2022年2月 第124話

朝事*住職の法話

「光の言葉」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。称名
 今月は「光の言葉」という題とさせて頂きました。
 
 瓜生津 隆真師は「信心と念仏」(彌生書房)という本の中に、次のように書かれています。
 
 『眼は心の窓といわれるように、自己を見つめ人生を見る眼をもつことが大切です。このとき私たちは人間として再生するのですが、さらにもう一度生まれかわることが、 宗教的誕生には必要です。
 それは永遠なるものに目覚めることであります。
 ところで、私たちは、心身の汚れともいうべき 煩悩ぼんのうをもった悲しい存在であります。私利私欲のみに走りがちな私たちです。
 そのために光を失って真実を見ることができないのです。
 このような私たちをつねに照らし、真実を見る眼を与えるものが如来であり、如来の大悲なのです。

 煩悩ぼんのうにまなこさへられて
 摂取せっしゅの光明みざれども
 大悲だいひものうきことなくて
 つねにわがをてらすなり
 
 この和讃は親鸞聖人の「高僧和讃」の中にあるものであって、横川の恵心僧都(源信)が著された有名な「往生要集」によって作られたものです。

 平易な言葉で如来の大悲をたたえられた見事な作品といえましょう。これと同じことが、「正信偈」には、

 極重ごくじゅうの悪人は だ仏を称すべし
 我もまた彼の 摂取せっしゅの中に在れども
 煩悩ぼんのうまなこへて見ずといへども
 大悲だいひ ものうきことなく常に我を照らしたまふ

 と出ています。
 このうち 「摂取せっしゅの光明」とは、摂取は「おさめとる」「すくいとる」ということですから、永遠なる仏(如来)のすくいの光を さしています。
 「極重ごくじゅうの悪人」とは、罪深い人間をいわれていて、何事をするにも、罪をつくり、人を苦しめ悲しませることなしには なしえない人間のことを指しています。
 さらにいいますと、そのような人間とは、実は私自身にほかなりません。
 煩悩ぼんのうとは「けがす」「汚す」「染める」という動詞からつくられたことばであって、人間の全存在(心身)を けがし、汚し、染めている、つまり親鸞聖人がいわれているように
「身を わずらわし、心を悩ます」もののことであります。
 このように 罪悪ざいあくをかさね、 煩悩ぼんのうにうちひしがれている私たちは、そのために仏(如来)を見ることができず、かえってその存在すら疑い、如来を仰ぎ、 尊び、敬うことを忘れています。
 ここに現代における人間不幸のもとがあるのではないでしょうか。
 
 しかし、自己を見る眼がそなわり、さらに宗教的目覚めをえるようになりますと、今まで見ることもなく、したがって知ることもなかった世界- 真実、如来、浄土など-が見えるようになってきます。
 この宗教的覚醒をうることこそが、仏教の課題なのです。
 文学者として、あるいは文芸評論家として活躍された亀井勝一郎氏によると、人間には三度の誕生がありうると考えることができる、といいます。
 第一の誕生とは、母胎から人間社会に生まれ出る自然的誕生、第二の誕生とは、理性によってものを判断し、自己を見つめることのできる人間になる 理性的誕生、第三の誕生とは、人間が超越的な永遠なるものに目覚める宗教的誕生であります。
 人間が人間となる理性的誕生をとってみても、そのこと自体は決して生易しいものではありません。
 また自分一人の力によってそれをえることはできません。
自己を見る眼をそなえるひとができて、はじめて人間となって再生するのですが、 これが人間になることですが、さらに第三の宗教的誕生が大切です。
 それは超越した世界に自分自身がかかわることであって、鈴木大拙博士のことばを借りますと、霊性的自覚をえることです。
 もともと「仏」とは「めざめた人」ということを意味していて、
霊性的自覚によって、私たちも永遠なるものに目覚めていくことができます。
 しかし、通常私たちは、目覚めたもの(仏)になることをめざすことを願うこともなく、したがって仏を信じ仰ぐこともなく、ただ現在の束の間の間の 楽しみを求めて、自己中心的に考え、意欲をもち、行動しています。
 このことを深く反省して、つねに私たちを照らし出してやむことがない絶対の「すくいの光」に目覚め、そのすくいの光に照らされている私たちであること、 したがって仏はつねに私たちを見、まもり、育てていることを知らねばなりません。
 そうして、そこにこそ真実の安らぎ、心の喜びを見出すことができるのです。
 み仏の安らかなまなざし、慈愛に溢れた温顔にふれますと、ただそれだけで私の心が自然に洗われなごんでくるのをおぼえます。
 迷いの眼には見えなくても、いつに変わらぬみ仏の慈悲の光が、いつも私たちをはぐくんでいるのです。』
 (「信心と念仏」瓜生津 隆真)
 
 
 ここに、
 『煩悩ぼんのうとは「けがす」「汚す」「染める」という動詞からつくられたことばであって、人間の全存在(心身)を けがし、汚し、染めている、つまり親鸞聖人がいわれているように「身を わずらわし、心を悩ます」もののことであります。
 このように 罪悪ざいあくをかさね、 煩悩ぼんのうにうちひしがれている私たちは、そのために仏(如来)を見ることができず、かえってその存在すら疑い、如来を仰ぎ、 尊び、敬うことを忘れています。
 ここに現代における人間不幸のもとがあるのではないでしょうか。』
 
 とあります。
 
 私たちの日々の生活は、煩悩によって、罪悪をつくる生活です。仏さまを見ることができず、如来を仰ぎ、尊び、敬うことを忘れている生活をしています。
 「人生一寸先は闇」という言葉がありますように、何が起こるか分からない不安の中に生きているのが、私たち人間の世界ではないでしょうか?
 
 『つねに私たちを照らし出してやむことがない絶対の
「すくいの光」に目覚め、そのすくいの光に照らされている私たちであること、 したがって仏はつねに私たちを見、まもり、育てていることを知らねばなりません。
 そうして、そこにこそ真実の安らぎ、心の喜びを見出すことができるのです。』

  とあります。

 私たちは、仏さまが常に私たちを見、まもり、育てていることに気づかない生活をしているのではないでしょうか?
 自分が迷っていることさえ気づかない、そんなどうしようもない、深い闇の中で、仏さまだけが、変わることなく、私たちを照らしていて下さるのですね。
 仏さまに気づくためにも、仏法聴聞ぶっぽうちょうもんのご縁を大切にさせて頂きたいものです。
 一日は24時間です。今日一日が大切です。
「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。」(蓮如上人)
「今日が仏法の聞き納め」と思って、仏法を求めたいものです。
 
 「一句 万劫まんごうかつす」

 という言葉があります。
 たった一つの言葉が、人間の心を、深いところで満たすということですね。
 人それぞれ、自分に感銘を受ける言葉は違いましょう。
 どんな言葉であっても、その言葉をご縁に、仏さまの世界に眼が開けていくことができれば、どんな言葉でもいいのでしょう。

 『極重ごくじゅうの悪人は だ仏を称すべし
 我もまた彼の 摂取せっしゅの中に在れども
 煩悩ぼんのうまなこへて見ずといへども
 大悲だいひ ものうきことなく常に我を照らしたまふ』
   (『正信偈』)
 
 「煩悩によって、仏さまの救いの働きを見ることは出来ませんが、仏さまの光に、私たちは、しっかり抱かれている」
 そんな光の言葉が、この「正信偈」の一句であるのかも知れません。
 仏教で「光明」という言葉がありますが、「光明」とは、
「教え」のことだと聞いたことがあります。
 「教え」に い、 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんすることは、そのまま「光明」に触れていることになるのですね。
 「仏さま」に触れていることになるのですね。
 仏さまの心は、私たちの世界とは次元が違いますから、中々、素直に聞き入れられない面もあります。
 また、いくら聞いても聞いても、分からない面もありますよね。
  
 仏さまは、そんな私たちを見て、「早く仏の心をわかってくれ。」と願われ、中々仏の心に目覚めることのない私たちを見て、悲しんでおられるのですね。
 しかし、私が、仏さまの心に目覚めて、一番喜んで下さるのは、仏さまなんだそうですね。
 親鸞聖人の教えを聞いて、私自身が、仏さまの深い心に目覚め、喜んでいくことが、親鸞聖人への一番のご恩報謝であると言われています。
 
 『ただよくつねに如来の みなしょうして、 大悲弘誓だいひぐぜいの恩を報ずべしといへり』(「正信偈」)
 
 「ただ常に阿弥陀仏の名号を称え、本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよい」(現代語訳)
 南無阿弥陀仏と 称名念仏しょうみょうねんぶつするのは「御恩報謝」だと教えられています。  
 そんな仏さまの心「本願」に出会った人は、その恩に報いるために、常に阿弥陀如来の名号を称えるのです。
 念仏ねんぶつとは、仏さまの心に出会えたよろこびが、声となってあらわれたものなのです。

親鸞聖人の御和讃に、次のような和讃がございます。この中にも「大悲心」という言葉が出ています。

如来の 作願さがんをたづぬれば
苦悩の 有情うじょうをすてずして
回向えこうしゅとしたまひて
大悲心だいひしんをば 成就じょうじゅせり
(『正像末和讃しょうぞうまつわさん』)

「阿弥陀様が、願いを起こされた理由を尋ねると、
 苦悩する私を見捨てないためでした。
 その功徳を私に回し向けることを第一に考えて
 「南無阿弥陀仏」という六字の名号で、私の苦悩を救う、という大悲心を完成されました。」
    (現代語訳)
 
 
 『拝読 浄土真宗のみ教え 布教読本』の中に、そんなお念仏をよろこんだお婆さんの話が書いてあります。
 
 『病室でのお念仏        報恩の念仏

 いつも念仏の声が絶えないおばあちゃんが入院することになりました。
 おばあちゃんは病室でも、いつものようにお念仏を称えています。特に起床後と就寝前は、西に向かって正座をしてお念仏をしています。
 そんなおばあちゃんが入院して、一カ月ほど経ったある日、お念仏を称えるおばあちゃんを不思議に思った若い看護婦さんが、こう尋ねました。
 「おばあちゃん、なんでいつも夜寝る前にお念仏を称えてるの?何か不安があるの?」
 その問いに対して、おばあちゃんはこう答えます。
 「なんでって言われてもわからん。出るんやから。ただ、不安があるのとは違う。今日も一日、阿弥陀さまがそばにいてくださったんやなぁ、 一人じゃないんやなぁと思ったら、思わず出てしまうんや。
 ご恩をもらいっぱなしやからな。お念仏を称えるしかないんや」
 

 看護婦さんはそれまで、お念仏は死者に向かって称える言葉、死者を救ってくださいとお願いする言葉だと思っていました。
 あるいは、この私を救ってくださいとお願いする言葉だと思っていました。
 その素直な気持ちが、こんな言葉になりました。
 「へぇ、そういう気持ちでお念仏が出るの?お念仏って、お葬式の時ぐらいしか称えないものだと思っていたわ。
 誰れかが亡くなった時に称えるものではないのかなぁ?」
 次は、おばあちゃんの味わいが出た言葉です。
 「確かに誰かが亡くなった時にも、お念仏が出るやろうなぁ。阿弥陀さまへの感謝の気持ちからね。
 亡くなった人も私も阿弥陀さまに導かれてお浄土へ参らせていただくんやと思ってね。
 そして阿弥陀さまが、この別れの悲しみにも寄り添ってくれると思えば、お念仏が出るやろうなぁ」
 お念仏は、いまここで救われたよろこびが声となってあらわれたものだったのです。
 よろこびの時も、悲しみの時もお念仏。
 ごく当たり前だと思われる日々の中に、お念仏が出ることが尊いのですね。』
 
 病院に入院しながらも、お念仏の尊さを身に味わっておられることが、よく分かるお話だと思いました。 称名
 

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                  
 
すべてわれわれは、無始より今日まで、 
煩悩にけがれて浄らかな心なく、  
うそいつわりでまことの心はないが、 
如来様は一切の苦しみ悩む衆生を   
あわれんで、 
広大な智徳をおさめた浄らかな信を、 
迷えるわれらに施して下された。   
これを他力より与えられた  
まことの信心と名づける。   
 
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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