2022年4月 第126話

朝事*住職の法話

「紙の裏表うらおもて
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。称名
 今月は「紙の裏表うらおもて」という題とさせて頂きました。
 ある方が浄土真宗の教えを伝えたいと思われ、 布教使ふきょうしになりたいと 志願しがんされ、ある先生の所へ行き、
「私はこれから布教使として、浄土真宗のみ教えを広めていく布教の仕事をしたいと思います。
何か一言アドバイスのお言葉を頂けたら幸甚です。」
 と先生の指導を仰がれた。
 先生が言われるのには、
「布教するのなら、先ず自分自身の安心が決定していなければなりませんよ。」
と言われました。
 そして、
 「紙がここにある。紙には、表と裏があるが、この表と裏を離して来い。」
 という宿題を出されました。
 「紙の裏表が離せるわけがないじゃないか!」と言えばいいものを、その方は大変真面目な方だったらしく、ずっと何日も
「どうしたら、紙の表と裏を離すことが出来るか?」
 ということを考え続けられたそうです。
 そして、いくら考えても、紙の表と裏は離せないので、
「先生、紙の表と裏を離すことが出来ませんでした。」
 と正直に告白することになりました。
 先生が言われるには、
「そうや、紙の表と裏は離せないのだ。それと同じように、
仏さまと私は離せないのだよ。」
 と諭されたそうです。
 
 仏さまと私は紙の裏表のように一体なわけですね。
 南無阿弥陀仏は、
「阿弥陀と私は松葉の仲よ どこに落ちても二人連れ」
 「阿弥陀さまと二人連れの人生」
なんですね。  

 妙念寺というお寺の住職様は、次のようなご法話をされています。

『ご主人を亡くされたお母さんが 取り残された方が知りたいのは 
亡くなった方が 今 どうしておられるのか、また、自分は今後 どうなるのだろうかとの疑問だろうと思います。
一緒にお念仏をして生活していた 大切な方が 自分を置いて どこか 遠くへ 居なくなってしまったのではなく、お浄土へ生まれ 仏のさとりを得て 今も 自分のために はたらいていてくださる。
南無阿弥陀仏の仏さまとなって いつも一緒にいてくださる。
自分は 見捨てられたのではなく 生前と同じように自分のことを 気遣っていただいている。 
そう 味わうことが出来れば 悲しさ寂しさを 乗り越えていける 大きな力になるのではないか。
同じように 子どもや孫も 父母や祖父母は 今も 自分たちのことを いつも心配して 見守っていてくれる。
そう味わう人生は 素晴らしいものになるのではないか。
世間の常識で 勝った負けた損した得した 健康第一 死んだら終わり という価値観だけではない。
学校でも教えてもらえない 仏教的な価値観 それを受け取ること、それが、今は亡き父母が もっとも喜んでくれる 生き方ではないか、そして 私の人生を豊かにすることではないかと』
(「妙念寺 電話サービス」より抜粋)
  
『一緒にお念仏をして生活していた 大切な方が 自分を置いて どこか 遠くへ 居なくなってしまったのではなく、お浄土へ生まれ 仏のさとりを得て 今も 自分のために はたらいていてくださる。
南無阿弥陀仏の仏さまとなって いつも一緒にいてくださる。』
 と言われています。
 読んでいて、こちらの心が温かくなりました。
 
  前田慧雲和上まえだえうんわじょうは、次のように言われています。
 
 『いったい私たちは、何事を果たしにこの世に生まれてきたのでしょうか。
 「仕事をしに生まれたのだ」という人があります。
たしかに私たちは、仕事によって生かされ、職業をとおして育てられ、一生を送ります。
 しかし、考えてみれば、 あり蜜蜂みつばちでも仕事をするし、牛でも教えればよく働きます。
 もちろん程度が違いますが、働くというだけならあえて人間でなくても果たしておりましょう。
 「子を産んで育てるため」にこの世に生まれたのだ、と答える人がおります。
 親からもらった生命を、子や孫に伝え残していくことは大切なことで、子供ゆえに笑い、泣き、生きるはりを持つのが私たちです。
 しかし。子を産み育てるだけなら、軒先のすずめでも、人間に劣らず真剣にやっているではありませんか。
 私たちが人間に生まれたのは、
「出あうためだよ」
と、如来さまはおっしゃっています。
 何に出あうのか、生まれたらまず、親にあいますね。
 不思議なご縁で「この人を親として」生まれた。
続いて兄弟にあい、親族 隣人にあい、友人や先生にあい、生涯を共にする夫や妻にあい、そうして自分の子供にあう。
 けれどもこれは、なま身の体を持ったものどうしの出あいでして、
会者定離えしゃじょうり」、
会うたものは必ず別れねばならないのが人生の鉄則です。
 これまで地上に生をうけた何百億の人で、この鉄則から逃れた人は一人もありません。
 しかし、幸いにも、決して別れることの要らぬ出会いが、人生にはたった一つあるのです。
  
 それは、真実のみ仏さま 阿弥陀如来の 本願力ほんがんりきにあわせていただくことです。
 本願力ほんがんりきとは何か。
 悩み、苦しみ、迷っているこの私を、あなたを、「南無阿弥陀仏」の 名号みょうごうを与え、となえさせて、 「摂取不捨かならずすくう」と誓ってくださる、大きな慈愛の心です。
 慈愛の心は目には見えませんが悩み苦しんでいるあなた一人のために、その人生を貫き通してはたらいていてくださるのです。
 いかにしてその 本願力ほんがんりきにあえるのか。
 それは、「聞く」ほかありません。
 この文をくりかえし読み、耳に聞いてください。
 
 われとなえ、われ聞くなれど南無阿弥陀 必ず救うの
 おやの呼び声
 
 すでに「必ず救う」とお誓い下さってあるのですから、信じまかせて静かにとなえましょう。
 念仏するものは、みなおさとりの世界 お浄土で永遠にあえます。
 このとき別れは会うの始めとなるのです。
 
 生死しょうじ苦海くかいほとりなし
 ひさしくしずめるわれらをば
 弥陀弘誓みだぐぜいのふねのみぞ
 のせてかならずわたしける
 
 身も心もお大切に。』(前田慧雲和上の言葉)

 『しかし、幸いにも、決して別れることの要らぬ出会いが、人生にはたった一つあるのです。
 それは、真実のみ仏さま 阿弥陀如来の 本願力ほんがんりきにあわせていただくことです。』
 と言われています。
 親は生きていて下さるだけで、拠り所となって下さいますが、亡くなられたら、
「拠り所が無くなってしまった。これからは何を拠り所に生きていけばいいのか?」
 と失望感に襲われる場合もあることでしょう。
 そんな時でも、変わらず、支えて下さるのは、紙の裏表の如く、決して離れることのない、真実のみ仏さま 阿弥陀如来の本願力です。
 辛い中で、目には見えないけれど、ほのかに感じられてくるのが、み仏さまの慈悲というものではないでしょうか?
 そう感じることが出来るのも、全てみ仏さまの本願力のお働きのお陰ですね。
  
 ご主人を亡くされ、悲しみの中で、仏法に出会われた方にTさんがおられます。
 「一本道」(№47 1984.10.25 本誓寺 発行)より紹介させて頂きます。

 『 Tさんは39歳のとき夫を亡くした。悲しみのどん底で仏法に出遇った。昨年7回忌の法事をつとめられたが、その折、Tさんはこう言われた。
 「聞かせてもらわなければ、なんにもわからない私たち人間、人間に生まれてきた意味を問う身にさせてくださった亡き夫や母に心からお念仏申し上げます。
 夫の身体はこの世にありませんが、お浄土に生まれた夫との対話がある今の生活を喜ばずにおれません。 」
 と。
  供養とはこういうことではないだろうか。
 私たちは、先だった人からなにを知らされ、なにをいただいて生きているだろうか。
 ・・・・・・

 仏法に出遇って知らされた一番大きなことは、比較しなくてもいい という世界が見つかったということです。
 仏法に出遇う前は、家を建てるときも、車を買うときも、対するものすべてが比較して生きていたから、とてもつらかったです。
 今も、やっぱり比較する心は離れんのですが「ああ、また比較しとったな」という自分に気づかされるということは、 仏法に出遇わなかったらそれに気づくことがなかったでしょうね。
 今の若いお母さん方を見ていても、自分もとおってきた道だから、えらそうなこと言えないけれど、ただひとつ気づいてほしいなとおもうことは、 比較する必要のない世界、自分は自分でよかったという教えに出遇ってほしいなということですね。
 比較しているところからは虚しさしか生まれてこないもの。
 私なんか、頑張ってばっかりいた自分だったらこそ、その頑張っている自分も仏さまに助けられているんだなあと気づかせていただく縁にふれて、 仏法聞いている中にあって頑張っている自分ならよいのですが、なんにも聞いてないのに頑張っとる自分だったら、苦しいとか虚しいとか、 そんなことばっかりでしょう。
 「よかったね」とか「本当にそうやったね」ということがないものね。
  
 頑張っておる中に頑張っておるままで、『歎異抄』の
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
とか、
「さるべき業縁のもよおさばいかなるふるまいもすべし」
と聞かされたあのお言葉は、ほんとうにひびきました。
 ああして、こうして、こうせんならんと、そんなことばっかりで明け暮れていた私に、「そんなことせんでもよかったんや」という世界を 見せてもらって。
 よく聞かされますように、腹立つことひとつも、さあ、いまから腹立てやる、といって腹たてるものは誰もおらん。
 自分が生まれながらに持っている業というものは、自分からきりはなそうとおもってもはなれるもんでないと気づかされて、はじめて腹立つ原因が わかりました。

 それから『歎異抄』四章に
「今生に、いかにいとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」
という言葉がありますね。
 39歳のとき夫をなくしたあのときが、ここやったんやなあと、この言葉に出遇うたとき、ほんとうに親鸞聖人を身近に感じましたね。
 家を建てることが幸せで、いろんなものが家にそなわることが幸せだと一生懸命頑張っていたときの夫の死でしたから、家も財産もいらん、 全部なくなってもいいから、夫のいのちを助けてほしいとおもいました。
 夫の死後、聞いたこの四章の言葉は、本当に静かに私の心にしみとおりましたね。
 私に先きだって、この世界をとおられた方がいらっしゃる、それがどんなに私を支えてくれたことか。
 子どもの頃、母から、いつも口ぐせのように聞いていた。
 「一寸先は闇」
という言葉を、夫の死をとおして確実にこの身のことと知らされましたね。
  
 私も夫が元気な頃は、共稼ぎで働いているという頭があったものですから、夫がよく「お前中心でこの家まわっとると思うな」と叱られたとき、 それに反発して大げんかになったこともあったけど、亡くなってみて、
はじめて夫のいったとおり、自分のおもいを先にたてて思うようにならんといって腹たてていたこと、 その事を夫が私に教えてくれたことも、仏法聴聞ということがなければ気づかなかったでしょうね。
 また生前、書を少したしなんでいた夫は亡くなる少し前に
「和顔愛語」という言葉を色紙に残していってくれました。
 これもあとで『大無量寿経』の中の言葉だと教えられたのですが、夫はいまの私にとってはほんとうによい言葉を残していってくれたと思います。
 私の仕事は損害保険の代理店なんですが、人間である以上、過失がありますから、それを保険で補償というのですから、お客様に不安を与えないように 売らなければならないでしょう。
 日本はまだ普及率が低いので、なかなか自分の過失を認めようとしません。
 自動車事故、火災事故、賠償事故、どれをとってみてもお客様にとっては悲しいことにあっているときでしょう。
 そんな時、この「和顔愛語」という言葉にどれほど助けてもらえたかしれませんね。
 目に見えない商品を売っているだけに、いろいろなトラブルに巻きこまれて苦しむことが多いのですが、事故処理ひとつにしても、仏法聞かせてもらって、 なにか仏さまの言葉にかえして、ことに処していくと非常にスムーズにいくようですね。
 日常生活で仕事のウエイトが大きいものですから仏法聴聞していてよかったと思うことばっかりです。

 先日一人娘を結婚させて、ひとりになったでしょう。
 
 みんなから「淋しくないか」って聞かれるんですが、淋しくないといったらウソになりますが、なんというか、子どもを私物化している親が多いでしょう。
 なんかその子どもも一人の独立した人格ということを忘れて子育てしているように思われてね。
 子どもでも人格という言葉にふれると、そこには親と子であっても変わってやることも、もらうこともできないんじゃないですか。
 ひとりのかけがえのないいのちをもらって生きているんだと思われてね。
 母親の前姿が子どもにとっては後姿となっているっていわれるけど、母親の前姿ってほんとうに大事だと思います。
 私の母なんかも、ずっとお寺参りしとった人だったから、
私がその母の膝にだかれて仏法聞いた記憶があるもんですから、仏法聞くことに抵抗なかったですねえ。
 でも本当に不思議ですねえ。
 その嫁いだ娘が、先日上京した折、「いつか、こちらに来て住んで!」といったので、「こんなお寺もない、友達もいないさみしいところいやだ」といったら、 「お寺なら見つけてあるわよ」といったのにはびっくりしました。
 そしてそのお寺の伝道掲示の言葉をいうんです。
 「あの子はお腹いっぱいなのに泣いている。こころがさみしいからだよ」
という言葉です。
 まさに現代の我れわれの生きざまですねえ。
 でも、とても嬉しかった。
 娘がこんなこと言ってくれたのは、むこうにいても、こんな言葉にふれて生活していってくれるというだけでも、間違いなく 仏法は伝承されていくんだということですね。
  
 私の祖母が大へん聞法していた人だと聞いているんですけれど、その人の子どもで私の伯母にあたる人がアメリカにいるんですけど、その伯母が19歳で アメリカに渡るとき、祖母が念珠と六字の名号を渡したそうなんです。
 伯母はなにもわからないアメリカで、ひたすら日本からくる布教師の人から、お念仏を聞いて聞いて聞きあるいたといっていました。
 私が夫を亡くしたときも、伯母は、「可哀想やけど、念仏申しなさい」の繰り返しだったもんね。
 普通なら、なんとかかんとか慰めてくれそうなもんやのに、なんと冷たい伯母だとそのときはおもいましたね。
 でも聞いて聞いて、心にガツンとあたったことだけは忘れんもんやね。
 「念仏申しなさい」
ということは
「仏さまの言葉を聞きなさい」
ということなんですねえ。
 その伯母が日本へきたとき、毎日、夜寝る前に、お仏壇の前で必ず
「よろずのことみなもてそらごとたわごとまことあることなきに、念仏のみぞまこと にておわします。
 有難うございました。ナンマンダブツ ナンマンダブツ」
といってやすむ姿を見て、ああお念仏の身についたいい伯母をもったことのしあせわせを おもいました。
 それから私の心にゴツンと残っている言葉は、小松の瀬領というところに高原先生のお話聞きにいったとき、お話が終わったあと、質問ないかと言われて ひとりのおばあちゃんが
「ながなが仏法聞いてきたけど、なんでこんなに虚しいんやろ」
とおっしゃったんです。

 そのとき実に厳しいお顔なさって、「あんたなにを言うとるのです。清沢先生はなんとおっしゃるとる。
 『請うなかれ求むるなかれ汝何の不足がある。
若し不足ありとおもわば是れ汝の不信にあらずや』
とおっしゃっています。
 もっとここをいただきなさい。」
 とビシャとおっしゃってあとなにも言われない。
 ・・・・・・
 私そこで信ずるということをとおして高原先生の厳しいお顔もわからせてもらえました。
 結局なにかこう外へばっかり向いた生活しとったけれども、親鸞さまや蓮如さまのお言葉をとおして、私の内へ向けられていく生活がみつかってくると、 人のことなどいえないねえという生活が見つかってきてね。
 仏法に出遇うことがなかったら、文句ばかりいって、文句いうとる中から自分のことと帰ってくるものが見つからなかったでしょうね。
 河村とし子先生のおっしゃった
「ないものをほしがらんで、あるものをよろこばしてもらおうよのう」
という言葉なんか、現代の人間の生きざまそのものをおっしゃっている感じでねえ。
 
 私が私でよかったとわかるまで随分まわり道をしました。
 仏法聴聞にむすびつけてくれたのは勿論、主人の本当に突然といっていいくらいの死だったのですが、
もし主人の死ということがなかったなら、 今頃やっぱり頑張って頑張って虚栄心や自尊心に苦しめられ、平気で人を傷つける言葉を吐いていたでしょうね。
 でも、私って本当に 仏縁があったように思います。
 「和顔愛語」という主人が残してくれた言葉が仏語であったり、また保険新聞の本の紹介で人生訓365日のところの、夫の命日、六月二十六日の言葉が、
「自灯明 法灯明」
という言葉だったりして、他人に頼るな、法を灯として生きよとね、次々に仏さまに出遇えるように主人が導いてくれたような思いがしてなりません。
 
 気がついてみれば、それに先だって私の母がちゃんとそこまで道づけていてくださった人だといま思うですね。
 親が聞法者であることが子どもにとってどんな大事なことか、いましみじみといただかれます。
 昔の親の言葉は素朴だけれどどこか深い人間の真実をいいあてている言葉が多かったですね。
 母の言葉で一番心の支えになっているのは
「遇うだけのことは遇わんならん」
という言葉ですね。
 遇うだけのことは遇うてこの身をしらしてもらうんですね。
 先ほど話したアメリカの伯母は、
「信心はつかもうとか拾うもんでないんや。一生かかって聞法していくことが信心や」
と言ってくれたのも、いまとても頷けます。
 生活に聞法ということがぬけると現代病のひとつにかかりますね。
 、、、吉凶禍福とか、ご利益とか、そういったことに一生ふりまわされていきますね。
 仏法は人間が身をおいている根本を教えてくださいますから、なにごとがあってもそのままでいいし、お互いが助けあって生きていけます。
 
 「ただ仏法は聴聞にきわまることなり」
という蓮如上人の仰せをとおして、
「人のわろきことよく見ゆるなり、わが身のわろきことは覚えざるものなり」
という、このお言葉なんかも、仕事をとおして大きなよびかけをいただいています。
 これからも仕事をとおして、いよいよ教えに照らされる生活を大事にしていきたいと思います。』
  (「一本道№47 1984.10.25より抜粋)  

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
               
 
草はゆるを 
なにごともひとよいわざれ  
ことさらにおもいな人よ  
ましてなおなげくべからず 
さらにもよあせらであれな   
あめつちにはるのめぐらば 
おのずから草は萌ゆるを 
みほとけのこころのままに  
かならずよゆべき草は   
岡本かの子 詩 
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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