2021年7月 第117話

朝事*住職の法話

「ののさま」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「ののさま」という題とさせて頂きました。

 本願寺鹿児島別院 YouTube常例法座で、片岡 哲英師(鹿児島県南さつま市 光明寺)のご法話を聞くご縁がありました。
 「親のこころをたずねてごらん」という題のご法話でした。
 大変感銘を受けました。
 少し紹介させて頂きます。共に味わわせて頂きましょう。


 『片岡哲英師は、ご縁があって、アメリカのリトルトーキョーにある「ロサンジェルス別院」でご法話されました。
 アメリカでは、日曜日に家族みんなでお参りされ、仏法を聴聞されるそうです。
 そこでは、鹿児島県人会の人たちも聞いておられ、法話の後での茶話会で、「懐かしい鹿児島弁が聞けて有難かった。」という意見が出たそうです。
 アメリカに居ると、当然アメリカの食事ばかりになります。
 そこで、知人が、「アメリカの食事ばかりでは難儀ではないですか?日本食が恋しくないですか?」と言って下さいました。
 確かに日本食が恋しくなったそうです。そこで、アメリカのハリウッドのビバリーヒルズの一角にある「寿司バー」に連れていってもらわれたそうです。

 見たことのないような大きなお店だったそうです。その「寿司バー」には、300人くらいが入れる店だったそうです。
 店を見渡すと日本人らしい人が中々見当たらなかったそうです。
 その様子を見ていた知人は「片岡さんは心配そうだな。」と思われ、「大丈夫、大丈夫、この店にはね、日本人の方はいるよ。」と紹介して下さったのが 店のチーフだったそうです。
 その日本人のチーフは、アメリカに行って30年が経過する方で、日本語は出来ますけど、アメリカ国籍を持った方でした。
 片岡さんと年令が同年代いうことも手伝ってですね、いっぺんに打ち解けて、初対面なのに、まるで旧来の友人のように話が弾んだのだそうです。
 そのチーフが、鹿児島だったら焼酎の方がいいのではないかと気を使われ、焼酎を出して下さったそうです。
 お互いに酒を酌み交わしながら、初対面だったにもかかわらず、昔からの知り合いのように話が弾んで、話が尽きなかったのだそうです。
 帰り際に、「店が休みの日曜日に会って、昼食でも食べながら、時間を少し取ってもらえませんか?」と誘われたそうです。
 思いもかけない誘いを受け、約束の日に会いに、互いに家族づれで、待ち合わせの場所に行かれたそうです。
 会うと、店で会った時とは、打って変わって、非常に疲れたような表情で、食事をしながら淡々と自分の過去を、自分史を語ってくれたそうです。
 お父さんは仕事が中々上手く行かなくて、子どものころから、家庭は貧乏のどん底生活だったそうです。
 お母さんが一生懸命、難儀 苦労しながら 子供を育ててくれたそうです。
 そして、貧しさ故に、義務教育を終えたら、働かなければならない。
 でも友達も高校まで行く仲間もいる。
 自分も何とかしても高校までは行きたい。でも経済的にどうにもならない。
 そこで思いついたのが得意だったスポーツ競技に一生懸命打ち込んで、念願が叶って、特待生として高校に進学できたのだそうです。
 これほど自分は嬉しかったことはないと語られたそうです。
 ところが上には上がいてですね、選抜で入った仲間ですから、自分くらいのレベルでは、とてもレギュラーにはなれなかったのだそうです。
 段々やる気をなくして、挫折して、そして親には内緒で、勝手に退学をされたそうです。
 優しかったお母さんは、かばってくれたけれど、厳しかった父親はですね、激怒して、怒って怒って、半ば勘当みたいな形で、家を飛び出したのだそうです。
 以後、職を転々としながら、たどり着いたのが、大阪で寿司職人になることだったそうです。
 
 そして20代の時に、転機が訪れたそうです。
 雑誌に「夢は大きくアメリカで寿司を握ってみませんか。」という広告があったそうです。
 ちょうど寿司職人としての修行にもくたびれていた時期だったみたいで、人生の賭けだと思って、アメリカンドリームを夢見て、意気揚々と乗り込んだ、アメリカの 新天地は、とんでもない世界だったそうです。
 まさに聞くと見るとは大違いだったそうです。
 先ず、苦しめられたのが、言葉の壁という障害だったそうです。
 そりゃそうですよね、日本語だけしか知らないでアメリカに行ったわけですからね。
 誰でも言葉の障害に会いますよね。
 それから、生活習慣の違い、一つ一つ違うわけですよね。
 何から何まで違うわけですよね。日本では靴を脱いで家に上がりますが、アメリカではどこへ行っても靴ですよね。
 そういう生活習慣の違い。さらに追い打ちをかけるように、その当時は日本人だというだけで、偏見と差別の眼差しだったそうです。
 今でもアメリカでは人種差別で暴動が起きたりしていますよね。
 日本人も、そうだったんだそうです。
 偏見と差別で、泥沼状態だったんだそうです。
 口にするのも辛いとおっしゃられたそうです。
 ですから、アメリカに行ったものの、辛くて、悲しくて、苦しい、悶々とした日々が続き、心身ズタズタになりながら、夜中ベッドの中で、 「もう、このまま朝が来なかったら、どんなに楽だろうか」と、そういう思いも真剣に考えられたのだそうです。
 でも、辛いとき、苦しいとき、悩んだ時にですね、どういうわけか、いつも幼い頃の、母親の歌声が、口をついて出たそうです。
 幼いところ、お母さんが歌っていた、それが自分の口をついて出て来るのだそうです。
 「その歌は何と言う歌ですか?」と聞きますと、「歌の題名は知りません。分かりません」と、はにかみながら言われたそうです。
 「久しぶりに歌ってもいいですかね?」と彼が言われたそうです。
 その彼の口から出て来たのが、こういう歌ですよ、皆さんも御存知ではないかと思います。

 「♪のんの ののさま ほとけさま 
 ♪わたしのすきな かあさまの おむねのように 
 ♪やんわりと だかれていたい ほとけさま♪
  ♪ のんの ののさま ほとけさま 
 ♪わたしのすきな とうさまの おててのように 
 ♪しっかりと すがってみたい ほとけさま♪」


 歌とも、つぶやきとも、わからないような感じだったそうですが、3番まで歌ってくれたそうです。
 そして、歌う前は険しい顔だったそうですが、歌い終わった後が、本当に柔らかな表情だったそうです。
 ニコッとしながら、でも目から涙がこぼれていたそうであります。
 片岡さんは、まさか自分が、遠いアメリカの地で、仏様の歌を聞くとは想像もしていなかったそうです。
 背筋がぞくぞくするような鳥肌が立つような感動を覚えたのだそうです。
 彼は、その歌がですね、「ほとけさま(ののさまのうた)」という題名の仏教讃歌であるということも、又、自分の家は 浄土真宗のご門徒だったんだということも、全く認識はしていなかったそうです。
 しかし、幼い頃に、お母さんが口ずさんでいた、その歌こそですね、彼の心に50歳を過ぎても、ずっと残っている。
 私は宝物だったんだろうと思いますと、片岡さんは言われました。
 仏様のお心を伝えるのに、何も難しい言葉や解説は私は必要ないと思いますと、片岡哲英師は言われました。
 改めて仏様の心を伝える、沢山、仏教讃歌というものがあります。
 やさしい言葉で書いてあるものもあります。
 素晴らしい一つの伝道方法でありますよね。
 片岡さんは、そういうふうに今も噛みしめておられるそうです。
 仏さまの心は親の心と同じだと言われます。
 今の若い方はそういう言い方はされませんですけれど。
 昔の方々はですね、仏さまのことを、あえて、「親さま」「親さま」という呼び名で、親しんでこられました。
 どうしても仏さまの心が分からない人は、「親の心をたずねでごらん。」
 「親の心が至り届いたら、きっと仏様の心も、いただけるよ。」
 こういう意味でございましょうか。
 私たちの日々の繰り返しの生活は、残念ながら、欲を出し、腹を立て、愚痴を言う、煩悩の繰り返しの生活でしかありません。
 そういう私たちのありようを、どうしても心配でならない、どうにもほっておけない、捨てることが出来ない。
 何としてでも救いたい。という願いを完成されたのが、これが阿弥陀仏という仏さまの名前であります。
 その「親の呼び声」が、「南無阿弥陀仏」の「お念仏」ですよ。

 「南無」「じーっとまかせなさいよ。」「阿弥陀仏」「そのまま救う」という「呼び声」は、まさに「親の願い」そのままではないのかな?
 そういただくことであります。
 と片岡 哲英師(光明寺)は、ご法話をまとめられました。』

【本願寺鹿児島別院 YouTube常例法座で、片岡 哲英師(鹿児島県南さつま市 光明寺)のご法話。
 「親のこころをたずねてごらん」という題のご法話より聞書き】


  私は、何回も何回もこのご法話を視聴させて頂きました。
 何回聞いても、新鮮に、「初事」「初事」と響いてくるのは不思議な事であります。
 他のご法話でも、人間ですから、何回も何回も再生していると、他の法話が聞きたくなってきたりはしますが、 根底に流れている仏様の心に触れていることには違いないと感じるのです。
 人それぞれ、仏縁【仏さまの心との感応道交】というものは、色々なパターンがあって、それは数えきれないほど多くあるそうですね。
 だから、「こうじゃないといけない。」ということは言えないと思います。
 しかし、やはり、親の影響は大きいんだなあと思わずおれません。
 又、子どもの頃の仏縁と言いますか、宗教的環境というものも、その人の人生に、知らないうちに大きく影響しているものみたいですね。

  私は母親の思い出としては、次のような忘れがたい思い出があります。
 私も、大学に入学して、下宿生活を始めました。
 その下宿というのが、多人数の下宿で、朝夕は食事が出るという今では考えられないような下宿生活でした。
 風呂には、皆で一緒に風呂屋に行くというような下宿生活でした。
 私は、中学の時に、一年間は、寮生活をしたことはありますが、それは地元でありました。
 他県に初めて下宿生活をして、その、大人数の共同生活に、中々馴染めずに、そんなに深刻ではなかったのですが、そんな私の気持ちを 手紙に書いて実家に送ったことがありました。
 すると、何と驚いたことに母親が、手紙を読んで心配して、下宿まで、わざわざ広島から京都の下宿先まで、訪ねに来てくれたのでした。
 私は偶然、下宿の最寄りの駅に、母親が居るのを見つけて驚きました。
 「どうして母親は、この駅に来ているのだろう?」と思ったのです。
 そして、母親に、「お母さん。」と声をかけました。

 その時に、母親は私の姿を見つけ、認め、「ひろちゃん!」と私の名前を呼んでくれたことは、忘れることは出来ません。
 いつまでも忘れられない光景として、私の胸に残っています。
 親につまらん手紙を書いてしまった。
 小さな事で、親にあんまり心配かけてはいけないなあと思った次第です。
 それと同時に、今思えば、母親のこころは、有難い、勿体ない、お陰様!そうとしか言いようがありませんね。
 「いつも私のことを色々と心配して下さって有難うございます。」と、今さらながら、母親の温かい気持ちに対して、ただただ感謝するばかりです。
  母親も、平成5年に主人を62歳で見送り、現在、当然、私たちと同居しています。
 母親が老いていく姿を見て、老いる事の大変さを、まざまざと感じています。
 「老いるショック」とはよく言ったものです!
 実際に、老いるこということは、なんと大変なことなんだろうと思わざるを得ません。

  皆さんも、親の心に励まされて支えられてきた、という思いがおありの方は沢山おられることと思います。
 私も以前テレビで観たのですが、街を歩いている人にインタビューする番組で、色々と質問していたようですが、 インタビューされている女性が、急に「親のおかげです。母親のお陰で、生きていくことが出来ます。有難い事です。」と、急に涙顔になって、 親を思うただの子供みたいな顔になって、親には、ただ感謝しかないと言われていた光景を、何故か、いつまでも覚えていて、忘れることは出来ません。
  先日もテレビを見ていたら、ある大物の女性歌手について放映していました。
 地方から、「自分が一生懸命に、仕事をして、何とか親を助けたい。」という願いを持って、歌手を目指して上京しました。
 デビュー曲が出るまでも何年もかかり、せっかくデビューが出来ても、レコードはさっぱり売れないから、自分で売り歩く、人通りの少ない通りで、歌ったり、 下積みの生活があったそうです。
 そんな中、地方から親が上京して、最初は歌手になることを心配して反対していた父親も、自分の仕事も切り上げて、 娘の為に、娘を応援しようと上京されたそうです。

 そんな中で、曲がヒットしてレコードも売れ、紅白歌合戦にも出場することが出来た。
 その父親は六十代で亡くなられたそうですが、その大物歌手は、今でも父親への感謝の気持ちを強く持っているという様子をテレビで観て感銘を受けました。
 やはり、どんな世界でも、親の支えというものは、本当に有難いものなんだなと、しみじみ思わされました。
 浄土真宗では、阿弥陀さまのことを、「親さま」と言ってきました。
 さきほどの片岡哲英師のご法話に次のように説かれていました。
 『仏さまの心は親の心と同じだと言われます。
 今の若い方はそういう言い方はされませんですけれど。
 昔の方々はですね、仏さまのことを、あえて、「親さま」「親さま」という呼び名で、親しんでこられました。
 どうしても仏さまの心が分からない人は、「親の心をたずねでごらん。」
 「親の心が至り届いたら、きっと仏様の心も、いただけるよ。」』
 (片岡哲英師)
 
  私の寺の近所に有難い信者のお婆さんが住んでおられました。
 彼女は少し体調も悪くて、一人暮らしで大変なのに、真宗の教えを心底喜び、力強い生活をされていました。
 ある仏法の先生は、
「浄土真宗の教えが知りたければ、あのお婆さんを見ればいい。」
 と言われていました。
 そのお婆さんが、
「先生、私のことを、そんなに褒められたら恥ずかしいです。」
 と言われると。
 先生は、
 「私は、あなたのことを、尊いことと拝むけれど、それは、あなたを拝んでいるのではない、あなたに働いている仏さまの働きを拝んでいるのだ。」
 と言われました。
 そのお婆さんに働いている仏様の力・働きを拝んでいるのだと言われたのです。
 その有難い信者のお婆さんに、ある仏法の友達「法友」のお婆さんがおられました。
 そのお婆さんは、浄土真宗の教えを聞く年数は長いのに、中々、仏さまの心が自分に頂けないで一人悩んでおられました。
 その上、自分の方が聞法歴は長いのに、自分より遅く遅れて仏法を聞き始めた法友達が、自分より早く信心の世界に入っていくのを、内心、嫉妬していた人でした。
 まことに人間臭いことと思います。
 この正直な人のことが、私は何故かとても好きでしたね。
 私にも、そんな覚えがありましたからね。
 その人が、かなり高齢になられて、病気にもなられて、入院されました。
 その時に、仏法の先生が見舞いに行かれると、そのお婆さんが、「私にも親様【仏さま】がおられました。」と言われたそうです。
 「私の親さま」という味わいなのですね。
 「阿弥陀様」という「親さま」が、どこかにおられるそうだ、というのではなく、それは、「私の親さま」でした。
 その婆さんは、そういう気づきをされたわけなんですね。
 今までは、自分より遅く仏法を聞き始めた人たちが、どんどん信心の世界に入っていくのに、自分はそういう世界に中々入っていけない。
 そういう辛さがあったのですね。
 
 それが、「私にも親様【阿弥陀様】がおられました。」と言われたのですね。

 片岡哲英師の言葉に、
 『どうしても仏さまの心が分からない人は、「親の心をたずねでごらん。」
 「親の心が至り届いたら、きっと仏様の心も、いただけるよ。」』
 という言葉がございました。
 「親の心をたずねでごらん。」
 そのためには、仏法を聞く事です。
 それが親【仏さま】の心を聞かせて頂く事になるのです。
 浄土真宗で、最も大切なことは
 「仏法聴聞」
 「仏さまの教えを聞くこと」
 「浄土真宗の教えを聞く事」
 です。
 「親の心【仏さまのこころ】をたずねる。」ということですね。
 
 また、仏法には、学問の世界「仏学」がございます。
 それは、人間は信心の世界に入っても、信心のことを誤解したりして、ついつい間違えてしまいがちなので、間違った方向を正してもらう為に「仏学」がある と認識している次第です。
 人間は、自分でも気づかないうちに、知らず知らず、自分の都合のいいように、お経や御聖教の言葉を理解していたりするものですね。
 そういう、親鸞聖人の説かれた教えとは違った横道に迷うことは、凡夫としてざらにあることですよね。
 そういう信仰生活における、間違いを正してもらう為に、「仏学」「教学」というものがあるのだと思っています。
 特に僧侶は、やはり「教学」からは逃げられない立場ですよね。
 当然と言えば、極めて当然のことですが、これが中々、厳しい世界ですよね。
 親鸞聖人の説かれたことを、間違えないように伝える、そのための「仏学」「教学」ではないでしょうか。
 親鸞聖人の説かれたことを、間違えないように伝える為にも、先ず、自分自身がしっかり真宗の教えを勉強して、わが身に深く味わい、 布教していかなければいけないと自戒しています。
 「説教は『仏の一字』を説けばいい。聴聞は『仏の一字』を聞けばいい。それが中々難しい。」と教えて頂いたことがありますが、本当に、その通りですね。

 浄土真宗の教えに、「阿弥陀さまの本願」を説かれる時に、「法蔵菩薩の五劫思惟」という教えが説かれています。
 法蔵菩薩ほうぞうぼさつ五劫思惟ごこうしゆいされて、私の救いを思惟されて、 南無阿弥陀仏の名号を、私の救いの為に完成された、と説かれています。
 法蔵菩薩が思惟された中に、既に、この煩悩の塊の私の救いが思惟され、それが完成して南無阿弥陀仏となって、私に届けられています。
 この阿弥陀如来の願い、「本願」が「南無阿弥陀仏」の「名号」となって、私に届けられている。
 それが「親の願い」「阿弥陀仏の願い」ではないでしょうか。
 

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                        
ナムアミダ仏のおすがたは 闇路に 
迷う私らに 両手を出して救おう   
と呼びかけたもうみ声なり。 
ナムアミダ仏のおすがたは 願と行   
とが具足して、わが成仏の因 
(たね)となり安心(あんじん) 
与えるみ声なり。   
ナムアミダ仏のおすがたは   
かならず救うおまことが  
汝一心正念に直ちに来たれの 
呼び声に かたちをかえた仏なり。   
ナムアミダ仏のおすがたは    
いずれの行もなしがたき造悪不善   
のわがために 称えやすき名号  
を案じて与える仏なり。  
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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