2022年7月 第129話

朝事*住職の法話

自信教人信じしんきょうにんしん
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。称名
 今月は「自信教人信じしんきょうにんしん」という題とさせて頂きました。
 この言葉は、深い意味を含んでいるようです。
 浄土真宗の伝道の基本的な言葉です。
 「自分自身が浄土真宗を学ぶことが、そのまま伝道教化になっていく」ということであります。
 「私が教えてやる。」という自我を離れた世界ですね。
 あるエピソードを思い出します。
 あるお寺で、「住職継職法要」があり、ある偉いお坊さんからの祝辞に次のように書かれていたそうです。
 「住職に就任され、誠におめでとうございます。どうか、あなた一代の間に、一人の信者を育てて下さい。」
 というものでした。
 それを読んだ住職は、
「一人の信者だって?!私が住職の間に何人も信者を育ててみせるわ!」
 と思われたそうです。
 ところが、実際に、自分がその気になって、伝道教化してみて、「一人の信者は中々できないものだなあ!」としみじみ感じられたそうです。
 そして、そのお坊さんは、「一人の信者」と言われたのは、実は門徒のことではなく、「住職自身」のことを指していたことに気づかれたのだそうです。
 「住職さん、あなたのご一生の間に、あなた自身が、誠の信者になって下さい。」
 という意味だったと気づかれたのだそうです。
 「自信教人信じしんきょうにんしん」とは、「自信」のままが「教人信」であるということなのでしょう。
 『人間は「教えてやろう。」というものに教えられることはない。』ということを聞いたことがございますが、ケースバイケースではありますが、 一面、確かに一理ある、何か心に残る言葉です。

 先ず自分自身の救われていく道を聞かせて頂く。
「お聴聞」ということが基本であることには違いないことです。
 蓮如上人は
「ただ、仏法は聴聞にきわまることなり」
と言われています。
 「ただ」ということは、「このこと一つ」という意味です。
 「聴聞」このこと一つ、他は何も要らない。
 激しいお言葉のようですが、この言葉の裏に深い慈悲心があるように感じられます。
 お釈迦さまは
「仏法を聞く者は、私のよき親友だよ。」
と言われています。
 「友達」と言って下さっているのですね。
 「聴聞」という言葉ですが、「聴」も「聞」も、「きく」という言葉です。
「聴」と言う字は、「耳、声を待つを聴という」と、こういう解釈があります。
 私の耳が声を待っている。それが「聴」なんだそうです。
 私の耳が、身が、仏さまの声、親鸞聖人の声を待っている。
 それが「聴」ということになります。
 一生懸命、仏法を求めて学ぼうとしている姿が「聴」なのですね。
 私たちは生涯、仏法聴聞していくこと一つです。
 「聞」ということは、「声、耳に入るを聞という」という解釈があります。
 仏さまの声が耳に入って来る。
 「聞」とは「聞こえて来る」ということになります。
 仏さまの心は、私の浅はかな知恵で、掴めるものではなく、理解できるものでもなく、ただ、仏さまの智慧と慈悲の心が、「大悲心」が響いてくる。
 親鸞聖人の言葉に
「きくというは信心をあらわす御のりなり」
 という言葉がございます。
「聞くということが信心である」と、それは「聞くということは法の働きである。」ということでもあります。
 こちらから仏さまにお願いしたりすることではなく、ただ、仏さまのまことを聞かせて頂くことが浄土真宗の教えであります。
 真実の教えというものは、必ず、他に働きかける。
 迷っている者をほっておけなくて、働きかけずにおれないんだと。
 それが、阿弥陀如来のお心であります。
 浄土真宗の教えというものを、自分自身から離れて、向うに見たり、探したりするのではなく、私のこの身の上に、働きかけている教えとして、 浄土真宗の教えを味わわせて頂くことが大事だと思います。
 
 次のような言葉に出会いました。
*「気がつけば ここも お慈悲の中でした」

「私たちは自分の思いというものを確かな依りどころとし、思いのままに生きることを一つの夢として生きています。
ところが、自身をはじめとしてこの世界の現実は、私の思い通りにならないことに満ちあふれています。
そのため自分の意に添わないことに出遭うと不都合の理由を他に転嫁してしまいます。
けれども実は苦しみや悲しみに出遭うことを縁として私たちは、真の意味で仏法を聞く身になれるのです。
そして阿弥陀如来に願われ、その光の中を生きていることに目覚めるのです。」 
 (発行 鹿児島別院 「香華抄」より )

 人間は何もかも順調に運んでいる時には、教えを聞こうという気持ちも中々おこらないのではないでしょうか ?
 ところが、何かトラブルが起こり、苦悩しなければならなくなった時に、教えを聞かせて頂こうという気持ちになるのかも知れません。
 「自分の思い通りにならない」それを「意の如くならない」
「不如意」【ふにょい】と言うそうです。
 それは普通は愚痴の材料になるだけで、酒飲んで憂さ晴らしして終わり、ということになるのかも知れません。
 しかし、自分の思い通りにならないことをご縁として、その愚痴の只中にある私自身が仏法聴聞をさせて頂く道が与えられているのですね。
 そして、私の自分勝手な都合を仏さまに聞いてもらうのではなく、「阿弥陀如来に願われ、その光の中を生きていることに目覚める」のですね。
 これは大変素晴らしい事ではないでしょうか。
 
 ある先徳は言われました。
 「人生の苦悩をご縁に仏法を聴聞し、全ての苦悩を解決させて頂くのだ。」と。
 「全ての苦悩」とは一体何なのでしょうか?

 「絵ものがたり 正信偈 ひかりになった王子さま」
   【文 浅野執持 法蔵館 発行】という本があります。
 その中に、次のような一節がございます。

 建立無上殊勝願 【無上殊勝むじょうしゅしょうの願を建立し】
 超発稀有大弘誓 【希有けう大弘誓だいぐぜい超発ちょうほつせり】

 『ダルマーカラはいいました。
  「さとりの世界はすばらしい
   くるしみがかけらもなく
   よろこびにちあふれています  
   
   けれども
   何度、生まれかわっても
   苦しみの中を流転るてんし続ける
   悲しいいのちがあるのではないでしょうか
 
   師よ
   わたしは
   どんないのちも決してらさず
   救うことができる
   そんなほとけになりたいのです」』
 
 この中に、
「何度、生まれかわっても、苦しみの中を流転し続ける悲しいいのちがあるのではないでしょうか」
 とございます。
「何度、生まれかわっても、苦しみの中を流転し続ける」
 これが「全ての苦悩」というものではないか?
 この一生の人生の苦悩でも、大変なものがあります。
 親鸞聖人の和讃(高僧和讃)に、
 「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
 とございます。
「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし ひさしくしづめるわれら・・」
 我々の迷いの歴史、流転の歴史が説かれています。
 その迷いの苦しみが永遠に続く、これが「全ての苦悩」というものではないでしょうか?
 
 自分の迷いから苦悩が生まれてきている、そういう視点が仏法の智恵の眼に映った私の姿なのでありましょう。
 井上善右衛門師は、「仏の願い」という冊子の中で次のように言われています。
 
 『現代の人々は、何事もよく人のせいにする。
 人が悪いから、世の中が歪んでおるから、国の制度が悪いからと、こういうふうな所へ自分の胸の中の もやもやを持ってゆくのが我々の常でありますけれども、しかし、それで、煩悩という問題が解決できるかという点を考えてみなければなりません。
 言い換えますと、人のせいにはできないものがこの胸の中にあって、自らの安らかさと明るさを妨げ、自由であるべき身を自から不自由ならしめている事実に 直面するとき、どうしても煩悩というものを問題にせずにはおられなくなるのであります。
 そうなってくると、それは人間固有の問題であり、私自身の問題となります。
 煩悩が外側の問題ではなく、自分の問題という事に定まってきますと、きっと煩悩は捨ておけない深刻な事柄になってくるでありましょう。
 自分ほど大切なものはないと言いながら、その自分を自から妨げているもの、惑わし乱し苦しめているものがあるとすれば、それをそのままにして置くということは、 どうしても出来ない事になってくるからであります。
 そうした点から煩悩を
「自らより出て自らを苦しめるもの」
と私は申してみたいのであります。
 何か、はっきりとした外面に原因があって、それさえ取り除けば問題の全てが解決するというなら、それは煩悩の問題ではありません。
 けれども現に自らより出て自らを苦しめておるものがある。
 そういう疑う事の出来ない出来事を感じることになってまいりますと、私共は煩悩を見過ごしていくことができないのです。
 何故に、見過ごす事が出来ないのか、それは、いつまでたっても、苦しみの中に転々とせざるを得ないからであります。
 ではどうして自分の中に自分を苦しめるようなものが うごめくのであろうか。それを私共顧みざるを得ません。
 その時、まず第一に誰れしも気が付く事は、人間というものはすべて例外なしに、自己中心的な存在であるということです。
 この事は、どなたも承認下さる事柄ではないかと思います。
 私が自己中心的であれば、相手も自己中心的である。
 自己中心的なものと自己中心的なものと共に触れ合えば、そこに摩擦が起こり、矛盾が生じ衝突が現われる。
 矛盾が起こり、衝突が生ずれば、必然に苦しみをお互いが味わざるを得ない。
 これは如何ともする事の出来ない結果であると申さなければなりません。
 では、その自己中心の根源となっているものが、どうして生まれて来ておるのでありましょう。
 お互いがお互いに矛盾し合うような自性を持って、そして相互が共に苦しむというのは、これはどう考えてみましても正しい状態とは思えません。
 そのような正しくない状態を生み出してくる源こそが迷いというものであります。
 皆さんは仏教で迷いという言葉をよくお聞きになってきたに違いないと思います。
 迷いとは一体何なのかというと、真実が見えずして闇にさ迷う状態であります。
 これを無明といわれていますが、この無明の迷いというものは、ただ迷いだけが宙に浮いているようなものではなく、迷いは必ず現象を生み出すものでありまして、 あるべからざる狂うた状態をあらしめるような闇路こそ迷いなのであります。
 その迷いの故に、私共は自分というものを正しく全うし実現することが出来ずして、自分のいわばあるべからざる殻に執着する という状態を現出することになるのであります。
 自分の殻に執着しているものが中心になって、そこから感情が生じ、意志も起こり、物の考え方も現われてくる。
 それが、すべて執着の本質から派生してまいるのですから、それ等の心情そのものが狂いを宿している。
 
 そうした知情意の働きが即ち煩悩に他ならないのです。
 殻に執着する自己中心の衝突が、煩悩の情意を以て交わり合うのですから軋みと苦しみを免れえない。
 煩悩自体が狂うたものですから、自からを苛む恐ろしい性質を持っています。ここに成り立つ人生はまさに苦であります。』
   【「仏の願い」冊子 井上善右衛門師】

 煩悩というものが恐ろしいものだと普段はあまり思わなくて、ただ煩悩に振り回されているだけなのではないか?

 法然上人の逸話に、餓鬼を済度した逸話があります。
 説教で聞いただけで、書物で調べたわけではありませんので、間違いもあることと思いますが、心に残っている話です。

 『法然上人が、船で航海している時に、海から人身を食べなければ生きていけない餓鬼が現われ、法然上人に、こう言った。
「やあやあ法然上人よ、どうだ俺は恐い姿をしているだろう!」と。
 法然上人を警護している者たちは、その鬼から法然上人を守ろうと必死になった。
 それに対して、法然上人は、静かに数珠を繰りながら言われた。
 「確かにお前は恐い姿をしている。しかし、お前が食うことが出来るのは、この私の肉体の命だけだ。
 私は、この私を永遠の迷いにひきずっていく煩悩という鬼と同居しているのだ。お前なんか怖くない。」
 と言われたそうです。
 このように「煩悩とは、自分自身を永遠の迷いに引きずり込んでいく恐ろしい鬼」のようなものである。
 それなのに、煩悩という言葉に慣れ切ってしまい、煩悩というものが自分を永遠の迷いに引きずり込む恐ろしい鬼であるということに気付かなくなった。
 そんなことを強く反省させられる話だと思いますね。
 
 その鬼が法然上人に言うには、
「実は私はあなたを食べるために現われたのではない。私たち餓鬼の親子を法然上人に済度してほしいのだ。」
 と懇願したと言う。
 それに対して、法然上人は「阿弥陀さまのお心 本願 念仏のみ教え」を説かれて、済度されたと言う。
 法然上人の、その時の一回の法話で、その餓鬼の親子は済度されたという。
 法然上人は一回の法話でも、かくまで素直に聞いて救われていった餓鬼の姿に涙し、讃えられたということです。』

 餓鬼も見かけは恐ろしくても、内心は救われることを望んでいたのですね。
 餓鬼とは、煩悩を抱えているこの私のことでもあるのでしょうね。
 
 次のような言葉に出会いました。

*「まもられ願われて今ここに」

『「私が生きているのは過去でも未来でもなく常に現在としての「今」であり、どこでもなく、「ここ」です。
ところが私たちは未来に幸福を夢みる一方、未来から現在の自身の在り方を見て、不平不満を口にしたりしています。
そのような私が、たとえ苦しくても悲しくても、その苦しみや悲しみが本当の意味で空しくならない、悲しみの中に人生の意味が見出され、苦しみの中にも 無駄でなかったといえるものが感じられる道があります。
それは阿弥陀如来にまもられ願われて歩む、何ものにも妨げられることのない念仏の道です。』
 (発行 鹿児島別院 「香華抄」より )

 この中に、
「阿弥陀如来にまもられ願われて歩む、何ものにもさまたげられることのない念仏の道」
とございます。
 私たち人間の心の中には、「私の方から、仏さまにお願いをする。」という気持ちが根深くあるような気がします。
 ここでは、「仏さまの方から私に願われている。」というように、方向が反対になっていることに気づきます。
 つまり、「阿弥陀如来にまもられ願われ」と、私が自分勝手な自己中心の願いを仏さまに向かって、願うのではなく、反対に、仏さまの方から願われている。
 これは大きな違いですね。

 「香華抄」の中にも書いてありますが、思えば、確かに、この無常なる人生において、私自身も、私の周りも、全てが変化し、 何一つ頼るものがないこの世界において、今私がこうして在るという事実は不思議ですね。
 それは、私の方から出た力ではなく、さまざまの働きが私に向かって働き続けて下さっている、そういう様々なご縁によって支えられて在るということですよね。
 それはまた、亡くなられた方との深い縁、お陰もあるのでしょうね。 

*「ただ念仏して 弥陀に たすけられまいらすべし」

『念仏とは仏を念ずる行為ですが、浄土真宗では口に南無阿弥陀仏と称えることを意味しています。
なぜ南無阿弥陀仏と称えることによって救われるのでしょうか。
それは私が仏への道を求めるはるか以前に、阿弥陀如来が限りなく迷い続ける凡夫と呼ばれる私たちを「必ず救わずにはおかない」と願われているからです。
まさに凡夫を救うため阿弥陀如来が躍動する相(すがた)が私たちの念仏(南無阿弥陀仏)の声なのです。
亡くなられた方も「ただ念仏して」今は仏さまとなっておられます。』
 (発行 鹿児島別院 「香華抄」より )

 「当流は弥陀をたのむが念仏なり」と御聖教にあります。
 「阿弥陀さまの願いが私の心の闇に届いてお任せする。」
 ここに、
「まさに凡夫を救うため阿弥陀如来が躍動する相(すがた)が私たちの念仏(南無阿弥陀仏)の声なのです。」
とあります。
 私が称える念仏は、阿弥陀さまの躍動する相(すがた)と味わうことが出来るのですね。

*「如来の大悲に抱かれて安らかに日々をおくる」

『私たちが最終的に求めているものは、心の安らぎだと言えます。
順境にある時は、比較的容易に得ることが出来るのですが、実は心に安らぎが欲しいのは、悲しみや苦しみに出遭った時です。
ところが、そのような時には、心は乱れるばかりで、なかなか安らぎは得られません。
それは私たちの心が煩悩に満ちているからなのですが、阿弥陀如来は、そのことを見通され、私たちを煩悩のままに救いとられます。
それを如来の大悲心といいます。大悲心に目覚める時、初めて真(まこと)の心の安らぎが得られます。』
(発行 鹿児島別院 「香華抄」より )

 ある法語に
「み仏と 浄土と 御名の 大悲心 お慈悲なればこそ お慈悲なればこそ」
とございました。
 「学仏大悲心」(がくぶつだいひしん)、阿弥陀さまの大悲心を学ばせて頂くことが、救いに遇わせて頂くことだったのですね。

 「絵ものがたり 正信偈 ひかりになった王子さま」
   【文 浅野執持 法蔵館 発行】という本から、お言葉を紹介させて頂きます。
 
 『五劫思惟之摂受ごこうしゆいししょうじゅ
 【五劫これを思惟(しゆい)して摂受(しょうじゅ)す】
 
 五劫という長い時をかけ
 ダルマーカラは
 救いの法を求めて、考えぬきました
 
 あのいのちは
 苦しみから離れるすべをもたない
 功徳くどくめずに
 真実しんじつに近づくことさえできない
 いったい、どのような方法なら
 救うことができるのだろう
 よし 
 それならば

 重誓名声聞十方じゅうせいみろようしょうもんじっぽう
 【重ねて誓うらくは、名声十方みょうしょうじっぽうに聞こえんと】

 ダルマーカラは
 さらにちかいました

 「すべてのいのちを救うため
  わたしは修行をしとげましょう
  どんな困難ものりこえて
  輝ける仏となりましょう
 
  そして、わたしが仏になるとき
  み上げた、すべての力は
  わたしのに満たされるでしょう
  そのは、世界の隅々すみずみまで響きわたり
  聞くものすべてに
  この上ない力をもたらすことでしょう」
 
 ダルマーカラの修行は
 はてしなく続きました
 「あのいのちを救うため」
  どんな困難こんなん
  しずめても
  いることなど
  ありませんでした

  そして
  ダルマーカラは、ついに
  すべてをしとげたのです

  まさにその時
  あまぬく世界にむけて
  光がはなたれました
 
 普放無量無辺光ふほうむりょうむへんこう
 【あまねく無量・無辺光】
 無礙無対光炎王むげむたいこうえんのう
 【無礙・無対・光炎王】
 清浄歓喜智慧光しょうじょうかんぎちえこう
 【清浄・歓喜・智慧光】
 不断難思無称光むだんなんじむしょうこう
 【不断・難思・無称光】
 超日月光照無塵刹ちょうにちがっこうしようじんせつ
 【超日月光を放ちて塵刹を照らす】
 
 はかり知れず
 どこまでもとどき
 すべてをつらぬく光
 
 比べようもなく
 ほのおの王のようであり
 清らかであり

 よろこびにつつまれ
  真実しんじつであり
  えることのない光
 
  考えを超え
  言葉でつくせず
  太陽や月よりも輝く
 
 
 一切群生蒙光照いっさいぐんじょうむこうしょう
 【一切いっさい群生ぐんじょう 光照こうしょうこうむる】
  
 その光に

 いのちあるもの、すべてが
 つつまれていきました

  本願名号正定業ほんがんみょうごうしょうじょうごう
  【本願ほんがん名号みょうごう正定しょうじょうごうなり】
  至心信楽願為因ししんしんぎょうがんにいん
  【至心信楽ししんしんぎょうの願を因とす】
  成等覚証大涅槃じょうとうがくしょうだいねはん
  【等覚とうがく大涅槃だいねはんしょうすることは】
  必至滅度願成就ひっしめつどがんじょうじゅ
  【必至滅度ひっしめつど願成就がんじょうじゅなり】
 
  ちかいのとおりに
  修行を完成かんせいしたダルマーカラは
 
 「ナモアミダブツ」
 という光のほとけさまになったのでした
 そのを聞くものは、必ず
 さとりの世界へと生れることができるのです

 
 「絵ものがたり 正信偈 ひかりになった王子さま」
   【文 浅野執持 法蔵館 発行】より

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                  
 
 蓮如上人れんにょしょうにんのお言葉 
「人を教え導こうと思う者は、  
先ず何よりも、わが身が  
信心を決定して、それから 
聖教を読みこなし、そのいわれ、   
そのよろこびを語り聞かせたなら、 
聞く人もそのとおりに 
信心をうるであろう。」  
自信教人信の鉄則きまりを   
さとされたお言葉である。  
自ら信じていない者が、教化しても、 
自分も、あやまり、他人を惑わす。 
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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