2022年3月 第125話

朝事*住職の法話

担板漢たんばんかん
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。称名
 今月は「担板漢たんばんかん」という題とさせて頂きました。
 担板漢たんばんかんという話が中国にあります。板を担いで歩く男をいう。
 右肩に板を担げば右側に何があるか見えない。
 左側だけを見て歩くことになる。
 つまり一方だけを見て、全体を見ない人間の生き方を指した話であります。
 私自身の生き方を指摘している言葉ではないか?
 自分の都合や経験、考えだけで、全てを見聞きしている。
 自分という小さな自我からしか、ものを見ることができないで歩いている。
 そんな狭い世界に閉じ込められている人間の姿を教えている話に思えてならない。
 それは、私自身の姿ではないか!
 狭い世界に居ながら、気付かないほど情けない事はないと思います。私自身のことです。

 人間は何か大いなる智慧ちえに照らされなければ、中々自分の姿に気づけないのでしょう。
 「自覚」という言葉がありますが、「自覚」ということについて、西本宗助師は、次のように語られています。
 「人間成就」94号1989年5月1日(石川県 明円寺 発行)より、少し抜粋して紹介させて頂きます。

 『今晩の題は、一応、私としましては、
「ただ南無阿弥陀仏」。そして「浄土の門に立つ」。
 こういう題でございます。
 あのう、お浄土にはもうお浄土の門はございません。
 お浄土の門、入口だけは 娑婆世界しゃばせかいにございます。
 だから、生きている時に この世にいる時に仏法を聞かなければなりません。
 その事を、先程の正信偈のお言葉で申しますと、

唯可信斯高僧説ゆいかしんしこうそうせつ」と。

 平素うけたまわってまする、よき人々、先生方の仰せのことを申させて頂きたいと、こう思っとります。

 私の見解、私の体験じゃなくて
唯可信斯高僧説ゆいかしんしこうそうせつ」と。

 よき人の仰せを承っている事を、これから申させて頂きたいと、こう思っとります。

 繰り返すようですが、お浄土にはもうお浄土の門はございません。
 お浄土の入り口だけは 娑婆世界しゃばせかいにございます。
 どこにあるか。この世の中に、 本願ほんがんを信じ念仏申すところが浄土の入り口、門。
 今、そこに立たせて頂きます。

 その事はただ南無阿弥陀仏でございますが、南無阿弥陀仏を別の言葉で申しますと、ただ信心ということでございます。
 
 さて「歎異抄」の第一条を謹んで拝読させて頂きます。

 弥陀みだ誓願不思議みだのせいがんふしぎにたすけられまいらせて、 往生おうじょうをばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち 摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやくにあずけしめたまうなり。
 念仏申さんと思い立つところに、すなわち 摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやくにあずけしめたまうなりということは、実は浄土の門に立つと私は頂いとります。

 その次に、

 弥陀みだ本願ほんがんには 老少善悪ろうしょうぜんあくのひとをえらばれず。
 ただ信心をようとすとしるべし。
 そのゆえは、 罪悪深重煩悩熾盛ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう煩悩ぼんのう 衆生しゅじょうをたすけんがためのがんにてまします。

 こういう事が書いてあります。
 お分かり頂けますね。

 お助け下さる弥陀みだ本願ほんがんには、老いたる者も若い者も善人も悪人も救うけれど、ただ一つ条件がある。
 それは「ただ信心をようとすとしるべし。」

 信心のない者は救いたくても救えない。
 こういうお言葉でございます。
  
 親鸞聖人の先生の法然上人さまのお歌にございます。

 月影のいたらぬ里はなけれども
 ながむる人の心にぞすむ

 いくら月がこうこうと照りかがやいていてもね、家の中でテレビばっかり見とったら月の光は仰げないです。
 本人がやっぱり外に出て月を仰がなければならない。

 仏さまはね、仏法を聞こうが聞くまいが、みんな救わにゃおかん。
 聞きたくない者こそ、信じられない者こそ、念仏いいたくない者こそ何とかして救わにゃおかんの 弥陀みだ本願ほんがんね。

 だけど、本人が聞いてくれなければ本人が助からない。
 本人が助からない。
 
 いくら仏さまが助けたくても、本人が信じてくれなければ本人が助からない、ね。

 その前に老少善悪ろうしょうぜんあくの人、信不信の人を選ばれず、ね。
 この事を入れた根拠を申します。

 その後に、
「そのゆえは、 罪悪深重煩悩熾盛ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう衆生しゅじょうをたすけんがための がんにてまします。」と。

 罪悪深重ざいあくじんじゅうというのは具体的に申しますと、仏さん くそったれ と思っている者が、 表面では仏さまを尊ぶまねは上手であるけれども、本当は足げにするような、人。人だれか。
 こちらです。

 「罪悪深重煩悩熾盛ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう衆生しゅじょうをたすけんがための がん」であればこそ、ね。

 その本人が助かるためには、これ、ただ信心、ね。
 この信心はね、信不信をこえた他力回向の信心。
 この信心は普通の信心じゃありません。

 我々が仏さまを信ずる信心じゃなくて、仏さまに信じられている ということにうなずく信心。
 だから、念仏です。
 ここの ただ信心は「ただ南無阿弥陀仏」ね。
 念仏申したからというて信心があるとは限りません。
 しかし、ここのね、「ただ信心を要とすと知るべし」の信心は南無阿弥陀仏であります。
  
 ちょっと伺いします。一才二才三才の子供が歩きますわな。ころんだらどうなさいます。
 お婆さんに聞きましょう。お孫さんがころんだらどうなさいます。
 すぐだきあげますか。
 はい、後の若いお母さまはどうなさいます。
 「なるべく自分で起きるように」。そうですね。

 すぐね、だきあげる。これはお婆さんのよいところであるし、悪いところ。
 孫はよう知っとります。
 お婆さんの前では ようころびますのや。まただっこしてもらうために。
 これではね、一本立ち出来ない。教育の目的と仏教の救済の目的と同じなんです。
 一本立ち出来るようにしてゆくのがね、仏教なんです。

 「往生をばとぐる」。往生をばとぐる。仏にして頂く教。
 小さい子供はね、ころびますね。すぐだきあげたら依頼心が強くなるだけ。
 さあ一人立ちしなさいよ、ね。
 一人立ちできるように助ける。
 仏教の教育はですね。ヘルプ、ツ-。セルフ、ヘルプ。
これが 回向えこう本願力回向ほんがんりきえこう
 子供の教育もそうです。
 いつまでも親がめんどうみ過ぎますとね、一人立ち出来ない。
 子供の教育ははね、一人でおしっこが出来るように一人で着替えが出来るように、勉強せと言われなくてもね、自ら勉強出来るように。
 二十才過ぎたら親のスネかじらんでも自分で自活できる力をつける。
 これが本当に救うことではありませんか。
いつまでもだっこすることではないんではありませんか。
 その点において仏教の教えは非常にね、人間教育自律の道をね。
浄土真宗もね、仏教でございます。
 で、話をもとにもどしまして、

 月影のいたらぬ里はなけれども
 ながむる人の心にぞすむ

 本人がね、月を眺めてくれなければ月影が分からないように、仏さまが いくら救いたくても本人が お寺に参って聞いてくれなければ、信じてくれなければ 助けようがないわけですね。
 そのためにどうなされたか。どうか聞いてくれよと。
 
 「ただ信心を要とすとしるべし」の信心は他力回向の信心で 他力回向の信心は言い換えたならば、ただ、南無阿弥陀仏ということであります。
 南無阿弥陀仏、ね。「ただ信心を要とすと知るべし」。

 この「ただ」は 深信じんしん
 他力回向の「信心」はほう深信じんしん
 どこまでも 二種深信にしゅじんしんである。これ、念仏であります。
 これを歌で申しますと、

 たすからぬ身にしみわたる
  み名のこえ

 私はこの歌を初めて拝見したのは、昭和24年にシベリアから日本に帰りまして、そして、奈良のあるお寺に参りました。
 そこで、戦死された兵隊さんの軍隊手帳にこれがあった。
絶筆ですね。
 その方のお母さまが私にね、西元先生、家の子の軍隊手帳にね、特攻隊で死んでゆくのですが、最後の遺言の歌、
「すくわれぬ身に しみわたるみ名の声」と。
 恐る恐るそのお母さんは、家の息子は救われているのでしょうか。
 救われていないのでしょうかと、聞かれました。
 こんな有難い歌はございませんのに なぜそうおっしゃるのですかと聞きましたらね。
 「すくわれぬ」とあるから。
「すくわれぬ」、救われぬ身。この言葉が有難い。

救われようのない身に、なんともならない身に どこどこまでも しみわたるみ名の声。お呼び声。
 こんな有難い言葉ない。

 余談でありますが、新婚生活三日間して、そして戦地に行った方のお歌です。本当に苦しんだに違いない。

 すくわれぬ身にしみわたる
  み名の声

 ナンマンダブツ。この言葉を思うことであります。

 真宗は生きている間は役に立たないかの如く思っておる。
 だから親鸞聖人はその点を心配されまして、 現生正定聚げんしょうしょうじょうじゅ
 現在からお浄土行きが始まっとる。

 「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち 摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやくにあずけしめたまうなり」。

 大きな功徳は現在から頂けると言われた。
  
 私は捕虜生活を四か年程させて頂きました。
 その度ごとに浮かんできたのは、芭蕉の弟子の曽良という方の句です。

ゆきゆきてたおれふすとも
   萩のはら

 シベリアの冬はきついですな。
ええ、今日は他人の身。明日はわが身。
 お互いに言い合いました。
生き地獄やな、西元さんと。ここで死んだら死に切れんなと。
 日本の内地で畳の上で死ねる人、日本の内地で親に見取ってもらって死ねる人、幸せやなと。
 
 「ゆきゆきて、たおれふすとも、萩の原」。

萩の原はお浄土ですね。
本願を信じてお念仏申せば、どこで倒れて死のうともね、いまただちに 帰って行くとなった時に、はあ、ここが浄土の入口 浄土の門、今現に浄土の入口に立たして頂いとる。
 そう思うた途端にシャンとしてきた。
 生きてる間、本当に生きてゆこうと。

娑婆の縁つきてシベリアで倒れたら、そのまんま「たおれふすとも萩の原」。
 お浄土の中にへ入ってゆくね。
この地上にある限り、皆さまも私も今現にお浄土に居りません。
娑婆に居りますが、おかげさまで今現に お浄土の入口に立たして頂いている。

 だから、「即得往生住不退転そくとくおうじょうじゅうふたいてん」。

 本当にお浄土のね、入口に立たせて頂いているんだなあと思った時にね、悲しい寂しい中にもね、有難いなあと。
 浄土の門に立っているのであるが、ね。
そういう喜びがあったのでありまして、その事をアメリカで申させて頂いたわけであります。
 皆さん方でお念仏申さして頂くところが、本願を信じお念仏申すところがですね、お浄土の門、入口に立たせて頂くことであって、ね。

 それを歎異抄には、 「摂取不捨せっしゅふしゃ利益りやくにあずけしめたまうなり」と。

 どんな事をも 転悪成善てんあくじょうぜん

どんな苦しみの中にも本当の喜びが与えられてゆくのでございますと、こう申しあげて、 申しあげながら 私自身も有難くなった次第でありますが、皆さん、いかがでございましょう。
  
 信心いただくことが何らかの意味において自覚するという、こういう言葉を使います。
 皆さん方、この言葉は素直に受けとれますかね。
他力の信心は自覚であるという。その通りであります。

 しかし、私はですね、私は質問するくせがある、心から納得するために。
 そこで、晩年の曽我量深先生のお宅に参りました。
最初の日は自分の勝手の時間に参ったわけですから、玄関ばらいを頂きました。
 あの玄関ばらいを頂いたことはよかったと思うております。
勝手に行ったわけですからね。
そこで、お宅の方に今日は勝手に参って申訳ありません。
 是非ともお伺いしたい事がございます。何日にお伺いしたならばお会い下さるのでございましょうかと、こう言う。
 お家の方が取り次いで頂きまして、何日何時ならばおいでくださいと。しめたと思いました。
 その日にお伺いしましたら、曽我量深大先生、晩年の先生が玄関にお迎え下さる。
この前はまことに失礼しました。さあお入りくださいと。
 お通し頂いて、お茶とお菓子を出して頂いた。

 さあ、何のご質問でしょうかと。
 先生ね、他力の信心は自覚とね。
有難いお言葉でございますが、でも、自覚自覚というだけ無自覚ではありませんか。
 どこまでいっても自覚できない。
 どこまでいっても無自覚な何ともならん、何ともならん。
 その無自覚という自覚でございましょうか。
 先生はね、その通りやと、ね。

 お念仏申して、これが大切、お念仏申して、どこまでいっても無自覚な何ともならん、我が身ということにお聞かせあずかる。
その身の自覚なんだ、とね。
 でもね、先生、自覚という言葉ね、誤りますとね、何でございますかと申しますとね。
 いや君、いらん事言うな。
しかし、現代の若い人々は自覚という言葉を使わないと聞いてくれないだろう。
 西田哲学でも田辺哲学でも自覚自覚と言ってらっしゃるからね、浄土真宗の信心は本当の自覚だということを知っていただくためこの言葉を使わして頂いているので。
 ところが、一部の者が簡単に自覚できると思うとるが、悲しいことで残念なことで。
 本当の自覚はお念仏、お念仏申して、ね。
どこまでも無自覚な我が身ということを気付かせて頂く。
 その意味の自覚なんだと。
本当に有難かったですね。
 
 (質問) 西元先生は助ける宗教とおっしゃいましたね。
 (先生)、いや、助けることが救いになってゆく。
 (質問) そしたら、たとえば助けて欲しいと思う時、苦しい時とか困った時とか そういう時は助けて欲しいですわね。
 幸せな時とか満足している時は助けて欲しいと思いませんでしょう。
 そういう方は浄土真宗に目覚めないといいますか。必要ないんでしょうか。
 (先生)ご質問の主旨がしっかりつかめないんですけれどもね。

 言いたいことは、浄土真宗は根本的なお助けなのです。
根本的なお助けなのです。根本的な、ね。
 
 浄土真宗という仏教は一番のねらいは、 「生死出しょうじいずべき道」を教えてくれる。

 仏教はね、人生の根本的な生きてよし死んでもよし、根本的な 生死出しょうじいずべき根本的な事の解決なのです。

 言いたい事はね、単に救うというとすぐ だっこする救いだと思いがちなのです。
 仏教は根本的に本人が立ち上がってゆく力を与える。
 一体、浄土真宗は仏教でありまして、根本的には何かといいますと、 「転迷開悟てんめいかいご」これ仏教だね。

 釈尊の道は迷いを転じて悟りを開く。これ仏教。

 ただ問題は我々いや私は、迷うていることすら気がつかない。
 他の迷っている事は分かるが、自分は迷っとるとすら思ってない。
 迷っている事に気がついてもね、迷いを転じて悟りを開く力を持たない。
 そこで、 法蔵菩薩ほうぞうぼさつという仏さまはどうされたかと言いますとね。
 迷いの世界に転じて来られた。
 つまり、如来が我となる。
曽我先生のお言葉に、「如来、我となりて、我を救いたまう」とある。
 仏さまが迷いの世界に転じて来られた。
凡夫と一体となって、この姿が南無阿弥陀仏。
 そして、浄土の悟りを開かしめたまう。これ、浄土真宗。
  
 衆生が転べば悩めば、仏さまも一緒に転んで下さる。
お念仏申す姿がね、我らと一体となられたお姿やね。
 ナンマンダブツになっていられる。
実際、私が経験ずみ。
 
 自ら立ち上がる力を与えるのが本当のお助けなのです。
本当の救済なのです。でないと、そんな子供は駄目になるのです。
 
 浄土真宗の仏教の教育はね、人間を救い助けてね、一本立ち出来るような仏にして頂く。
 仏にして頂く。

浄土真宗はね、皆さん方を仏にする教え。仏にして下さる。
 この事はもっと時間をかけて言わねばなりませんが、ね。
我われの代わりに、仏さまが迷いの世界に転じて来られた、ね。
 凡夫と一体となりたまうて、曽我量深先生のお言葉で言えば、

 如来、われとなりて、
    われを、すくいたまう。

 その御姿が南無阿弥陀仏です、ね。念仏です、ね。
 弥陀同体のさとりを開かせたまうと、ね。

 往生成仏おうじょうじょうぶつの道を与えたまう。
 かくのごとく私は教えられて、かくのごとく信じて、かくのごとく今生きとる者です。
 本当に生きる道が与えられる。

 少し年とりましたが、私のいのちはまだ少し燃えとります。
私の郷里の鹿児島に、二、三日前、桜島が火をはいとります。
 テレビを見ながら思うたです。

 わが胸の熱き思いにくらぶれば
   煙はうすし桜島山

 念仏申す世界はね、  大菩提心だいぼだいしんをたまわる世界。
大菩提心だいぼだいしんをたまわってゆく。

実際、わが先生方は死ぬ間際まで仕事された。本当ですよ。
 曽我先生も金子先生も。
金子先生は亡くなられる一週間前にお目にかかってますが、まだ、ここに机を置いて本を読んでおられる。
御開山ごかいさん、親鸞聖人は、御年九十才まで、特に八十五才から九十才までにはげしく仕事をしとられますわね。
 ついに時間が参りました。

本当に「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり」で。
 いつ別れてもよし、いつまでいてもよし、という世界を与えられたことを有難くぞんじます。
 お聞きいただいてありがとうございました。』
 (『人間成就第94号』 石川県 明円寺 発行 より抜粋)
 
 西本宗助先生の法話の中に、
 『深信じんしん
 他力回向の「信心」はほう深信じんしん
 どこまでも 二種深信にしゅじんしんである。これ、念仏であります。
 これを歌で申しますと、
 たすからぬ身にしみわたる
  み名のこえ』
とあります。

 深信じんしん
 ほう深信じんしん
 二種深信にしゅじんしん
 という言葉があります。
 二種深信にしゅじんしんについて、 三木 徹生師が次のように解説しておられます。参考にさせて頂きます。

 『浄土真宗の他力の信心は「二種深信(じんしん)」といわれています。
「機(き)の深信」と「法(ほう)の深信」です。
 二種深信とは、落ちるしかない救われようもない私(機の深信)が、必ず取って捨てぬ仏、必ずお救いくださる阿弥陀仏(法の深信) に出あわせていただくことといただいております。
妙好人(みょうこうにん)といわれるお園(その)さんの「落ちればこそ、救ってもらいますわいのー」といういただき方でしょうか。
 (本願寺新報 2010年08月20日号掲載)』
 
 西本宗助先生の法話の中で、「自覚」ということについての問答がございます。

 『さあ、何のご質問でしょうかと。
 先生ね、他力の信心は自覚とね。
有難いお言葉でございますが、でも、自覚自覚というだけ無自覚ではありませんか。
 どこまでいっても自覚できない。どこまでいっても無自覚な何ともならん、何ともならん。
 その無自覚という自覚でございましょうか。
 先生はね、その通りやと、ね。
 お念仏申して、これが大切、お念仏申して、どこまでいっても無自覚な何ともならん、我が身ということにお聞かせあずかる。
その身の自覚なんだ、とね。

 でもね、先生、自覚という言葉ね、誤りますとね、何でございますかと申しますとね。
 いや君、いらん事言うな。
しかし、現代の若い人々は自覚という言葉を使わないと聞いてくれないだろう。
 西田哲学でも田辺哲学でも自覚自覚と言ってらっしゃるからね、浄土真宗の信心は本当の自覚だということを知っていただくためこの言葉を使わして頂いているので。
 ところが、一部の者が簡単に自覚できると思うとるが、悲しいことで残念なことで。
 本当の自覚はお念仏、お念仏申して、ね。
どこまでも無自覚な我が身ということを気付かせて頂く。
 その意味の自覚なんだと。
本当に有難かったですね。』
  
 私は、味わいとして、大事なことを言われていると感じました。

 『どこまでいっても自覚できない。どこまでいっても無自覚な何ともならん、何ともならん。
 その無自覚という自覚でございましょうか。』

 『お念仏申して、これが大切、お念仏申して、どこまでいっても無自覚な何ともならん、我が身ということにお聞かせあずかる。
その身の自覚なんだ、とね』

 『本当の自覚はお念仏、お念仏申して、ね。
どこまでも無自覚な我が身ということを気付かせて頂く。
 その意味の自覚なんだと。』 

 『一体、浄土真宗は仏教でありまして、根本的には何かといいますと、 「転迷開悟てんめいかいご」これ仏教だね。

 釈尊の道は迷いを転じて悟りを開く。これ仏教。

 ただ問題は我々いや私は、迷うていることすら気がつかない。
 他の迷っている事は分かるが、自分は迷っとるとすら思ってない。
 迷っている事に気がついてもね、迷いを転じて悟りを開く力を持たない。
 そこで、 法蔵菩薩ほうぞうぼさつという仏さまはどうされたかと言いますとね。
 迷いの世界に転じて来られた。
 つまり、如来が我となる。
曽我先生のお言葉に、
「如来、我となりて、我を救いたまう」
とある。
 仏さまが迷いの世界に転じて来られた。
凡夫と一体となって、この姿が南無阿弥陀仏。
 そして、浄土の悟りを開かしめたまう。これ、浄土真宗。』
 
 迷っていることすら気づかない迷い、そういうことが説かれています。
妙好人(みょうこうにん)といわれるお園(その)さんの
「落ちればこそ、救ってもらいますわいのー」
といういただき方でしょうか?

 阿弥陀さまは、「必ず救う!」と呼びかけておられる。
 「どうしても救われない私」であるから、「必ず救うぞー」と呼びかけて下さっていたのですね。
 救われるものに対して、「必ず救う」と呼びかけることは要らないわけですよね。 
 
 『お浄土の入り口だけは 娑婆世界しゃばせかいにございます。

 どこにあるか。この世の中に、 本願ほんがんを信じ念仏申すところが浄土の入り口、門。
 今、そこに立たせて頂きます。

 その事はただ南無阿弥陀仏でございますが、南無阿弥陀仏を別の言葉で申しますと、ただ信心ということでございます。』

 『「ゆきゆきて、たおれふすとも、萩の原」。

萩の原はお浄土ですね。
本願を信じてお念仏申せば、どこで倒れて死のうともね、いまただちに 帰って行くとなった時に、はあ、ここが浄土の入口 浄土の門、
今現に浄土の入口に立たして頂いとる。』
 と説かれています。

「知足の人は地上に臥(ふ)すと雖(いえど)も、なお安楽なりとす。 不知足の者は、天堂に処(しょ)すと雖も亦意(またこころ)に称(かな)わず。 不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。」
 『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』

「足るを知る者は地べたに寝るような生活であっても幸せを実感できるが、 足るを知らない者は、天にある宮殿のような所に住んでいても満足できない。

足ることを知らない者はいくら裕福であっても心は貧しい。」
 
足ることを知っている人は、どのような状況に置かれてもいつも富んで豊かである、という意味でしょうか。
例えば、宮殿に住んでいたとしても、欲にまみれ、満たされていないようなら、その人は貧しい人なのでしょうか?
逆に、ボロ家に住んで、貧しい生活を送っていたとしても、私はこの生活に満足している、 これで十分だと感じているならば、その人は富んだ人であるという味わいであると感じます。

 何が貧しく、反対に何が富んでいるのか?「心」ですね。
「私にはこれで十分です、満たされています。満足しています。」
 このような足るを知る心を持つ人は、とても豊かな心で暮らしている方だと私は思うのです。
 貧者とか、富者とか、それは心の問題だということを教えられる気がします。
 
 『本願ほんがんを信じ念仏申すところが浄土の入り口、門。

 今、そこに立たせて頂きます。

 「ゆきゆきて、たおれふすとも、萩の原」。

萩の原はお浄土ですね。

本願を信じてお念仏申せば、どこで倒れて死のうともね、いまただちに 帰って行くとなった時に、はあ、ここが浄土の入口 浄土の門、
今現に浄土の入口に立たして頂いとる。
 
 この信心はね、信不信をこえた他力回向の信心。
 この信心は普通の信心じゃありません。

 我々が仏さまを信ずる信心じゃなくて、仏さまに信じられている ということにうなずく信心。
 だから、念仏です。

 ここの ただ信心は「ただ南無阿弥陀仏」ね。
 念仏申したからというて信心があるとは限りません。
 しかし、ここのね、「ただ信心を要とすと知るべし」の信心は南無阿弥陀仏であります。』

 と西本宗助先生の法話の中で説かれています。
 仏さまに信じられている、 本願ほんがんを信じ念仏申すところが浄土の入り口、門。

 常に、仏さまに「必ず救うぞ。」と念じられていることに、心温まる思いがします。
 「足ることを知っている」「知足の人」には、中々ほど遠い私ではありますが、仏さまに常に照らされている果報者だ! ということを忘れないようにしたいものです。

 南無阿弥陀仏

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
               
 
さわりなき仏智ぶっちは 
行者ぎょうじゃの心に入り、  
行者ぎょうじゃの心は仏の光明に 
おさめられたてまつりて、   
行者ぎょうじゃの はからひ、 
ちりばかりもあるべからず。 
如来はこれ法界ほうかいしんなり。  
一切衆生の心想しんそうに入りみちたもう。   
 
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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