2021年11月 第121話

朝事*住職の法話

「全てが仏縁ぶつえんに」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「全てが仏縁ぶつえんに」という題とさせて頂きました。

 仏縁ぶつえんとは、「仏様とつながるご縁」という意味でありましょう。
 私も、日々、仏法に触れる縁を極力持つように努めてはいます。
 しかし、日常生活は、中々理想通りにはいかないですね。
 もう故人となられましたが、寺の近所に有難いお婆さんが住んでおられました。
 そのお婆さんは、仏法聴聞に一生をささげたような人でした。
 今思えば、そのお婆さんから随分と仏縁の感化を頂いていたのだなと思います。
 お婆さんは、「仏法と日常生活が、中々一致していかない。」ということを言われたことがありましたね。
 あのお婆さんでさえ、そのような悩みがおありだったんだ。
 そう思ったりしますが、そういうことも含めて、 仏縁ぶつえんとはどういうこと、どうなることを言うのか?
 そんなことも少し考えてみたいものです。

 ある先徳は、「全てが仏縁だ。苦しい事も仏縁だ。そう思えないのも仏縁だ。」というようなことを言われていました。

 考えてみれば、「なんで、こんなことになるのだ?!」というような出来事に、嫌というほど出会っていかなければならないのが、 一人一人の人生というものではないでしょうか?
 苦しい時は、苦しいだけですよね。

 私たちは、「有難い信者」のことを、敬意を込めて、
妙好人みょうこうにん」と言っていますが、妙好人の人生を聞くと、やはり、人生の中で、色々な目に会われていますね。
 泣くところでは泣いておられるんですよね。
 そういう意味では、特別なところはないわけですよね。
 ただ、そこには、泣きながらも、「仏縁」というものがそこにある。
 「妙好人みょうこうにん」から学ぶことは、「仏法聴聞に大変骨を折っておられる。」というところではないでしょうか?
 しかし、「自分はこれだけ仏法聴聞に苦労してきたのだ!」と威張るような 「妙好人みょうこうにん」は、一人もおられないみたいですね。
仏さまのお陰と、お育てだと感謝されているところが、他力の信心というものなのでしょう。
 そういうところにも注意し、学んでいきたいと思う次第です。

 妙好人の中には、主人が浮気して苦しんだ妙好人の方がおられますし、子供に先立たれた方もおられました。
 家が火事で焼けた妙好人の方もおられました。両親が離婚した妙好人の方もおられました。
 皆さんの中にも、人生の中で、色々な苦しい経験をされた方もおられることでしょう。
 しかし、苦労多い人生を送られた方が、「今が一番 幸せです。」と言われることが多々ありますよね。
 色々な苦労を乗りこえて来たから、今、人生の喜びを、幸せを感じる感性が出来ていくのでしょうか?
人生が順調に運んでいる時には、 「どうして人生とはこんなに苦しいのか?」「この人生を生きていく意味とは何なのだろう?」というような疑問は中々起き難い事でありましょう。
 又、順調な人生を歩みながら、仏法聴聞をされている方もおられることでしょう。
 大変素晴らしいことだと思います。
 苦しみがご縁で仏法聴聞し始められた方は、目先の苦しみが一段落して、少し落ち着くと仏法聴聞をやめられてしまう場合もあるそうですね。
 人それぞれですから、一概には決め付けられませんが!
 仏法聴聞する目的は何なのか?
 その意味と方向性を見失わないように聴聞していきたいものです。
 要は、幸せ・不幸にかかわらず、仏法聴聞をさせて頂くことが一番大事なことだと思う次第です。
 幸せな時も、浮かれず、不幸の時も、落ち込まず、とらわれの少ない道を歩むことを仏教は教えているのでしょうか?
 
 もうお亡くなりになられましたが、20年前くらいでしょうか?
 ある仏法の先生が講義の中で、「仏法の勉強が、人生の逆境の時に支えになる。」と言われたことを覚えています。
 たまたまでしょうが、気のせいか、そう言われた時に、ちらっと私の方を見られたような気がしたのですね。

 仏教では 「阿頼耶識あらやしき」ということが教えられています。
 普通は、無意識と言いますが、私たちが見聞きして、学んだことは全て、「阿頼耶識」の中に、記録されているというのですね。
 だから、たとえ、その時はよく分からない法話でも、すぐ忘れてしまっても、私たちの阿頼耶識の中には、ちゃんと記憶があるというのですね。
 だから、仏法に限らず、できるだけ、良いものを見聞きしておかなければ、悪いものも、全て阿頼耶識に記憶されてしまうわけですからね。
 日々の生活の中で、悪い習慣化は出来るだけやめて、良い習慣化をつけるようにしたいものです。    

 妙好人について、「安楽寺 瓦版 春」(発行 安楽寺門徒会 飯塚市伊岐須 平成13年3月12日)に次のような記事がございます。
 
 『「妙好人(みょうこうにん)と、いわれる篤信(とくしん)の おばあさん の話」
 「おばあちゃん、お念仏を称(とな)えると、どういうご利益(りやく)が与えられますか?」
 それに対して
 「今までは、どうも人の目が、気になって仕方が、なかったが、最近では、仏さまの目だけが心にかかって、人の目が、気にならない、ようになりました。
 それが利益(りやく)で、あります。」
 思わず、私は「う-ん」と唸(うな)りました。全(まった)くその通り、体(てい)たらくの、私自身が、言い当てられました。
 申し訳ございませんでした。
 私たちが、気懸(きがかり)なのは いつも「人の目」なのでしょうね。
 人の目が気になるから、「それでは、人の目を気にせずに、しましょう」と思い、力(りき)んでも、力めば力むほど、人の目は、気になります。
 力(りき)む方向を「人の目」から『仏さまの目』に、変えねば、なりません。
 人の目を気にせずにおれるのは、まず、私の心が、仏さまの心に触れる。
 仏さまの目が、気になりだすことによって、人の目が、気になることがない。
 まず、仏さまを、念頭(ねんとう)に置いて生活する。と言うことです。
 実に深い、いただきかた、ですね。
 例えば、次のような、ことは、いかがでしょう。
 私たちは時に、「まじめに、命がけでやります」と言ったりします。その「真面目に命がけ」という言葉は、ひょっとして「人の目」を気にして、出た言葉か、 あるいは、自(みずか)らを律(りっ)して、本心から出た言葉であるか、よほど注意深く、自身の心を、点検してみないと、分からない言葉で、あるのかもしれません。
 問題は、いつも、仏に向き合っているか、仏に触(ふ)れているか、お念仏を、いただく身であると、弁(わきま)えて、いるか。・・・ ということに、尽(つ)きて、きます。
 (触れる→出会う)
 法然上人(ほうねんしょうにん)曰(いわ)く、「生活は人目を飾ることなく、誠を表すなり」、と。
 多少、窮屈(きゅうくつ)にも思えるのですが、「人目を飾ることなく」と(仰有る)おっしゃることで、自分自身が「人目」を気にしない、という解放感を、 味わえることでもあるのですね。
 そして、いつも、仏さまのことが、心にあれば、どんなに頼もしい、ことでしょう。 合掌    
 二〇〇一年 正月
  伊岐須安楽寺』
 

 妙好人というものは、人目より、仏さまの目を気にしていく者である、ということが、味わい深く教えられているような気がします。
 『人の目を気にせずにおれるのは、まず、私の心が、仏さまの心に触れる。
 仏さまの目が、気になりだすことによって、人の目が、気になることがない。
 まず、仏さまを、念頭(ねんとう)に置いて生活する。と言うことです。』
 と言われています。
 仏法聴聞が「仏さまの心に触れる」ということではないでしょうか?
 理屈を覚えることも、とても大切なことだと思いますし、必要なことだと思いますが、それを通して、「仏さまの心に触れる」ことが大切だと感じる次第です。
 
 しかしながら、日々痛感しますことは、仏法を聴聞しながら、日々の自己の思い、行いを考えて見ますと、 教え通りに中々いかない自己の現実にぶち当たらずにはおれないということですね。

 ある先生は、「過去を生かす宗教は親鸞聖人の教えだけです。過去が生きなくては現在も未来も生きません。」と言われました。
 困った問題をもってお寺の本堂に入った時に、説教の内容は全て理解できないし、覚えることも出来ないけれど、ご法話の中の一言が、 「ああそうだったなあ!」と気づく縁となったと言われた方がおられました。
 
 ある先徳は「お粗末な自分の煩悩に振り回される人生の苦悩があったって心配するな、人生の苦悩があるから、 こうして、ここまで、聞きに来れるのじゃないか。自分のお粗末な煩悩の苦悩のお陰じゃないか。」と教えて下さいました。
 何か胸がスッキリして、心の中に、仏さまの心が流れ触れたような、何か煩悩の煩いの気持ちが楽になるような言葉ではないでしょうか?

 そんな気持ちがずっと続くことは難しく、直ぐに失うのですが、よき人の仰せを通して、教えが聞こえたとき、浄土の光が届いているような気がします。
 「困ったらいつもそこへ帰っていく。」教えを通して、私のフラフラしている心ではなくて、それを超えた大きな拠り所を頂くことができるのでしょう。

 親鸞聖人のみ教えは、特別に余所行きの恰好している私に用事はなく、普段着のままの私に用事があるのですよね。
 その裏には、仏さまの限りない智慧と慈悲が働いていて下さるのでしょう。
 お粗末な自分の煩悩ゆえの人生の苦悩、お粗末な自分の人生の苦悩のまま、この苦悩あればこそ、み教えに遇うご縁も頂くこともできるのですね。
 自分の苦悩の中に、お念仏のみ教えを通して、浄土からの働きを、今、頂くことができるのですね。

 ところが、それをまた忘れてしまう。
 しかし、「ここへ帰ればいい!」そういう拠り所をお念仏を通して頂かして頂くのですね。
 これが 「廻向えこう」ではないでしょうか。
 これが 「法蔵菩薩ほうぞうぼさつのご苦労」ということではないでしょうか。
 「 弥陀みだ五劫思惟ごこうしゆい」が今ここに来て、一人がためと、今の私に働いていて下さるのですね。
 
 「ここへ帰ればいいんです。」そういう自分の心の故郷を持っている、ということですね。
 これに気が付いたということは、講師のご法話を通して、み教えを通して、お寺の本堂でのご法話をご縁として、 法蔵菩薩ほうぞうぼさつが働いて下さった。
 それを 信心しんじんというのでしょう。 しんとは気が付く、深い目覚めということですよね。
 常に仏様の働きを仰ぎながら、 法蔵菩薩ほうぞうぼさつのご苦労を日々の自分の煩悩故の苦悩の中で味わわせて頂く。
 私のお粗末な煩悩ゆえの人生の苦悩。いつもグズグズと思っています。そこへみ教えが働いているのですね。
 「この苦悩の身というところに 法蔵菩薩ほうぞうぼさつのご苦労がかかっているのだなあ。」と味わわせて頂く次第です。
 そういうことが阿弥陀様の救いの働き。いつもそこへ帰るのですね。
 煩悩の現場が、阿弥陀さまに遇う場なのですね。

 「心に響くことば」法語カレンダー2022(令和4年)山本攝叡 (本願寺出版社)に次のような話が掲載されています。
 来年度の本願寺カレンダーの言葉についてのご法話の本ですね。
 少し紹介させて頂きます。共に味わわせて頂きましょう。
 
 『  罪障功徳ざいしょうくどくたいとなる
 こほりとみづのごとくにて
 こほりおほきにみづおほし
 さはりおほきに  とくおほし
 
 【『高僧和讃こうそうわさん曇鸞讃どんらんさん 】
 とても難しい和讃わさんですから、ゆっくり、言葉を補いながら味わってみましょう。
 「罪障ざいしょう」というのは、文字通り、この私の つみさわりです。
 功徳くどくとあるのは、如来さまのはたらき、その 功徳くどくをいいます。
 この 功徳くどくは、浄土に往生してからの 功徳くどくではないことに、気をつけなければなりません。
 今、この私の上ではたらいている 功徳くどくをいいます。
 「体」というのは、「広辞苑」では「物事がはたらく際、もとになる存在や組織」と定義されています。
 そうするとこの一首の意味は、
 「この私の つみさわりこそ、 如来にょらいさまのはたらきのよりどころであり、大本なのです。
 ちょうどそれは氷と水のような関係で、氷が大きいとそれが溶けてできる水も、量が多くなります。
 私の さわりが大きければ大きいほど、如来さまの功徳も、それをつつみこむように、より大きくはたらいてくださるのです」
 というほどの意味となります。』
 【「心に響くことば」法語カレンダー2022(令和4年)山本攝叡 (本願寺出版社)より抜粋】

 この中に、
 『功徳くどくとあるのは、如来さまのはたらき、その 功徳くどくをいいます。
 この 功徳くどくは、浄土に往生してからの 功徳くどくではないことに、気をつけなければなりません。
 今、この私の上ではたらいている 功徳くどくをいいます。』
 
 とございます。
 
 『今、この私の上ではたらいている 功徳くどく』と味わうことが大事なのですね。

 『仏法を聞いても聞いても中々良くならない私の根性、このような私では救われないのではないだろうか?』
 そうではなく、『このような私が救われるとは、何という尊いお 慈悲じひであることか!』
 今までは、自分の 煩悩ぼんのうを苦にしてばかりしていたけれど、『この 煩悩ぼんのうが、仏さまのお すくいを味わう たねであった。』
 と味わう道があるのですね。
 絶対平等の慈悲と言います、しかし、それに甘えるのではありません。
 絶対の智恵と慈悲に照らされながら、感謝しながら、平等の慈悲に照らされた好き嫌いの強い自己の姿を慚愧(ざんぎ)しながらの日常生活であります。
 私自身も、煩悩が絶えない。生き方が分からない?迷っている?
 『み仏の鏡に映るわが姿』
 どんな時も、どんな所にも仏様の智恵と慈悲は働いておられる。
 私の煩悩の中に仏さまは働かれて、念仏の教えを喜ぶように、浄土を目ざすように働かれているのですね。
 阿弥陀さまの心を『帰命尽十方無碍光如来』と言います。
 『尽十方』です。いつでも、どこでも、今、この私に働いておられる。
 仏さまのおられないところはない。
 木箱の中にぎゅうぎゅう詰めに入っているカステラのようなもの?
 『尽十方』という言葉からも、「ぎゅうぎゅう詰め」という言い方が、心にピンと響く感じがします。
 『尽十方』つまり、隙間がないという感じがするのですね。
 「もれなく、落ちなく。」働かれている。仏様のことを忘れ通しの私に向かって働かれている。
 「見てござる。護ってござる。待ってござる。」
 共々に仏縁を大切にさせて頂きたいものだと思う次第です。  称名

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                           
 
すべてわれわれは、 
無始より今日まで、  
煩悩にけがれて 
浄らかな心なく、   
うそいつわりで 
まことの心はないが、 
如来様は一切の苦しみ   
悩む衆生をあわれんで、  
広大な智徳をおさめた   
浄らかな信を、 
迷えるわれらに施して下された。   
これを他力より与えられた  
まことの信心と   
名づける。  
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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