2022年6月 第128話

朝事*住職の法話

聞法もんぽうの大切さ」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。称名
 今月は「聞法もんぽうの大切さ」という題とさせて頂きました。
 私たちは、今日と言う二度と帰らぬ日を過ごしているのですが、ついつい、仏法を忘れて、気がついたら、自我丸出しの生き方になっていることに気づいて、 後悔することが多い日々であります。

 井上善右衛門先生は、「蓮如上人 御一代記聞書きに学ぶ」(永田文昌堂)の中で、時について、次のように説かれています。

 『私共は時というものがそれ自体としてあって、過去現在未来と連続して流れているように感じます。
 今日の時が延びて明日になる、時が現在を未来へ運ぶ。
 こうした思いで生きておりますと、今日の仕事でも明日があるからと先へ延ばします。
 そうすると思わぬことが生じて、とうとうそのことが出来なくなってしまう経験を私共はもっているものです。
 時に対する思い誤りについては既に第102条に「仏法には明日と申す事あるまじく候」と誡められ、第103条に「今日の日はあるまじきと思へ」と 語られていることについては、先に述べたところであります。
 われわれは現在にも長さがあるように思うのですが、一刹那の後は過去であり一瞬の先は未来であるということになれば現在に長さがあるわけがありません。
 明日があるどころか今日さえもない。
 ただあるのは現在の只今のみです。

 現在は現在の因縁で成立し、未来は未来の因縁で成立する。
 花は花で散り、実は実で結ぶ。
 連続した時間があるのではなく、生滅する刹那刹那の事物があるのみです。
 その事物の変化する相状の上に仮に時という独立したものがあると人間が考える。
 これを唯識の教学では 分位仮立といいます。
 道元禅師の 「正法眼蔵しょうぼうげんぞう」には  「有時うじ」という一篇があり、存在と時との関係に 高邁深遠こうまいしんえんな洞察が示されていますが、われわれの理解の容易に達しうるところではありません。
 しかしとにかく連続して流れる時があるように思うているのは、架空の観念であることだけは確かです。』

(「御一代記聞書きに学ぶ」井上善右衛門)
 
 このように「時」ということを説いてあります。
 
 「今日もあれば明日もあるんだ。今やらなくても、又時間が出来た時にすればいい。」
と思う事が、私にもよくありますが、如何に時というものを見誤っているか。
 親鸞聖人も、
「人のいのちは日々に今日やかぎりとおもい、時時に只今やおわりとおもうべし。」
と誡められているそうです。
「今日ばかり思ふこころを忘るなよ さなきはいとど望み多きに」
と歌われたのは覚如上人です。
 
 過去に縛られることなく、未来を追うことなく、過去によって成り、未来を生む「今」を大切にしたいものです。

 私たちは、明日の為に今日を犠牲にして、我慢して日々を過ごしていませんでしょうか?
 「これさえやりとげたら、少しは楽になれるだろう。」と考え、それまでは我慢しよう。
 今日を明日の手段にしては、今を生き生きと生きていけない気がします。
 しかし、これも、ケースバイケースで、そう思って、目標達成のために歯を食いしばって頑張っている方もおられますよね?
 それはそれで尊い生き方で、応援したい気がします。

 いずれにしても、どんな人も、「初めての今日、最後の今日、二度と帰らないかけがえのない今日」を生きていることには違いありません。
 今日そのものが、尊く、かけがえのないいのちの時なのでしょう。

 「今・ここに・在る」このことの「不思議さ、重さ、尊さ、」というものをもっと噛みしめて生きていきたいものだと思います。
 人生は、「成功したとか、失敗したとか、」とか、そんなことだけでない、深みをもって、「今・ここに・在る」のではないでしょうか?
 今日一日のいのちだと思えば、「成功した、失敗した、勝った、負けた、損した、得した」とか言っておれるでしょうか?

 昔の人は
「無常は同い年」
と言われたそうです。
 深い言葉だと感じました。
 生命の世界は、誰もが同級生だったのですね。
   
 「プラン75」という映画のことをテレビで紹介していました。
 皆さんは、この映画を御存知ですか?
75歳以上が自らの生死を選択できる<プラン75>。
この架空の制度を媒介に、「生きる」という究極のテーマを
 全世代に問いかける映画のようです。

 この映画を紹介されてあるホームページに次のように書かれています。

『少子高齢化が一層進んだ近い将来の日本。満75歳から生死の選択権を与える制度<プラン75>が国会で可決・施行された。
様々な物議を醸していたが、超高齢化問題の解決策として、世間はすっかり受け入れムードとなる
当事者である高齢者はこの制度をどう受けとめるのか?若い世代は?
<プラン75>という架空の制度を媒介に、人は何を選択し、どう生きていくのかを問いかける作品が誕生した。
早川監督は、
「2000年代半ば以降、日本では自己責任という言葉が幅をきかせるようになり、社会的に弱い立場の人を叩く社会の空気が徐々に広がっていったように思います。
そして2016年、障害者施設殺傷事件が起こりました。
人の命を生産性で語り、社会の役に立たない人間は生きている価値がないとする考え方は、すでに社会に蔓延しており、この事件の犯人特有のものではないと感じました。
政治家や著名人による差別的な発言も相次いで問題になっていましたし、人々の不寛容がこのまま加速していけば、
 
<プラン75>のような制度は生まれ得るのではないかという危機感がありました」と振り返り、 「そんな未来は迎えたくないという想いが、この映画を作る原動力となりました」と制作意図を明かす。
物語の中心となるミチに、9年ぶりの主演作となる名優・倍賞千恵子。
「最初はひどい話だと思ったが、ある選択をするミチに心惹かれ、出演を即決した」という。
セリフで多くを語るのではなく、目や手の動きだけで哀しみや恐れなどの感情を繊細に表現した。
若い世代のヒロムと瑶子を『ヤクザと家族 The Family』の磯村勇斗、『由宇子の天秤』の河合優実が演じ、たかお鷹やステファニー・アリアン、 大方斐紗子、串田和美らが顔を揃える。
監督・脚本は、本作が長編初監督作品ながら、2022年カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に正式出品の快挙を成し遂げた、早川千絵。
「物語や主人公の心情を懇切丁寧に説明してくれる昨今の日本映画を見慣れている人がこの作品を見たら、少し戸惑われるかもしれません。
しかし、謎を心に留めたまま、様々な想像を膨らませ、他者の心に思いを馳せるということも、映画を見る醍醐味だと思います。
私は映画を見る人の感受性を信じています。一人一人異なる感性で、自由に映画を解釈することで、観客にも映画の共作者になってもらいたいのです。
『PLAN 75』という映画が自分の手元を離れたあと、無限に形を変えていくことを願っています」と希望を託す。
年齢による命の線引きというセンセーショナルなモチーフを打ち出しつつ、細やかな演出で、この世界を懸命に生きる人々を丁寧に描いた。
2025年には国民の5人に1人が75歳以上になると言われる日本で、ここに映し出される状況は絵空事と言い切れない。
他者への不寛容さや痛みに対する想像力を欠いた世の中への危機感とともに、命の尊さを静かに、そして強く訴える。』
 
 (HPより)
 
 この中で、早川監督は、 「日本では自己責任という言葉が幅をきかせるようになり、社会的に弱い立場の人を叩く社会の空気が徐々に広がっていったように思います。
人の命を生産性で語り、社会の役に立たない人間は生きている価値がないとする考え方は、すでに社会に蔓延しており、 この事件の犯人特有のものではないと感じました。」
 とコメントされています。
 「社会に役に立たない人間は生きている価値がないとする考え方」とありますが、人間が勝手に決めた物差しで、命というものを価値があるとかないとか 判断している。
 《人間が勝手に決めつけている価値があるとかないとか、そういうものを超えたものが命というものではないのか!? 》
 そういう問題提起を感じますし、この映画のストーリーが、妙にリアルに感じてしまう恐ろしさも感じさせられますね。
 
 テレビ番組 NHKで、 「ぼくは しんだ じぶんで しんだ 谷川俊太郎と死の絵本」という番組を放映していました。
 NHKのホームページに、次のように紹介されていました。
『90歳になった詩人谷川俊太郎が今年新たな絵本を出した。
テーマは「子供の自死」。
リモートで行われた絵本作りの2年間、絵を描く合田里美に谷川は何度も描き直しを求めた。
意図は何?合田は必死に探る中で、谷川の死への思索、そして子供たちへのメッセージを見つけていく。
主人公の自死を読者が「わかったつもり」になることを詩人は拒否していた…。
合田の作画をアニメ化し、特異な絵本の誕生を追体験する。』
 (HPより)  
 この中で、
『主人公の自死を読者が「わかったつもり」になることを詩人は拒否していた…。』
 という言葉がございますが、確かに谷川俊太郎氏には、
 「人間が考える意味づけより、もっと深いものがあるのではないか?」
 そういう、問題提起があるように感じました。

 谷山 俊太郎氏は、70年以上詩を書き続け、宇宙と孤独について考えて来た方だそうです。
 
 私は、谷川俊太郎と言えば、歌手の小室 等さんが歌っておられた、
「いま 生きているということ」(作詞 谷川俊太郎)
という歌を思い出します。

 次のような歌詞です。

『生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
おこれるということ
自由ということ
生きているということ
いま生きているということ
いまどこかで兵士は傷つくということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで星は流れ
いまどこかで虹が立ち
いまどこかで火は燃えること
いま生きているということ
いまだれかが旅立つということ
いまだれかがだれかをみつめ
いまだれかが決意すること
いまだれかが問いかけて
いまぼくらは歌うこと
いま生きているということ
いま地球が廻っているということ
いまナイフはきらめくということ
いま子兎が跳ね鯨はまどろみ
いま種子はまかれ石は彫られ
いまぶらんこがゆれていること
生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
夜はあけるということ
風が立つこと
静けさということ
いま…いまが過ぎてゆくこと
生きているということ
いま生きているということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

発売日:1986-03-05
歌手:小室等 作詞:谷川俊太郎
作曲:小室等』

 この歌を聞いたのは、ついこの間の事だった気がするんですけど、、。
 懐かしいですね。小室 等さんの歌っている姿と共に、「こんな歌もあるのか?」という不思議なインパクトを感じたことを覚えています。

 詩人 谷川俊太郎氏は言われます。
「自然宇宙内の孤独、命としての孤独と、社会の中で、色々な人間関係で孤独になる孤独とは全然違う孤独だと思います。」
 叉こうも言われています。
 「今は、意味偏重の世の中なんですよ。
 誰にでも何にでも意味を見つけたがるわけですよね、意味を探したがるわけ。
 意味よりも大事なものは何か、何か存在ということなんですよ。
 何か在るということを、存在するということを、言葉を介さないで、感じ取るということがすごく大事なことだと僕は思っている。
 中々そういう機会はないんですけれど、
 生きている上で、そういう意味を回避するというのかな、意味付けないで じっと見つめるとか、じっと我慢するということがあるんだけれど、 皆、結構そんなことはしなくなってきているんですよね、意味を見つけたら満足しちゃうみたいなね。
 そうじゃないものを作りたいとおもっていますけれどね。』
 と言われていたのが大変印象的でした。


 私は、先の映画監督の早川監督の言葉も、詩人 谷川俊太郎氏の言葉も、
「人間の考えを超えなければ、人間が考えるだけでは解決しないことがあるのでは?」
 そんなことを教えられているように感じました。

 井上善右衛門先生は、「蓮如上人 御一代記聞書きに学ぶ」(永田文昌堂)の中で、次のように説かれています。

 『仏法者には法の威力にて成る

 前々住上人仰せられ候。
 仏法者には法の威力にて成るなり。
 威力でなくば成るべからず、と仰せられ候。
 されば仏法をば学匠物知りは言いたてず、ただ一文不知の身も信ある人は仏智を加へらるる故に、仏力にて候間人が信をとるなり。
 この故に聖教よみとて、 しかも我はと思はん人の仏法を言ひたてたることなし、と仰せられ候ふ事に候、 ただ何知らねども信心定得の人は仏より言はせらるる間人が信をとる、との仰に候。(第236条)

 釈尊が病める跋迦梨(バッカリ)比丘に対して、 老耄ろうもうのこの身を頂礼しても何にもならぬ「法を見るものは我れを見る、我れを見るものは法を見る」と 申された言葉は、仏教の何たるかを示すとともに、西洋の宗教との根本的な相違を私どもに気づかせて下さる大切な言葉であります。
 仏陀とは覚者と訳されますが、それは法と一体化した人格の活動態と申してよろしいでしょう。
 では「法」とは何であるか、それは言葉では言い尽くし難いと思いますが、強いて言うならば、究極の宇宙的真実とでも申してみましょう。
 すべてのものがそこにおいて究極の統一と活動をえしめられるものが真実であります。
 白井成充先生の遺詠に、
 
 弥陀のみちかいのゆえに 天地あめつちの  おのづからなる寂けさに入る

 という一首がありますが、この「寂けさ」の一語には深々とした味わいが宿る事を感じます。
 それは単なる静寂ではなく、大いなる統一の姿であり、それが「和」の原理ともなって果てしない活動を現じる力ともなります。
 諸の菩薩は功徳の法に安住したまえりといわれる、この安住こそが るがぬ統一と活動の姿を語るものです。

 仏法は相対的な人間能力のわざではありません。
 それを人間の知性や理解力で捉える事の出来るように思うて振舞うことは、はかなくも悲しむべき事です。
 宇宙的な究極の真実は、それが真理であるが故に、総てを包み、遍く一切にゆきわたり、その故に人間の理性をも感情をも包み貫くものであります。 
 ここにこの私が法に関係せしめられざるをえない所以があります。
 これが「法の威力」と、いわれ、その威力が私に関わり来る働きを、「如来の加威力に由るが故に」と「信巻」には申されているのであります。
 
 本条では以上のこころを、前々住上人(蓮如上人)が「仏法者には法の威力にて成るなり、威力でなくば成るべからず」と仰せられたのです。
 仏法者とは言うまでもなく真実信心の人を指します。
 ところが、その仏法者たることを人間の理知で獲得できるかのように思うて、仏典を解読して人間の思考する義理を述べたてる。
 しかしそれは法を人間の観念に 摩替すりかえるものです。
 観念とは意識の描く輪郭ですから、影のように形はあっても中味はない。
 それは法の真理とは全くその本質を異にしたものです。
 その事を「されば仏法をば学匠物知りは言いたてず」と申されています。
 「ただ一文不知の身も信ある人は、仏智を加へらるる故に、仏力にて候間人が信をとる」と。
 仏智とは一切を貫き照らす法の働きであります。
 この仏智に照らされたとき始めて人間は真実の世界に出る。
 それが即ち仏心の照耀を蒙るということであり、その照耀に おさめ取られた体験こそが信であります。
 泥水に天上の月がさながらに照り映えるがごとくです。
 だから信の原語プラサーダは 澄浄とうじょうという義をもちます。
 祖聖は「満足大悲円融無碍の信心海」と仰がれました。
 満足とは完全無欠ということ、大悲とは私の悩みがそのまま如来のやるせない悲しみとなる一体化の状況、その故に如来の一切の徳を私のものとして 与えずにはおかぬ大悲と表裏相離れぬ真実心の働きです。
 しかもそれが真実自体である故に、何ものにも碍えられず一切に円かに融合することを円融無碍と語られました。

 才市老人が
 ありがたいなあ
 照らしぬかれて
 照らしとられて
 ナムアミダブツ
  
 とうたったあの心境であります。
仏智ぶっち真実しんじつに浴する人は、仏力の中にある人です。 
 だからその仏力が接する人を信の世界に誘導する。
 これは理屈ではなく確たる事実であります。
 
 「此の故に聖教よみとて、 しかも我はと思はん人の仏法を言いたてる事なし」と。
 自我への固執が破られて、法の真実に照らされるところに仏法が開かれる。
 しかるに聖教の理解力を頼りとし、われこそはと力むということは、仏法に名を借って我執をつのるわざに外なりません。
 それはまさに法の真実に逆行する所業です。
 どうしてそこに仏法を語り出すことが出来ましょう。
 かかる誡めが繰り返えして述べられていることは、われわれの反省すべき深い傾向性がそこにあるからでしょう。
 聞法とは法を耳で聞いて理解することではなく、法をこの身に頂戴することです。
 ところがそれがなかなか頂戴できない。
 「難中之難」という言葉もありますが、それは法がこの私にとって難しい困難なものであるがためではなく、十重二十重に自分を我執の とりでで固めてきた久遠劫来の迷の壁の厚さによるものです。
 身の迷の遠く深い事を思えば、至難の至難たる所以もうなずかれ、いよいよ聞法の一途に邁進せずにはおれません。
 最初に述べた釈尊のお言葉にもうかがえるように、法と人とは二つにして一つであります。

 法は人において顕現し、人は法において真に生かされる。
 その人法不二の真実に接して「身をもって法を聞く」より道は残されていません。
 決して理知の物知りに法を求め頼るのではなく、信心定得の人に親近するそのことが、仏の力に催される所以となるのです。
 そして私どもも聖人が汲まれたその同じ水を親しく汲ませていただく身となるのであります。』

(「御一代記聞書きに学ぶ」井上善右衛門)

 ここに、人間の考えを超えた法の真実ということが、繰り返し繰り返し説かれていることと思います。

 井上善右衛門師は説かれます。

 『祖聖は「満足大悲円融無碍の信心海」と仰がれました。
 満足とは完全無欠ということ、大悲とは私の悩みがそのまま如来のやるせない悲しみとなる一体化の状況、その故に如来の一切の徳を私のものとして 与えずにはおかぬ大悲と表裏相離れぬ真実心の働きです。
 しかもそれが真実自体である故に、何ものにも碍えられず一切に円かに融合することを円融無碍と語られました。』
 『身の迷の遠く深い事を思えば、至難の至難たる所以もうなずかれ、いよいよ聞法の一途に邁進せずにはおれません。』
   (井上善右衛門)

 詩人の谷山 俊太郎氏が言われた「自然宇宙内の孤独、命としての孤独と、社会の中で、色々な人間関係で孤独になる孤独。」
 そのような孤独が、確かに私自身にもあります。
 自分の自我、我執の為に、苦悩せざるを得ない私、人生で起こる様々な苦悩も、私自身の自我の強さからきている場合もあるのではないか?
 自分の知恵では解決できない、どうしようもなく深い迷いを抱えている私自身であると感じます。
 そのような「孤独の苦悩」は、切羽詰まったものであり、一刻も早く解決しなければならないと感じています。
 凡夫である私は、「苦悩をご縁に仏法を聞かせて頂く、聞法生活」こそ、私自身の救いの道であると、改めて感じている次第です。 
  称名
 

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                  
 
 釈尊しゃくそんのお言葉 
「これは自分のものだと思っているもの  
も、その人が死ねばどこかへ  
いってしまう。自分のものに 
するために夢中にならぬがよい。」   
この言葉を聞いて、我々は何を 
感じるでしょうか?自我の為に生きる。 
そのことに安住出来るでしょうか?  
正しさにかなわぬ生き方が如何なる   
むくいを引き起こすか?  
そのことに無関心でおられるだろうか? 
聞法を大切にしたいものです。 
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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