2022年8月 第130話

朝事*住職の法話

煩悩ぼんのうをご縁として」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。称名
 今月は「煩悩ぼんのうをご縁として」という題とさせて頂きました。
 考えてみれば、日々の生活は全く煩悩の荒れ狂う生活であります。
 ある布教使の方が、
「もし、自分の心が全て見えてしまうレントゲンカメラがあって、自分の心が全てさらけ出されたら、恥ずかしくて、平気で町を歩けないのではないですか?」
 と説かれていました。
 実際、何を考えているのか?!わけが分からないのは、自分の心ですね。
 ある先生曰く
 「他人の欠点が見えるのは、自分にも同じような心があるから、他人の心が分かるのだ。」
 と言われていたのを思い出します。
 仏さまから見たら、「目糞(めくそ)が鼻くそを笑う」ということなのでしょうか?
 そんな煩悩荒れ狂う私にも、仏法を聞く一時が恵まれています。
 「煩悩の海を泳ぎながら、呼吸して、息継ぎして、一息つく」
 それが仏法を聞くということなのでしょうか。
 仏・法・僧を「三宝」と言います。
 自分一人では、仏法を学ぶことは出来ません。
 仏さまがおられ、教えがあり、また、それを説いて下さる方がおられるから、私が仏法を聴聞することが出来るのですね。
 仏法を説いて下さる方、それを僧 サンガ と言います。
 実際、浄土真宗のみ教えを説いて下さる僧の方々 サンガ の働きは大きな力があります。
 仏・法・僧の三宝のご恩が無くして、仏法を聞く事、学ぶことは不可能だと思う今日この頃です。
 浄土真宗の教えを、日々の煩悩をご縁としながら、聞かせて頂きたいものだと思っています。

 「茉莉花」【まつりか】VOL.128 2022 夏号 に、「聞かせてご院さん リレー聞法」に、次のようなご法話が記載されていました。少しご紹介させて頂きます。

『友だちとは・・・     
  月空寺(山口県岩国市)住職 岸  弘之
  友だちというと、どんな方を思い浮かべますか?
 友だちでも、共にお念仏を称える友だちのことを「法友(ほうゆう)」と呼んでいます。
 私には、親子以上の年齢差のある法友Aさんがいます。
 Aさんは北海道の方で、お寺の方ではなく、龍谷大学の大学院生同士として出会いました。
 Aさんが入学されたのは以下のような経緯がありました。
  真宗寺院のご門徒でしたが、真宗の教えは自分には合わないと思っておられました。
 しかし、Aさんの長男さんがお亡くなりになって状況ががらっと変わっていきます。
 悲しみのどん底のなかで、しばらくは何も手につきませんでした。 
 そんなとき、親戚からもらった『歎異抄』【親鸞聖人の言葉を直接聞いた唯円というお坊さんによって書かれたとされる書物】の本を手に取ります。
 
 浄土真宗の教えは今のそのままのAさんを救っていきます、ということに気づかれ、そこからお聴聞の日々が始まります。
 法話を聞くなかで、僧侶になりたいという思いにまでなられ、真宗を学ぶために龍谷大学大学院に入学されます。
 在学中に得度式【僧侶になる式】を受けられますが、悲しみをご縁として仏法に出遭われて、一歩を踏み出すAさんへ餞別をお渡ししました。
  僧侶になられ、また大学院に復帰されました。
 その際「大変お世話になりました。これは記念の品です。どうぞ!」と浄土真宗の聖典を頂戴してしまいました。
 その聖典には一筆箋が挟まっていました。
 「法友 岸 弘之様」
 お世話になりました、などの文言は一切なく、これだけでした。
  法友という言葉。
 お坊さん関係の友人くらいの感覚でしたが、親子ほど年齢差のある私にまで法友と呼んでくださったことに胸がじーんと熱くなる思いになりました。
 法友というのは年齢や性別などは一切関係なく、共にお念仏称える仲間であればみんな一緒だったのだ、と教えていただきました。
 本当の意味で法友ということを知ったのはこの時でした。
 こんなことも併せておっしゃいました。
 「差し上げるものだけれど、聖典に一カ所だけ線を引いたんだ。よかったら探してみて!」と。
 
 すぐ探しましたが、全然見つかりません。そこでAさんに直接聞いてみることにしました。
 「あぁあれね!『歎異抄』の中に『たすけられ』というフレーズがあるでしょう!
 その『られ』の2文字に引いたんだ。
 私たちは『たすかっていく』のではなく『阿弥陀さまにたすけられて』いくんだよね!」
 「たすかっていく」も「たすけられていく」も同じように思っていましたが、「られ」という受け身表現を考えると、自身の修行によってたすかっていくのではなく、 阿弥陀さまにたすけられていくという逆方向だということに気づきました。
 私たちは阿弥陀さまによって「たすけられていく」存在なのだということです。
 この言葉はAさんだけでなく、この「私」にも向けられた言葉であり、法友を通して改めて再確認した出来事でした。
 皆さんの周りには法友と呼べるようなお友だちはおられますか?』
 【「茉莉花」【まつりか】VOL.128 2022 夏号より】
 
 深い浄土真宗の教えの味わいが書かれているように感じました。
 Aさんは、長男さんがお亡くなりになっておられます。
 それはどれ程の衝撃の強い出来事だったでしょうか?
 以前、息子さんを亡くされた方が、法話会のお世話をよくしておられました。
 同じように、法話会のお世話をされていた方が、その方に何気なく、「○○さん、あなたの息子さんは、今どうしておられるのですか?」と、 聞かれました。
 その時、その方は、「息子は亡くなりました。」と言われました。
 
 いつ頃 お亡くなりになられたのかは知りませんが、最近のことではないように感じました。
 しかし、「息子は亡くなりました。」と言われた、その言い方が、全身が崩れ落ちるような感じで言われたのは忘れることができません。
 Aさんも、同じことだったのでしょうか。
 その悲しみのどん底の中で、親戚からもらった『歎異抄』の本を手に取られた。
 これも不思議な仏縁ですね。息子を亡くすということが、そのまま仏縁になっていく。
 それは、息子の死というものを、教えを聞いていくご縁としていく、悲しみを仏縁としていく道だったのですね。
 
 蓮如上人も、娘を亡くされた時に、「この悲しみを善知識となしていく」という意味のことを御文章の中に書かれています。
 家族の死によって、仏法を聞くならば、その死というものが永遠に生かされていく道となっていくのでしょう。
 しかし、いざ自分のこととなると、どうなるか?
 ただ呆然としてしまうだけかも知れません。
 それがそのまま仏縁となっていくか?
 それは、その時になってみないと分からないですね。
 いずれにしましても、日頃から、仏法のご縁を大切にして、仏法を聞いていくこと、仏法を学んでいくことが、大切だと思う次第です。
 しかし、仏法を聞けば聞いたで人間というものは、
『「私は仏法を聞いているんだ。」と、知らず知らず、私が「良き者」になって、御恩というものを忘れてしまう。冥加を忘れる。悪しき心がそこから出て来る。』
と蓮如上人は、仏法を求める者が陥るおごりの心、他人を見下げる心、高上りの心、真実と逆行する心、驕慢心を戒めておられます。
 自分を超えたものを感じる心が失われ、御恩を忘れ、全て自分中心の我執性が、首をもたげていく。
 さすが蓮如上人は、するどいですね、厳しいですね。
  
 ここに『歎異抄』という本のことが書いてあります。少し内容について学びたいと思います。
 紀野一義師の『歎異抄 講義』PHP から少し引用させて頂きます。

『 三 ただ信ずることができるか  
 [第一条]
 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益に あづけしめたまふなり。
 弥陀の誓願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。
 そのゆへは、 罪悪深重ざいあくじんじゅう煩悩熾盛ぼんのうしじょうの衆生をたすけんがための願にてまします。
  しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたげるほどの悪なきがゆへにと、 云々うんぬん
   
 [現代語訳]  
  無量のいのち、無量の光(無量寿・無量光)そのものである永遠なるもの(阿弥陀如来)が、一切のものを調和あらしめずにはおかぬという誓願を立てられたが、 その誓願不思議に助けられて、この世の命はなくなっても、浄土という絶対自由の境界に生まれることができる(往生)のだと信じて、念仏申さんと思い立つこころの 起こるとき、つまり、その永遠なるものである阿弥陀如来の  御名みなを呼ぼうとするこころの起きた刹那に、その永遠なるものの中におさめとられてしまうという大きな安息(利益)の中に おかれるのである。
 その永遠なるものが、一切のものを調和あらしめんとする誓願の前には、 年とっているとか、若いとか、善人であるとか、悪人であるとかいった区別は問題にならない。
 そこで大切なのは、ただ信ずるということだけである。
 それはなぜかというと、その永遠なるものの立てられた願は、罪悪深重で煩悩の盛んな人々を助けるための願だったからである。
 
 したがって、その立てられた誓願(本願)を信じさえすれば、それ以外の善はまったく必要がなくなる。
 念仏、つまり、その永遠なるものが、一切のものを調和あらしめずにはおかぬとして立てられた誓願をさまたげるほどの悪はこの世にはないからである。

 この第一条は、歎異抄の眼目であると同時に、念仏の信心の眼目、ひいては、宗教的人間の基本的ありようである。
 阿弥陀如来に生かされているということ、永遠の生命に生かされているということ、ひらたくいえば、自分ひとりの力で生きているのではなくて仏さまに 生かされているということ、仏さまというような言葉を使いたくなければそれでもいい、とにかく何か大きな力に生かされているのだなと、しみじみありがたく思い、 そのことを信ずることができる人間と、できない人間とがある。
 それを信ずることの出来ない人間は、歎異抄の世界に入ってゆくことができない。
 それを信ずることができないのが悪いというのではない。
 これはもう、いい悪いの問題ではない。
 自分の力とか、金とか、権力とか、組織とかいうものしか信じられない人は、それはそれでいい。
 ・・・・
 唯円は、親鸞が死んでしまったあとで、残った門弟たちの中に、親鸞が言いもしなかったようなことを言いあっている者がいると 嘆いてこの歎異抄を書いたのだが、そういう者たちだって、考えるところがあってそうしているのだろうから、どうしようもないのだ。

 新堤にいずつみ信楽房しんぎょうぼうのような男はまだまだ沢山いたのだ。
 だから親鸞が死んだあとにそんなものが大ぜい出てくるのは当然のことだ。
 私に言わせれば、そんなことをいちいち気にすることはないのだ。
 お釈迦さまのような不出世の天才でさえ、ほめる者千人、そしる者千人だったのだ。
 それが人間というものではないのか。
 さて、大切なのは、そういう永遠なるものに生かされていると、ただ信ずることである。
 親鸞は「ただ信心を要とす」と言った。
 それは「ただ信ずること」である。
 「只」といい、「唯」といい、 「只管しかん」という。
 鎌倉時代の祖師方はみな、そう言う。
 道元は「只管打坐して得てん」と言った。
 これは「ただ座ることによってさとりは得られる」ということだ。
 ひたすら座るのではない。ただ座るのだ。
 何も考えず、何も期待せず、ただただ座るのだ。
 こんな難しいことはない。一生懸命、ひたすらやる、というのなら、できる人間がいくらでもいるだろう。
 しかし、ただやる、というのはなかなかできることではない。
 そんなことが諸子にできるか。
 女をただ愛せるか。男にただついて行けるか。人の言うことをただ信じられるか。
 何も考えず、何も期待せず、人にただ親切にできるか。

 そう考えると、「信心を要とす」という親鸞のことばはすざまじいなと思わざるを得ないのだ。
 さて、ただ信ずることができたら人間はどうするか。
 それはもうきまっている。そのひとの名を呼ぶのだ。呼ばずにいられるものか。きっと呼ぶのだ。
 それをここでは、「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」と言っている。』
 
 紀野一義師は次のようにも言われている。

 『「右この 聖教しょうぎょうは、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なくこれを許すべからざるものなり」という蓮如の 奥書は、この歎異抄は浄土真宗にとって大事な聖教であると公認したものであるし、同時にまた、信心の根底を持たぬ者に見せたりしてはならぬと 禁止した文章であるともとれる。
 恐らく、大方の浄土真宗の寺院では、門徒に歎異抄を読ませるということをしなかったに違いない。
 歎異抄が公然と読まれるようになったのは明治以後のことである。
 歎異抄はたしかにすばらしい。親鸞の信心の真実相をわれわれに教えてくれるだけでなく、親鸞そのひとの すさまじさをわれわれに教えてくれる。
 それだけに使い方によっては毒にもなりかねない。
 よって本願寺中興の祖の英主蓮如は、無宿善の者にこれを見せてはならぬと禁止したのである。』
 【紀野一義師の『歎異抄 講義』PHP から、抜粋させて頂きました。】  
 
 確かに、 すさまじい文章であるとしみじみ感じます。
 誤解したら大変なことになる、そんな毒にも薬にもなる御聖教である。
 大分前の話ですが、紀野一義師は、浄土真宗 本願寺派 広島別院を会場にして、講演されたことがあります。
 私は紀野一義師の著書をよく読んでいましたので、一度、どんな人か?
 実物を見たくなるのが人情というものである。
 少し遅れて会場に入ったのだが、僧侶の衣服で、少し遅れて会場に入った私を、何かおかしなものと思われたかな?
 紀野一義師の著書を読んで、感想や自分の近況について、ハガキに書いて送ったこともある。
 当時、私の父も50歳から62歳まで闘病生活をして、七つの病院に入院した末、62歳で往生し、友人も同じ頃、自死した。
 そんな中で、紀野一義師の著書を、必死で読んでいたのだった。
 私の心の支えになっていたのだ!
 年賀状を出したら、返事が来た。
 それも、私のような会ったこともない人間に対する年賀状にも、必ず書き込みがしてあった。
 だから、こちらからも書き込みをしなければいけなくなった。
 私の住んでいるところの住所は「己斐中町」【こいなかまち】だが。
 紀野一義師は年賀状に「いつも己斐中【こいなか】→【恋仲】でいいですね。」と書いてあったこともあった。
 「いい加減で、いい加減」と書いてあったこともあった。
 紀野一義師から来た年賀状は、亡くなられた後は、貴重なものとなった。
 紀野一義師から教えられたことは、「独りよがりでは駄目だ。」という事だった。
 直接そういう言葉が年賀状に書いてあったわけじゃないが、何となくそう言われているような気がしている。
 そんなご縁で、紀野一義師の著書 『歎異抄 講義』PHP から引用させて頂いた次第です。
 「歎異抄」という本は、一見読みやすそうに見えて、実際は、中々難解な本ですよね。
 教えを学ぶということも、そういう意味では、中々大変なことですね。
 御聖教は歎異抄に限らず、ちゃんとした指導を受けないと、読み間違う危険は常にある気がします。
 真宗で「異安心」【間違った信心】ということがありますが、間違いなく学び伝えたいものです。
 
  「茉莉花」【まつりか】VOL.128 2022 夏号より、Aさんの話で、Aさんは、長男を亡くされ、親戚からもらった「歎異抄」がご縁で、 浄土真宗の教えは今のそのままのAさんを救っていきます、ということに気づかれ、そこからお聴聞の日々が始まった。
 法話を聞くなかで、僧侶になりたいという思いにまでなられ、真宗を学ぶために龍谷大学大学院に入学された。
 そんなAさんが浄土真宗の聖典を岸 弘之 住職にお送られた。
 「差し上げるものだけれど、聖典に一カ所だけ線を引いたんだ。よかったら探してみて!」と。
 すぐ探しましたが、全然見つかりません。そこでAさんに直接聞いてみることにしました。
 「あぁあれね!『歎異抄』の中に『たすけられ』というフレーズがあるでしょう!
 その『られ』の2文字に引いたんだ。
 私たちは『たすかっていく』のではなく『阿弥陀さまにたすけられて』いくんだよね!」
 「たすかっていく」も「たすけられていく」も同じように思っていましたが、「られ」という受け身表現を考えると、自身の修行によってたすかっていくのではなく、 阿弥陀さまにたすけられていくという逆方向だということに気づきました。
 私たちは阿弥陀さまによって「たすけられていく」存在なのだということです。
 この言葉はAさんだけでなく、この「私」にも向けられた言葉であり、法友を通して改めて再確認した出来事でした。』
 (「茉莉花」【まつりか】VOL.128 2022 夏号より)

 最後にある先生の味わいのことばを紹介して終わりたいと思います。

 「られ らるる らるる世界に 我はなし ちょっとひねって 念仏三昧」

 Aさんが「られ」というところが大事だと線を引いた。それを尊いご縁と味わわせて頂く次第です。

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                  
 
 蓮如上人れんにょしょうにんのお言葉 
『「法義に心のない人は、仏教を  
病気のようにする」と仰せられた。  
仏法の讃嘆なさる法座に列って、 
あら窮屈なこと、心のつまることで   
ある、はやく讃嘆も済めばよいと 
おもうのは、仏教を病気のように 
厭うているのではないか」と仰せられた。』  
 不法懈怠ふほうけたいの人は、とかく仏法を   
病気のように厭うことを指摘された  
のである。こうした不法懈怠の人 
を教化された苦心は並々ならぬことである。 
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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