2021年10月 第120話

朝事*住職の法話

仏智ぶっちの世界」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「仏智ぶっちの世界」という題とさせて頂きました。

 仏智ぶっちとは、文字通り、「仏さまの智慧の世界」のことでありましょう。
 親鸞聖人は沢山の和讃をお作りです。
 和讃の中にも
仏智ぶっち
 という言葉が使われている和讃がございます。
 
 「不思議ふしぎ仏智ぶっちを信ずるを
 報土ほうどの因としたまへり
 信心しんじん正因しょういんうることは
 かたきがなかになおかたし」

久遠劫くおんごうよりこの世まで
 あわれみましますしるしには
 仏智不思議ぶっちふしぎにつけしめて
 善悪浄穢ぜんあくじょうえもなかりけり」

 「願力無窮がんりきむぐうにましませば
 罪業深重ざいごうじんじゅうも重からず
 仏智無辺ぶっちむへんにましませば
 散乱放逸さんらんほういつも捨てられず」
 
 この三種の和讃にも、
 「仏智ぶっち」という言葉が使われています。

 
 ☆「不思議ふしぎ仏智ぶっちを信ずるを
 報土ほうどの因としたまへり
 信心しんじん正因しょういんうることは
 かたきがなかになおかたし」 
 *(現代語訳)
 「人間の分別の智恵を超えた如来の仏智(無分別智)の本願そのままの信心を、仏の境界である 報土ほうど(真実の浄土)に生まれる因種(たね)と定められている。
 報土ほうど正因しょういんである信心は、如来の本願力によって恵まれた信心で、人間の分別の心では得ることは不可能なものである。」
 
 
 ☆「久遠劫くおんごうよりこの世まで
 あわれみましますしるしには
 仏智不思議ぶっちふしぎにつけしめて
 善悪浄穢ぜんあくじょうえもなかりけり」
 
 *(現代語訳)
 「数えきれない 流転るてんの中に、今日まで迷い続けて来た私を、ずっと憐れんでいて下さったしるしには、
 仏智不思議ぶっちふしぎあおがしめて、 善悪浄穢ぜんあくじょうえをへだてずに、万人を平等に救いたまう絶対平等の本願力を疑いなく受け入れる 信心しんじんの世界を与えて下さいました。」
 
 ☆「願力無窮がんりきむぐうにましませば
 罪業深重ざいごうじんじゅうも重からず
 仏智無辺ぶっちむへんにましませば
 散乱放逸さんらんほういつも捨てられず」

 *(現代語訳)
 「願力がんりきは無限であるから、 つみが重い事も、ものともせず、
 仏智ぶっちは、ほとりもないほど広いお心なので、 散乱放逸さんらんほういつの横着者も見捨てられない。」
 

 沢庵禅師たくあんぜんじの歌に次のような歌がございます。
 
 「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心ゆるすな」という歌です。
 これは、沢庵禅師の「不動智神妙禄」にある句です。
 悟られた方の歌を私如き凡夫が、どうこう言うべきではないとは思いますが。
 「心は変わり通しである 変わり通しの心で 変わり通しの心を 何とか出来るということがあるだろうか」
 というような意味でしょうか?
 
 
 信心とは仏さまの無分別の智恵「仏智」が、そのまま信心になっていて下さるので、生死を支え、愛憎の世界を超えていく力を持つのであります。
 自分の心であるならば、朝はこうだと思っていても、昼になれば、違った思いになり、夜になれば、又別の思いに変わっていくように、 変わり通し、流れ通しの心が、私の分別の心であり、こんな心では生死を乗り越え、愛憎を超えていくことは出来ません。

 親鸞聖人の和讃には次のような和讃もございます。
 
 「超日月光この身には 念仏三昧おしえしむ
 十方の如来は衆生を 一子のごとく憐念す」

 「子の母をおもうがごとくにて 衆生仏を憶すれば
 現前当来とおからず 如来を拝見うたがわず」                       

 「平等心をうるときを 一子地となづけたり
 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし」
 
 「一子のごとく憐念す」の「一子」「一子地」とは「ひとり子」という意味で、如来さまは、私のことを「かけがえのない大切な存在」 と念じていて下さっているのです。
 「平等心」とは 「怨親平等おんしんびょうどう」の心ということです。
 「おん」は 「うらむ」「憎む」という意味です。
 「しん」は「親愛」という意味です。
 「愛するもの」です。
 私たちは「怨むもの」「憎むもの」と「親愛なるもの」「愛するもの」
 「好きなもの」と「嫌いなもの」をハッキリ分けています。
 これを「分別の心」「分別智」と言います。
 分かりやすく言えば「自分中心の心」です。
 「自分の都合」を中心にして、計っていく心です。
 他人のことも、自分の都合で計っています。
 
 親鸞聖人の和讃に次のような言葉があります。

 「愛憎違順あいぞういじゅんすることは 高峯岳山こうぶがくざんにことならず」

 「違」とは「自分の思いに違う逆境」という意味です。
 自分の思いに違うことに対して、憎しみ怒りを起こしていきます。
 「順」とは「自分の思いにかなった順境」です。
 自分の思いにかなうことには愛欲を起こしていきます。
 私と言う人間はどこまでも、「自分の思いにかなうもの」を求めていくものです。
 それに違うものに対してはどこまでも憎んでいくものです。

 日常生活の中で、味わってみますと、全くその通りで、それ以外の何物でもあり得ない自分に気づかされてまいります。
 そこで、やはり教えを聞かせて頂かなければならないと思う事です。
 
 山陰の 妙好人みょうこうにんに、浅原才市さんがおられます。
 若い頃に船大工の仲間に入り、大工さんをされていました。
 晩年は、下駄作りの仕事をされていました。
 教えについての味わいの歌を作るのが上手でした。
 自分が味わった教えの味わいを,鉋屑(かんなくず)に書いていきました。
 それを雑記帳に書き写し、70冊の雑記帳になったそうで、歌った歌は8千9千とも言われているそうです。
 浅原才市さんは、聞いた教えを、聞きっ放しにしておかないで、聞いた教えを自分自身に味わい、自分自身のものに消化しようとされていたのでしょうか?

 私はある熱心に聞法されている同行に、 「りなさいよ。」という言葉をかけて頂いたことがあり、よく覚えております。
 その人は、男性でしたが、法座では、よく講師に質問しておられました。
 その方は、どこか迫力のある人だったので、質問された講師が猛獣に吠えられたみたいに震えていたように、 私には見えたこともありましたね。
 
 そうかと言って、迫力があるばかりではなく、一面とても気さくな、温かい感じの方で、講師とも色々と談笑して親しむ面もお持ちの方でした。
 要するに、御法義に熱心なあまり、自分が納得いかないことには黙っておれなかったのでしょう。
 教えに対しては、とても熱心な真面目な方でしたね。
 私は、その人とは、ほとんど会話したことはありませんでした。
 ところが、ある時、その方が、珍しく私に近づいて来て、一言私に 「りなさいよ。」と言って下さったのでした。
 後にも先にも、その方と会話したのはそれだけでしたね。
 それだから忘れられません。

 「る」ということは、 「よくこなせ」「よくよく消化する」という意味でしょう。
 「聞いた事をよくよく味わい自分自身のものに消化しなさい。」それを 「りなさいよ。」と言って下さったのでしょう。

 浅原才市さんも、御法義の歌を書きながら、 っておられたのではないでしょうか?
 
 浅原才市さんの歌に次のような歌がございます。
 
 「うちの家には、鬼が二匹おる。
 わし鬼に、カカア鬼に。
 あさましや、あさましや」
 
 夫婦喧嘩でもした後に読まれた歌なのでしょうか?
 私たちの喧嘩は、夫婦喧嘩に限らず、大体において
 「私は正しい、私は善くて、相手が間違っている。相手が悪い。」
 というものではないでしょうか。
 しかし、この歌は、少し違うところがあるようです。
 「鬼が二匹おる。ワシ鬼に、カカア鬼。あさましや、あさましや」
 という言葉には「ワシ鬼」という言葉があります。
 「カカア鬼」だけ言ってはいません!
 「ワシ鬼」とも言っている点が、我われとは違うところだと思います。
 「ワシ鬼」と言えば、浅原才市さんは、画家に自分の肖像画を描いて貰いました。
 出来上がった絵をみて、才市さんは、「これはワシではない。」と言われたそうです。
 たぶん画家は怒ったでしょうね。
 自分が描いた絵が否定されたわけですからね。

 「とてもよく似ている絵ではないか。」と言われた時、才市さんは「ワシには角がはえている。」と言われ、 「角が生えているのがワシの本当の姿だから、角を描いてくれ。」と言われたそうです。
 ちょっと聞くと、わけの分からない、何か変人の話のように聞こえます。
 しかし、この逸話は、教えを聞いて、厳しく自分の心の姿を見つめておられる、仏さまの眼を頂いた信者の言葉だと思います。
 浅原才市さんは、ただ自分のことを厳しく見るだけではなく、仏様の慈悲を仰ぐ心、仏様の呼び声に素直に「ハイ」と信順するところもあった方でした。
 そして、ちょっとした夫婦喧嘩も、全て教えを味わうご縁としていかれた方ではなかったのでしょうか?
 「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」と言います。
 他人から見たら本当に、何でそんな小さなことで大きな声を出さないといけないのか?
 そんなふうに、疑問に思うことでも、当事者同士は、真剣そのもので、まるで一大事のように言い合うのですから、 「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」というのも納得できることであります。
 夫婦に限らず、仕事に関係したことでも、色々なトラブルが起きます。
 そこで、「どうして、こういうことになったのだろうか?」と過去のことを自分で色々と考えてみたりします。
 少々考えても、もつれた糸のように中々解決の糸口はみつけられませんが。
 しかし、原因を考えてみることは、苦悩の解決のためには、とても大事なことですよね。
 よくよく考えてみれば、日々私たちは、色々な種まきをしながら生きているのですよね。
 そして結果が起こった時になって、はじめて、 「どうしてこういうことにならないといけないのか?!」と慌てるのでしょうね。
 私など、常にそうです。皆さんは如何ですか?
 「日々、自分はどのような種まきをしているのか?」を絶えず自分自身に問いかけながら、出来る限り自分の迷い心を自覚するように心して、 自他共に幸せになることを願って生きていきたいものです。

 浅原才市さんは、次のような歌を作っておられます。
 
 「くをぬいてくださるじひがなむあみだぶつ
  くをぬかずともくださるじひがなむあみだぶつ」
 (才市さんの原文)
 (苦を抜いて下さる慈悲が 南無阿弥陀仏 苦を抜かずとも下さる慈悲が南無阿弥陀仏)
 
 日々の生活の中で出会う色々な出来事をご縁に仏法聴聞しているのが浅原才市さんだと思います。
 浅原才市さんのこの歌は、それによって苦が無くなるのではなく、苦が超えられていく道が与えられる。
 そういうことを教えて下さっている歌ではないでしょうか?
 浅原才市さんは、学問、知識はなかったですが、信心のレベルが、とても高いことに驚かされます。
 これが仏智を恵まれた人の言葉というものなのでしょうか?
 逃げられない自分の人生苦の中で、ひたむきに仏法聴聞していくことの大切さを、才市さんの聞法の姿勢から教えられるような気がします。
 それしか出来ない私であります。
 「苦を抜かずとも下さる慈悲」が「私を一時も離れることのない阿弥陀如来のという親様」であると知らされたら、苦を抱えながら、深いため息をつきながらも、 大きな広い仏様の懐「ふところ」に抱かれた心地で、苦の中で、苦のあるままに、うめきながらも、自分の思いを超えた仏智の道が開けていく、ということでしょうか。
 「浄土教は、情をもって趣入する。」という言葉を聞いたことがあります。
 ある寺の御門徒は、病気で、苦しい中、そんな青色吐息の辛い病気の中、何年も、仏法聴聞してこられました。
 そして、亡くなられる前に、ご主人に、「あなたも仏法聴聞して下さい。」と言い残されたそうです。
 病気で辛い中でも、仏様の慈悲「情」に抱かれ、それだけで、生かされていかれたのでしょうね。
 私たちのことを仏教では「衆生」とか「有情」と言うそうです。
 「有情」とは「情ある者」という意味で、「心ある者」ということですね。
 「心ある者」だから、仏様の心は、宇宙大ではありますが、同じ心「情」だから、仏様の心(情)と凡夫の心(情)は、 相通ずる、通い合うことが出来るというのですね。   

 どんな時でも、仏法聴聞を大切にしたいものでございます。

 ダンマパダに、次のような言葉があります。
 
 「教えを説いて与えることは、すべての贈与にまさり、教えの妙味は、すべての味にまさり、教えを受ける楽しみは、すべての楽しみにまさる。
  妄執をほろぼすことは、すべての苦しみに打ち勝つ。」
 
 確かに、教えを聞く喜びは、他の喜びとも違うように感じます。
 いつも喜んでるばかりではありません。
 しかし、仏法聴聞する味わいは、どこか不思議な喜びだと思います。
 皆さんはどう感じられますか?
 「求めても もとむべきは 法の縁 慕うても慕うべきは善き同行なり。」(法如上人)  

 竹部勝之進という方がおられました。
 竹部勝之進さんは、明治三十八年に福井県にお生まれになって、行商をしながら生計を立てて、お念仏の教えを学び、独自の詩をお作りになった方です。
 昭和六十年に八十才でお亡くなりになっています。
 「はだか」「まるはだか」等の詩集を出しておられます。

  「この世に生れてきたのは
  仏法を聞きに生れて来たのです
  仏法を聞いてはじめてわが身に
  満足できる
  ああ、ありがたい、ありがたい」
 
 「タスカッテミレバ
 タスカルコトモイラナカッタ」
 
 「木は木でよかった
  石は石でよかった
  わたしは
  わたしでよかった
  ありがたいこと」
 
 少し、味わってみましょう。 
「わたしは わたしでよかった ありがたいこと」
「わたしは わたしで」そのこと事体が、有ることが難い、「有り難い」こと。
「わたしは わたしでよかった」とあります。
 これを、「一子」「一子地」「ひとり子」というのではないでしょうか。
 如来さまは、私のことを「かけがえのない大切な存在」と念じていて下さっているのです。
 そして、自分にとって都合の悪い人、嫌な人も、如来様からは、「一子」「一子地」「ひとり子」「かけがえのない大切な存在」です。
 人はみな、どんな人も、如来さまのたった一人の大切なひとり子なのです。
 そんな如来の子に対して、「あんな奴なんか!」という思いを持たずにおれない私の姿を、如来さまはどう思っておられるでしょう?
 共に、仏様より、「南無阿弥陀仏」と呼びかけられている身であることを力として、仏様と共なる仏智の世界を歩ませて頂きましょう。
 「淋しさと 苦悩の底に 法 光る」
 「生も死も 仏と共に 旅の空」
     (先徳の言葉)
                               称名

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                                 
身口の二業を意業にゆづりて、 
言わんと思うことは   
心におさめて言わず、 
なさんと思うことも心に   
おさめてなさず、 
世路と後生を争がわず、 
妻子眷属同胞をば   
善悪につけ知識とし、  
我が身のかたむくをば   
往生の近づく便りなりと心得、 
言わんとすれば南無阿弥陀仏   
なさんとすれば南無阿弥陀仏   
とよろこび、   
不請の限りは  
旅にあれたる宿を  
かりてあかしかねたる  
ここちして、  
念仏したもうべし。  
【蓮如上人法語】  
 


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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