2022年1月 第123話

朝事*住職の法話

「このまま」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。本年もよろしくお願いいたします。称名
 今月は「このまま」という題とさせて頂きました。
 本願寺カレンダーの一月の言葉は次のような言葉です。
 「きょうもまた 光輝く み仏の お顔おがみて うれしなつかし」
 (稲垣 瑞劔)
 
 稲垣瑞劔師は、「お内仏の阿弥陀様が、四十八本の光明を放ってござる。あの光明が、ずうっと延びて、私を抱いていてくださる」(「大信海」)
 と味わわれておられます。
 何故、四十八本の光明なのか?それは、阿弥陀さまの願いが四十八あるからだと言われています。
 私が、どのような世界にあっても、必ず、そのはたらきを届けてくださると誓って下さっているのです。

 「あの光明が、ずうっと延びて、私を抱いていてくださる」と、稲垣瑞劔師は、私たちは、いつもその光にいだかれ、そのはたらきの中に 摂め取おさめとられていると味わわれています。

 お寺のご本尊や、各家庭のお仏壇のご本尊は、そのことをお示しくださっているのですね。
 それを、「光輝くみ仏のお顔」と、味わいの歌を まれているのですね。
 日々、自分の家のお仏壇にお参りされておられる方もおられることと思います。
 その人にとられては、自分の家のお仏壇のご本尊は、とてもなつかしいものとして、特別な感じがするのではないでしょうか?

 浄土真宗の信者の方が、阿弥陀さまのことを、「親さま」(おやさま)と親しんでこられたことも、お仏壇のご本尊を日々拝む中から、自然と、「私の親さま」と、 阿弥陀様を親しく感じ、私と遠くはなれたところに阿弥陀様を思うのではなく、いつも私と共におられる親様と、他人行儀ではなく、 わが親として、仰いでこられたのではないでしょうか。

 「寝るも起きるも南無阿弥陀仏」「阿弥陀さまと共に起きて、阿弥陀さまと共に臥す」
 もっと言いますと、「生きても死んでも、阿弥陀さまの 掌のうち」
 どんな時も、変わらず私を支えて下さるおはたらきを、
「親さま」と呼び、四苦八苦の人生のよりどころとしてきたのが、浄土真宗の信者の姿ではなかったでしょうか。

 「晴れてよし 曇りてよし ふじのやま さかまく雲を そのままにして」(足利浄円)
 私たちの人生には、当然のことながら、晴れた日もあれば、曇った日もあります。
  娑婆しゃばとは、 「忍土にんど」とも言いまして、「堪え忍ばなければならない世界」という意味ですが、どんなことが起こっても、さかまく雲を、 そのまま受け止めていく。

 苦しい時はうめきながら、悲しい時は泣きながら、嬉しい時は喜びながら、そのまま受け止めて、まことの生き方を見失わない。
 「晴れてよい、曇ってよい」と、とらわれない。
 それを「このままの救い」と、われわれの念仏者の先輩方は味わい、支えとし、苦悩を乗り越えていかれたのではないでしょうか。
 
 「このまま」とは、私たちが、普通に使う言葉で、特別高尚な言葉ではないかも知れませんが、人生のさかまく雲に巻き込まれた時に、思いのほか、 支えとなって下さる、そんな浄土真宗の救いを指し示すキィワードのような言葉ではないでしょうか?

 人それぞれ、自分にピンとくる言葉は違うかも知れません。
 しかし、どんな人でも、どんなお金持ちの方でも、どんな地位や名誉がある方でも、権力者であっても、 他人にはうかがい知れない苦悩を抱えているのが人生というものの正直なすがたではないでしょうか。

 「晴れてよし 曇りてよし 富士の山 さかまく雲を そのままにして」といようなことは、日ごろ私たちが「自分が、自分が」と 自己主張しているこころではなくて、そのような 我執がしゅうを超えた絶対の世界、つまり仏様のこころでなくては、実現できない境地ではないでしょうか?

 そのような自我を超えた仏様の世界を聞かせて頂くことを 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんと言うのではないでしょうか。
 私を超えた世界を聞かせて頂く、そういう言い方もできるのではないでしょうか。

 仏さまの方からは、私たちの自我の心の中に簡単に入り込むことができるのだそうです。
 反対に、私たちの自我のこころでは、絶対に仏様のこころに入り込んでいくことはできないのだそうでね。
 仏さまの絶対の世界からわれわれの相対の世界には、常に橋渡しがされているのですね。
 私たちの心とは次元が違う心が仏さまのこころなのでしょうか?

 「自分が、自分が」という自己中心的な心の強い私たちが、どのようにして、そういう自我を超えた仏さまのこころを味わうことが出来るのでしょうか?
 
 そこに、いつも繰り返し自分自身に言い聞かすことでもありますが、 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんというものが私たちに与えられている仏さまとのご縁を頂く道なのであります。

 仏さまのみ教えが色々な経典の言葉となって説かれています。
 しかし、よくよく考えてみれば、仏さま自身には、仏法の教えは必要ないのですね。
 なぜなら、もう既に仏さまなのですから、今から 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんすることは要らないわけですから。

 それでは、経典とは、私たちの為に説かれていると味わうことが大切なのではないかと思うのです。

 私たちの為に、仏さまの世界から、私たちに救いを教える為に、お経の言葉にまでなって、私たちを助けようと骨折ってくださっているわけですね。

 そんな仏法のみ教えを、「私とは関係ない。」と思うことは、仏さまのおこころを知らないことだと言えないでしょうか?
 私たちの為に言葉となって説かれているみ教えをよくよく聞かせて頂いて、人生の色々な出来事に、泣きながらも、うめきながらも、自我を超えた大きな よりどころを得させて頂くことが出来るのではないでしょうか。
 その点、我々の念仏者の先輩方が、立派な見本を示して下さってきたのではないでしょうか。

 それは特別 立派な人間にならないと救われないというようなことではなく、人生の苦悩の真っ只中で、仏さまの私たちに呼びかける声を、み教えを通して聞いてきた ということでありましょう。
 我々の念仏者の先輩方、それは、近所のおばあさんかも知れません。あるいは自分の親かも知れません。

 お念仏をよりどころをされている生きた方に遇うことが大切なことであります。
 親鸞聖人が法然上人に遇われたように。
 
 もうお亡くなりになられましたが、ある仏法の聞法会に、よく 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんに来られていた、元 校長先生をしておられた男性の方がおられました。
 先生をしておられたのだから、理論的な話がお好きなのかな?と思うとそうではなく、「私の母は偉かった。」と亡き母親の信心のすがたを 「母は偉かった。」としみじみ、尊敬しておられたのでした。

 年を取ると、だんだんと親が素朴に仏壇の前で手を合わせて「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏していたすがたが、こよなく尊いものとして よみがえってくるものなのでしょうか?

 考えてみれば、お寺に参って 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんすることだけが、 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんではなく、仏法のご縁はどんなところにも満ち満ちているのでしょう。
 奥能登の農家の主婦であった栃平ふじさんという方は、次のようなことを語られたそうです。

「親さまの智慧と慈悲とをいただいて
 ねるもおきるも なむあみだ
 親さまのふところずまいと知らなんだ
 ああ、ありがたや、しあわせじゃ
 なむあみだぶつ
 法蔵はどこに修行の場所あるか
 みんな私の胸のうち、なむあみだぶつ」
    
 この歌の中に、「法蔵はどこに修行の場所あるか」と、仏さまのお助けの目当ては誰か?という問いかけを自問自答され、 「みんな私の胸のうち」と答えられています。

 栃平ふじさんのこの歌のように、仏さまのお救いのご苦労は、全て「私の胸のうち」と、仏さまのお助け、お救いを自分と離れた遠くに置いて眺めるのではなく、 私のところにまで来て下さっている仏さまの呼び声が南無阿弥陀仏の名号であると聞かせて頂くところに開けて来る世界があるのでしょうね。

 栃平ふじさんの歌を読むと、不思議とこちらの胸までホカホカと温かくなってくるような気がするのですが、如何でしょう。
 阿弥陀さまの智慧と慈悲を拠り所として、「親さま」と共に生きておられる念仏者の素朴な法悦が感じられる歌だと思い、何となく、なつかしい気がします。

 「親さま」とは、阿弥陀さまのことをこころの底から慕い、いつも私をはなれてはいない阿弥陀さまのことを親しみをもって、「親さま」と 呼ばれているのであります。

 「称名念仏しょうみょうねんぶつは、親をよぶたのしみ」なのでしょう。
 楽しい時だけ、呼ぶのではなく、人生のさかまく雲が自分の人生に重たく立ちふさがった時にも、呼ぶのが、「親さま」というものなのでありましょう。

 「晴れてし 曇りてよし 冨士の山 さかまく雲を そのままにして」
 ふかく味わいたい歌であります。
 
 滋賀県に、木下まさ という方が住んでおられました。九十四歳で亡くなられました。
 ひたすら、 仏法聴聞ぶっぽうちょうもんをされた方で、聞法のよろこびを歌にされています。
 ここにご紹介します。
 
「なにがでてきても
 ほっとけほっとけ 
 そのままそのままの
 おことばがな
 とてもやまない
 ありがたいこと
 ありがとうございます
 これはみなおやさまの
 おしごとありがたいな
 ありがとうございます」
  (木下 まさ)
 
 少し方言がまじっていますので、わかりにくいところもございますが、わかり難さを超えて、木下まささんの法悦が そのままダイレクトに伝わって来るような歌だと思います。
 「何が出て来ても、ほっとけほっとけ そのまま そのままのお言葉がな」と まれているところに、強く惹かれます。
 何か辛いことがあった時に、心配事が起こった時に、何だか不思議に思い出す歌です。

 何が起こっても、「ほっとけ、ほっとけ」とそのまま受け止めていくことが出来るのは、み教えを聞く事を通して、仏さまの世界をよりどころにして、 生きておられたからでしょう。

 自己中心的な「私が 私が」という冷たい自我のこころ、欲の心、自分だけの狭いこころにとらわれていては、このような仏さまの大きな自己を超えた世界は 味わえない。
   
 最初にご紹介しました、稲垣瑞劔師の歌。
 「きょうもまた 光輝く み仏の お顔おがみて うれしなつかし」
 (稲垣 瑞劔)
 
 仏さまのこころを、「うれしなつかし」と味わわれています。
 仏さまのおこころを「うれし」と味わい、親さまの心を「なつかし」と まれたのでしょうか。
 
 仏さまは、迷いを迷いとも知らず、自分から苦しみの種まきをして、気付かないでいる私のことを、きっと悲しみをもって見られていることでしょう。
 深い憐みのこころをもって、私のことを見つめておられることでしょう。
 阿弥陀さまを、「親さま」と慕う世界がお念仏の世界であります。

 「こうしたら仏さまがお喜びなさるか、こうしたら仏さまがお悲しみになられるか?」
 そのようなことを思いながら、新年のスタートとしたいと念じております。
 本年も、ご指導よろしくお願い申し上げます。称名

  

 
 


 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                           
 
*弥陀の本願はわれ一人にこそたてら 
れ。罪深きわが身を救う大慈大悲の  
心に高い頭がさがる。自然(じねん) 
のはたらき、他力の不思議である。   
*わが身の罪悪の深さを知り、 
如来のご恩の高さを知るのが 
念仏のとうといはたらき、善悪に   
とらわれ、自他にとらわれていては  
念仏のまことがわからぬ   
あさまし あさまし。 
念仏は仏智不思議のはたらき、   
久遠(くおん)からの呼び声である。  
(「法縁雑録」 瓜生津 隆真師)   
  
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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