2022年9月 第131話

朝事*住職の法話

「わが弥陀みだは名をもって」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。称名
 今月は「わが弥陀みだは名をもって」という題とさせて頂きました。
 
 「蓮如上人御一代記聞書講話」藤沢量正に、次のような話が書いてありました。
 『先年、伝道院の布教実修生たちと、熊本へ出かけたとき、一人の老人から、こんなことばを聞いたことがありました。
 
 「別に仏法聞かなくとも、何とか生きていけると思っている人が随分増えましたから、お聴聞の座につく人が、だんだん少なくなってきました。
  仏法を聞いても、聞かなくても、生きていく上に何の関係もないと思っている人が、あまりにも多い時代になりました・・・。」
 私は、この老人のことばを忘れることが出来ません。
 まさしくこの老人のことばは、今の人のすがたをきびしく言い当てていると思うのです。
 『聞書』には「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」と『浄土和讃』のことばがひかれてあります。
 私にとって、何が一番の願いかと申しますと、いつでも、
 いかなるときでも、退転しない、ひっくり返らないということでありましょう。
 この「不退転」ということは、いつの時代でも、人間のもっとも強い願望であります。
 同時にそれは、一貫して大乗仏教の中心問題であったということが出来ます。
 どんな時代であろうとも、どんな苦悩の人生の真っ只中であろうと、いつも退転することのない場に自分が置かれるということほど、強い生きざまはないのです。
 それは同時にまた、退転のない人生が開かれていくことによって、生きがいとよろこびが得られることであります。
 これほどたくましくて明るい人生はないと言えるでありましょう。』
 
  (「蓮如上人御一代記聞書講話」藤沢量正 永田文昌堂)

 私の知り合いの男性が、
「親戚の法事に参ったら、お坊さんが法話で、不退転ということについて話された。」
と話してくださったことを思い出します。
 「不退転」とは、退転することがない、ということですね。
 私の心は、「意馬心猿」という言葉がありますように、猿が枝から枝に移っていくように、動き通しの散乱の心であり、とても不退転とは言えない心です。
 法然上人に、
「私は念仏称えていましても、心が散り乱れてしまいます。どうすればいいでしょうか?」
と質問した弟子があったそうです。
 その問いに対して、法然上人は、
「心が散り乱れるのを法然もどうしようもない。大らかに念仏するがよろしい。」
と答えられたそうです。
 法然上人という方の人柄の一面を見るような思いがします。  
 やはり、人間の器が大きいというか、こういう大らかさをお持ちの方だったのだなあと思いました。
 しかし、厳しいときは実に厳しいのが、法然上人という方のようですね。
 例えば、自分が書かれた『選択本願念仏集』を、弟子に書かされたことがございました。
 その時、その弟子が、法然上人に、そういう役目をするように言われて、うれしかったのでしょうね。
 内心に、 「私も法然上人から『選択本願念仏集』を書写する役目を仰せつかるようになった。
 偉くなったもんだ。自分もここまで来たのだ。」 と自分を誇らしく思ったのですね。
 その時、法然上人は、その弟子の心が慢心なのを見抜き、直ちに、その場から追い出し、別の弟子に書写させた、そんな逸話もあります。
 それと比べると、「散り乱れた心を法然もどうしようもない。大らかに念仏するがよろしい。」という答えは、大らかさを感じます。
 
 ここで、「不退転」ということが、人間の最も強い願望だと教えられていますね。

 『この「不退転」ということは、いつの時代でも、人間のもっとも強い願望であります。
 同時にそれは、一貫して大乗仏教の中心問題であったということが出来ます。
 どんな時代であろうとも、どんな苦悩の人生の真っ只中であろうと、いつも退転することのない場に自分が置かれるということほど、強い生きざまはないのです。
 それは同時にまた、退転のない人生が開かれていくことによって、生きがいとよろこびが得られることであります。
 これほどたくましくて明るい人生はないと言えるでありましょう。』
  (「蓮如上人御一代記聞書講話」藤沢量正)
 とあります。

 私自身を振り返って、「不退転」ということがそんなに強い願望だろうか?
 もっと煩悩の欲望の方を強く求めているのではないか? 
 ここに、私自身、やはり仏法を聞くことの大切さ、必要性があるのではないかと感じるのです。
 つまり、人間というものは、偉いようで、実に愚かではないか? 
 自分自身が真に望んでいるものが分からないではないか?
 
 自分が真に望んでいるものが分からないから、世俗的な欲望の方にばかり関心がいってしまうのではないか?
 「そういう方向にばかり、自分の心を費やして、進んで行っても人生を無駄にするだけで、何も得るものはないのですよ。」
 それがお釈迦様の親切なる御教導というものなのでしょうか?
 「蓮如上人御一代記聞書講話」藤沢量正 に、「仏法を聞く」ということについて、次のように書かれています。
 
 『私たちは、ひまを見出して聞くということと同時に、いつも「お初ごと」として聞くということが大切です。
  『聞書』の第130条には、このように示されています。
 一、ひとつことを聞て、いつもめづらしく初たるように、信のうへにはあるべきなり。
  ただ珍しきことをききたく思ふなり。
  ひとつことを幾度 聴聞申すとも、めづらしくはじめたるようにあるべきなり』
 
 このことは、「他人ごとと聞くな」ということであります。
 ありきたりな聞き方であってはならないということです。
 「いつも珍しく初めたるように」ということばは、昔から「いつもお話は、お初ごととして聞きなさい」と言われてきたことを思い出すことであります。
 
 仏法を聞くということは、私の身に引き寄せて聞くのであります。
 他人ごととして聞くのではないのでありますから、いくたびお聴聞を重ねても、いつも「お初ごと」と聞く大切さを忘れてはならないのです。
 さらに『聞書』の第80条を拝見すると、このようなことばがあります。
 
 一、仏法には無我と仰られ候。我と思うことは、いささかもあるまじきこと也。
  われはわろしとおもふ人なし。
  これ聖人の御罰なりと御詞候。他力の御すすめにて候。
 ゆめゆめ我といふことはあるまじく候。
  無我といふ事、前住上人も度々仰られ候。 
 
 聴聞は自分の都合のいいような聞き方であってはならないのです。
 おのれを立てようとする心が、お聴聞によって砕かれてゆくことでなければならないのです。
 人間は、まことにかなしきものでありますから、常に自己を立てようとする心が抜けきれません。
 従って、聞法を重ねるということは、その己れを立てようとする心が打ちくだかれてゆくことなのです。
 「我と思ふことは、いささかもあるまじきことなり」ということばは、その意味でも、厳しく私たちのむねに刻みつけておきたいことばです。
 「汎爾はんにもん」と言われているような 大雑把おおざっぱな聞き方であってはならないのです。
 都合のいいところだけを聞いて、信じて聞こうとしない、自分のためと聞こうとしない 「不如実ふにょじつもん」であってもならないのです。
 「如実にょじつもん」と言われているように、仏さまが、この私を見抜いた中で説かれたおみのりを、我がことと聞いていくことであります。
 そして聞くままが、実は、私の姿が見えてくるということであります。
 私たちは「我はわろし」とはなかなか思えないのです。
 私たちが聞法するということは、仏の光に照らし出されることでありますから、聞法によって、私自身の姿が、はっきりと知らされるのです。
 それは同時に、自分のかなしきすがたに驚くということでもあります。
 「ゆめゆめ我ということはあるまじく候」ということばを、私たちは、きびしく身にひきよせて味わってみたいところであります。』
  (「蓮如上人御一代記聞書講話」藤沢量正)
  
 私自身、長年、「仏法は中々わからないなあ!」と思いながら、仏法を聴聞してきました。
 しかし、それは、ある意味で、私の計らい心、つまり、「自分を立てようとする心」が非常に強かったということなのかも知れません。
 自我が強かっただけ、ということですね。
 自分を立てようとしているときは、一番大事な仏さまが抜きになっていますよね。

 また、他人に教えを伝えるということについて愚考するに、
 『人は決して、他人から説得されて、納得するものではありません。
 法話は他人を説得するものではなかったのでした。
 「私自身が仏さまのみ教えによって、教えられたこと、育てられたこと」
 その味わいを述べ、話しながら、私自身が一番聞いている、そんなのが法話ではないだろうか?
 理屈を述べたり、相手を説得するのではなく、静かな喜びをもって語り、共に喜びたいと思う次第です。
 一人一人が、仏さまの慈悲に包まれている一人一人であり、み仏様から、慈悲をもって、呼びかけられている御同朋、御同行ではないのか?』
 そのように仏さまから言われているような気がします。
 
 「お聴聞の心得」 にも、次の如くありますね。
 
 「一、このたびのこのご縁は 初事と思うべし
一、このたびのこのご縁は 我一人の為と思うべし
 一、このたびのこのご縁は 今生最後と思うべし 」
 
 私自身法話しながら、一番 私自身が、聴聞の席につき、聞かせて頂きたい。
 
親鸞聖人しんらんしょうにんが「教行信証」に 元照律師がんじょうりっしの言葉を引用されています。

「いはんやわが 弥陀みだは名をもって物を接したまふ。
ここをもつて耳に聞き口に じゅするに、 無辺むへん聖徳しょうとく識心しきしん攬入らんにゅうす。
なが仏種ぶっしゅとなりて とん億劫おっこう重罪じゅうざいのぞき、 無上菩提むじょうぼだい獲証ぎゃくしょうす。」


名は名告なのりで、 名号みょうごうのことです。
物は衆生しゅじょうのことです。
南無阿弥陀仏の名号は、み名を聞き、口に となえれば、限りない仏様の尊いお徳が、 私達の心に入り込んで下さり、仏となれる種となって下さり、この上ないさとりの世界に入ることが出来るという意味です。
 阿弥陀佛の救いのはたらきを、「南無阿弥陀仏」と 名告られた、名と体が一つであるような言葉となって、
 私の中に 覧入(らんにゅう)して下さる。
 「攬入(らんにゅう)」とは、「入り満ちること」「集中して入ってくること」「まとまって、形、本質を変えずに流れ入ってくる」という意味があるそうです。
 私のところへ、言葉となって、私の中に入って下さり、入り満ちるのだと。
 阿弥陀仏が我々のところに来るのに、少し手加減をして、
「あなたはこういう人だから、あなたにふさわしいように私の教えというものを伝えましょう。」ではなく、 「阿弥陀仏のすべての力をどんな人間に対しても、いささかも変えることなく、入ってくる。」
という意味だそうです。
 ある先生が親切に解説して下さっておられました。
 南無阿弥陀仏が、仏である言葉、名告りとしての南無阿弥陀仏、お念仏なんですよと教えて下さった。


 「蓮如上人御一代記聞書講話」
 藤沢量正 に次のように書かれています。
 
 『我と阿弥陀仏が対立的に存在するのではなくて、
「我が弥陀」であることに注意したいものです。
 我を離れて阿弥陀仏がないという受けとめ方、
「私の阿弥陀さま」
ということが知らしめられるということ、それが大切なのであります。
 苦悩を背負い、 繋縛けばくの凡夫と言われるこの私たちのためにこそ、救わずばおかじと誓いたもうた阿弥陀如来は、声となって、名号となって私にふれていて下さるのでありました。
 そこが素直に聞かれてお念仏が口をついて出て来たときは、すでに 「摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやくにあづけしめたまふなり」ということになるのであります。

 「摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやく」を受くるということは、私が如来に助けてくれよと願わずとも、「ご安心なさい、必ず救う」という如来の親ごころに抱かれるということであります。
 従って「この上の 称名しょうみょうはご恩報謝」と気づかせていただくところに、よろこびと感謝の生活が展開されてゆくのであります。
 それが、「聞きひらいた」ということであります。
 本当に聞こえたということであります。
 「その かごを水にひたした」すがたなのであります。
 蓮如上人れんにょしょうにんが、『御文章』や、この『聞書』の中に、たびたび用いられている「仏をたのむ」とか、「たのむ衆生」ということは、 実は「その かごを水にひたせ」ということと同じであり、
「我が身にひきあてて聞け」ということであり、そのすがたは、たしかに「聞きひらく」なかから出てきたものである ということを学びとりたいものであります。』
  (「蓮如上人御一代記聞書講話」藤沢量正)

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                  
 
 蓮如上人れんにょしょうにん御一代記聞書 
『教化するひとまづ信心を決定し  
て、そのうへにて、聖教をよみかた  
らば、きくひとも信をとるべし。』 
私達が仏法を人に伝えようとするな   
らば、まず我が身が信を決定して、 
その上で、お聖教を読み聞かせる 
ということにするなら、聞く人も  
 信を得るであろうということで   
す。これは言葉を裏返して言えば、  
信をよろこぶ人のことば 
でなければ教化することは 
できないということです。 
蓮如上人 
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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