにもない。理屈は人間がこしらえたもので、そんなものにはまるで説得力がない。
 むしろ、理屈に合わないようなものにこそ説得力がある。」
 【『わが親鸞』PHP 紀野一義より 抜粋】
 
 紀野一義師の言葉は、中々激しいですが、何か心に沁みてきます。
 思い当たることがあり過ぎで、「確かになあ。私は、自分の思い通りにならないなあ!と思ったりするなあ。結局は、ここから中々抜け出せないなあ。」
 そんな感慨ばかりです。
 「世のすみうきは(住み憂き)は、いとふたよりなり。」とあります。
 人生の色々なことをご縁に、仏法聴聞をさせていただきます。
 紀野一義師は、「ただ、ただ、風が吹くように行くのである。
 それができるのは、その人をしてそうなさしめる力が働いているからである。
 そういう力は、おおむね、人を通して働きかけてくる。法然がその人である。」
 と説かれていますね。
 我々は凡夫ではあるが、大いなる仏さまの働きに、 摂取不捨せっしゅふしゃされている。

 摂取不捨せっしゅふしゃの中で、今できることを、精一杯させていただくより仕方ない。
 称名しょうみょうしながら、仏さまの働きに対して、深く感謝し、自分にできることを、精一杯させていただくしかない。
 御恩報謝の心で、日々できることをやっていきたい。 称名
  

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                  
 
 蓮如上人れんにょしょうにん御一代記聞書 
           
『一度のちかひが、一期のちかひな  
り。一度のたしなみが 一期の  
たしなみなり。 
そのゆへは そのまま いのち   
をはれば、一期のちかひに 
なるによりてなり。』 
『仏法には明日と申事有間敷候。  
仏法の事は、いそげいそげと   
仰せられ候なり。』  
蓮如上人 
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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