2021年9月 第119話

朝事*住職の法話

絶対平等ぜったいびょうどうの慈悲」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「絶対平等の慈悲」という題とさせて頂きました。

 武田一真師(龍仙寺)が「ちょっといい朝 やわらか法話2021.8.2放映」(ちゅピチャンネル)で、次のようにご法話されていました。(聞書き 文責住職)
 
 「いのちを包むことば」

 『今日は南無阿弥陀仏という仏さまの御名のおいわれについてお話をさせていただきます。
 仏さまの智慧と慈悲のそのすべては南無阿弥陀仏のたった一声の言葉にかくるところなくおさまって、この私に届ききってくださってある。
 そのように親鸞さまは お伝えくださいました。
 我われはともすると言葉ぐらいで何が変わるのかなあ・・・と思いがちでありますけれど、ときにはですね 我々は たった一言の言葉によって 生きる意味をひらかれていく。
 また何気なく口にしております たった一言の言葉に底の底から支えぬかれてある。
 ということもございます。
 たとえばですね、「おかあさん」というような言葉、まさに ものごころがついたときには、口にしておった言葉でありますけれども、 もしこの世の中にお母さんという言葉が存在しなかったら、一体、今どんな世界がわたしの目の前にひろがっておるのか。 
 ちょっと想像ができません。

 何気なく 当たり前に口にしておる その一声にわたしの世界が照らし続けられてある。
 そういう言葉もあるということであります。
 南無阿弥陀仏の「南無」というのは、「まかせておくれよ」という仏さまのおこころ。
 「阿弥陀」とは「アミータ」というインドの言葉ですが、「ア」というのは否定詞、「ミータ」というのはメーターと語源がおなじで、 「量る」(はかる)という意味だそうです。
 ですから「ア・ミーター」というのは、「量りがない」「限りがない」という意味になります。
 つまり 阿弥陀さまのお救いには限りがない。
 こうこうこういうものならば救いますよ、という条件がどこにもない。
 量りなく 限りなく 全てのものを包みとっていく それが南無阿弥陀仏という名のいわれ
 ということになります。
 大学の入試試験などではですね、合格ラインというのがありますね。
 この点数以上だったら合格するでしょう、というラインですね。
 合格ラインは不合格ラインにもなりますので、この点数に及ばなかったら不合格になるかもしれない。
 そのようなラインがどこにもひかれていない。
 
 量りなく 限りなく 一人も漏らさぬお慈悲をお慈悲の手をひろげて まかせてくれよと喚(よ)びかけてくださってある。
 それが南無阿弥陀仏という名のいわれであるということですね。
 日本にはですね、「おふくろさん」というあたたかい言葉がございます。
 これは ふくろ それも 風呂敷が語源であると聞いたことがございます。
 なぜ おかあさんが風呂敷なのか。
 風呂敷の機能性というのは最近見直されつつあるんですけれども、その良さというのは箱と比べるとよくわかります。
 たとえばですね、ここに御文章箱がございます。かなり大きな箱で大変立派な彩色も施されて立派な箱です。
 けれども どんなに立派な箱でも箱には形がございます。形がきまっております。
 ですから その箱の形に合ったものしか収めることができません。
 この御文章箱の中には御文章が入っておりますが、ぴったりと形が合っておるから今 収まっておるわけです。
 仮にですね この御文章箱の中にですね、カープの大瀬良選手のサインボールとか手に入れましてね、大事だからこの中に収めておこう!としてもですね。
 きっと フタがガコガコ浮いてしまって収めることができません。
 それは形が合っていないからということですね。
 箱はその箱の形に合ったものしか収めることはできません。
 
 けれども一方で風呂敷というのはですね、どんなものでも形をえらばず、包んでいくことができます。
 固いものは固いまま 柔らかいものは柔らかいまま 丸いものは丸いまま 四角いものは四角いまま
 そのものの形にそって包んでいくことができる
 それは 風呂敷には こうでないとダメという形(型)がないから、もともと ただの布ですから、こうでないとダメという形が一つもなく、 自らは形を持たず、どんなものでも そのものの姿にそって包んでいくことができる。
 それが風呂敷の良さということですね。
 箱にものを収めるということと、ものを風呂敷で包むというのでは、実は発想がまるっきり反対である。
 ということになります。
 どちらに合わせておるのかということですね。
 そのような自らは形をもたず、どんなものでも そのものの形にそって包んでいく。
 そんな風呂敷のはたらきが「ああ お母さんってこんな感じだな」ということで、「おふくろ」という言葉が生まれたそうです。
 大変温かい言葉でありますね。
 確かに考えてみますと、 我々 大丈夫そうな 賢そうな顔して、暮らしてはおりますけれども、本当に何にもわからんまんま投げ出されたように、 この境涯に生を受けてきたことでありましょう。 
 
 善悪の見極めどころか、自他の区別、自分が自分であることすらわからない。
 自分のいのちひとつ まったく責任がもてない。
 そんな状態で我々は生まれてきたはずであります。
 こうじゃないと うちの子じゃない!
 そんな形がですね、条件がひとつでもお母さんの側にあったら、とても いま私はこうしてお話しておることはなかったであろうと思います。
 何にもわからないから、教えても分かるはずもないから、赤ちゃんであるわけですね。
 だからこそお母さんはですね、泣いてるなら泣いてるまま うんちをしたら うんちしたまま おしっこしたら おしっこしたまま
 笑っておるなら 笑っておるまま そのいのちのすがたにそって ことごとく包み込んでまいります。
 むしろ「ごめんね 遅くなったね 気もち悪かったね」謝りながら おむつを替え「えらいね ありがとうね」「えらいね いっぱい飲んでくれるね」
 お礼を言いながら おっぱいをあげる おっぱいをあげるのも おむつを替えるのも全て お母さんのはたらきですけれども
 お礼を言われる 感謝されるのはいつも赤ちゃんの方。
 そんなたった一つの条件もつけず そのいのちのすがたに沿って ことごとく抱きとめていく
 そんなお母さんがですね 風呂敷と重なりまして 「おふくろさん」という言葉が生まれたそうであります。
 あたたかい言葉でございます。

 ただですね、以前この本堂で 日曜学校で このお話を 紹介させてもらっておりました。
 すると まー君という男の子でありましたが、「先生 ふろしきにも大きさはあるよ」と、いわゆるツッコミを入れてくるんですね。
 「ああ そうじゃねえ 風呂敷にも大きさはあるねえ ほいじゃけえ(それだから)あんまり大きいものは包めんねえ(包めないねえ)」
 その子の言う通りでありましてね。
 最後に一つだけ「大きさ」という形が風呂敷にも残ってしまいます。
 その大きさをこえるものは 包めないことでございました。
 親も同じでしてね。
 いつの世も あなたの全てを抱きとってやりたい、全てを責任持ってやりたい、そう願わずにおれないわけですが、 いつの世も、それは叶わないことでございましょう。
 人間の親は 親も人間であって、身にも心にも、そして時間にも限りがございます。
 すべてを抱ききってやること、包み切ってやること、たとえ親子でも叶わないことでございました。
 けれども その子の言葉を聞かしていただいたときに、ああそうだったな、考えてみれば、その最後一つ残った大きさという形すらない世界。
 
 たとえてみれば はじっこが見えないくらい、広がった風呂敷のようなもので、どんな意味においても、この私が この身が漏れようのないお慈悲のすがた。
 それこそが南無阿弥陀仏 六字の御名が 今ここの私に告げてくださっておる。仏さまのお心であったんだなあと、教えられることでございました。
 みなさま ともどもに ご一緒に お念仏いただきましょう。
 南無阿弥陀仏 ここに今 いのちを包むことばが、届いてくださっております。
 たとえ どんな この身であろうとも、漏れようのない お慈悲の手をひろげて、どうか お願いだから まかせておくれと、 如来さまが喚(よ)びつづけてくださっております。
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』
 (武田一真師(龍仙寺)ご法話「ちょっといい朝 やわらか法話2021.8.2」聞書き 文責住職)
 
 仏さまのお心を風呂敷というものを題材にされながら、わかりやすくお説き下さっていると、大変、感銘を受けましたので、ご紹介させて頂きました。
 武田一真師のご法話を聞きながら、阿弥陀さまのお慈悲にお任せする安らぎを味わわせて頂くことでございました。有難うございました。
 「おふくろ」の語源が「風呂敷」からきているという説も、確かに頷けるところがございますね。
 「風呂敷」に対して「箱」というものは、形があるから、形に合わないものは受け入れることが出来ないのですねえ。
 人間も、自分を中心にして、善悪を主張して、相手を区別、差別していくしか生きようのないものですよね。
 だから凡夫というのですよね。
 生と死も凡夫は分別して、生に偏ったり、死に偏ったりして、仏さまのような生死一如、怨親平等という世界から、はるかにかけ離れたものですよね。
 ある先徳が、『「相手を直そう。」という心は平和ではないのではないですか?如何ですか?』
 と問いかけておられます。
 現実の生活の中では、どうしても、「あの人 もっとこうなってくれたらなあ。」という思いが湧いてきますよねえ。
 世界を見渡しても、「あの国はもっとこうなってくれたら、世界が平和になるのになあ。」という思いは自然と湧いてきますよね。
 しかし、私にはその先徳の問いかけておられるの真意がよく分かっていないのかも知れませんが、、、。
 おそらく、その先生は、「他人を変えようとする心(姿勢・態度)そのものが平和ではない!」
 そんなことを言いたかったのではないでしょうか?

 確かにそうですね。
 他人の欠点を見て、そこを直してほしい、そんな心には平和はないですよね。
 ある舅(しゅうと)は嫁さんに「自分の欠点すら直せないのに、他人の欠点が直せるものか!」と言われたそうです。
 これも何かあまりにも図星過ぎて、返す言葉もございません。
 人間社会では、同じ相手に注意するにしても、
 「少し言って、一つ注意して懲らしめてやろう、いじめてやろう。いびってやろう。」
というようなものが混ざって来て、世間を、物事を複雑怪奇にしていくのではないでしょうか?
 同じ注意するのでも、わが子に注意する時と、他人に注意する時は、少し態度や心持が、違ってきていることは否めないでしょう。
 「箱」のような形に固執した人間より、「風呂敷」のようなお母さん「おふくろ」のような温かみのある情の深い人間でありたいものです。
 もちろん他人の忠告や注意は聞いていかなければならないでしょう!
 独善的な生き方では、何の進歩成長もないし、独善者には、誰もついては来ないでしょう。
 聞く耳を持たないような傲慢な態度、姿勢は自惚れ、高上りでしょう。
 注意や忠告は聞くべきですが、問題は、ものの言い方ですよね!
 そこに、その人の人柄、性格というものが自ずと現われるものですね。
 もちろん、悪口や文句言われるのも結構だと思いますけれど、他のことも云ってほしいですね。
 バランスが必要だと感じますね。一方だけが多い人がいますけれど、バランスがない人と感じますね。
 また、人間は自分が邪見な心だと、正しい意見が間違っているように聞こえるところがあるそうですね。
 また、いくら親切で忠告してくれても、他人に言われると、「うるさい!」としか聞こえない。
 そういう性質が凡夫にはあるそうですね。
 私のことです。恥かしい事です。
 仏さまの心は、風呂敷のように、相手がどんな形でいようとも、そのままを包み込んでいくのですね。
 しかし、風呂敷にも大きさという限界がありますよね。
 日曜学校の子供が指摘したように、風呂敷でも、あんまり大きなものは包み込むことは出来ないですよね。
 子供の目は澄んでいて、大人が気づかないところが見えて、それを指摘できる視点をもっているなあと感心させられますね。
 しかし、その子供の問いかけ ツッコミをご縁に、大きさという最後の限界をも超えた広がりのある世界が南無阿弥陀仏という阿弥陀様の喚(よ)びかけの 世界だったということが知らされ、質問がかえって、より大きな大事な世界に気づかせてくれることになったわけですね。
 武田一真師は最後に次のようにご法話をまとめて下さっておられますね。

 『けれども その子の言葉を聞かしていただいたときに、ああそうだったな、考えてみれば、その最後一つ残った大きさという形すらない世界。
 たとえてみれば はじっこが見えないくらい、広がった風呂敷のようなもので、どんな意味においても、この私が この身が漏れようのないお慈悲のすがた。
 それこそが南無阿弥陀仏 六字の御名が 今ここの私に告げてくださっておる。仏さまのお心であったんだなあと、教えられることでございました。
 みなさま ともどもに ご一緒に お念仏いただきましょう。
 南無阿弥陀仏 ここに今 いのちを包むことばが、届いてくださっております。
 たとえ どんな この身であろうとも、漏れようのない お慈悲の手をひろげて、どうか お願いだから まかせておくれと、 如来さまが喚(よ)びつづけてくださっております。
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』(武田一真師)
 「はじっこが見えないくらい 広がった風呂敷のような、どんなものも、漏れようのないお慈悲の姿」が、 「南無阿弥陀仏という六字のいわれ」であったのですね。
 「南無阿弥陀仏」という ここに今 いのちを包む言葉が 届いて下さっていたのですね。
 たとえ どんなこの身であろうとも、漏れようのない お慈悲の手を広げて、「どうか お願いだから まかせておくれ。」と、如来さまが 喚(よ)びつづけてくださっておられるのですね。
 南無阿弥陀仏という御名について、武田一真師は次のように説いておられます。

 『南無阿弥陀仏の「南無」というのは、「まかせておくれよ」という仏さまのおこころ。
 「阿弥陀」とは「アミータ」というインドの言葉ですが、「ア」というのは否定詞、「ミータ」というのはメーターと語源がおなじで、 「量る」(はかる)という意味だそうです。
 ですから「ア・ミーター」というのは、「量りがない」「限りがない」という意味になります。
 つまり 阿弥陀さまのお救いには限りがない。
 こうこうこういうものならば救いますよ、という条件がどこにもない。
 量りなく 限りなく 全てのものをつつみとっていく それが南無阿弥陀仏という名のいわれ
 ということになります。』(武田一真師) 
 自己中心的な想念から離れられない凡夫でありながらも、このような広い世界にお念仏を通して触れさせて頂いていることを感謝せずにはおれません。称名
 

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                                 
「称仏六字」といふは 
南無阿弥陀仏の六字を   
となうるとなり。 
「即嘆仏」というは すなわち   
南無阿弥陀仏をとなうるは 
仏をほめたてまつるになると也。 
「即懺悔」というは南無阿弥陀仏を   
となうるはすなわち無始より   
このかたの罪業を懺悔するになる  
とまうす也。 
「即発願廻向」というは南無阿弥陀   
仏をとなうるはすなわち安楽浄土に    
往生せむとおもうになると也。   
また一切衆生に この功徳をあたう  
るになると也。  
「一切善根荘厳浄土」というは 
阿弥陀の三字に一切の善根を  
おさめたまへるゆえに  
名号をとなうるは すなわち  
浄土荘厳するになると  
しるべしと也と。  
(『尊号真像銘文』)  
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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