2021年6月 第116話

朝事*住職の法話

凡夫ぼんぶの救い」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「凡夫の救い」という題とさせて頂きました。

 『「精読・仏教の言葉 親鸞」梯 実圓 大宝輪閣 』に次のようなことが説かれています。一部、紹介させて頂きます。

 『人生にさまざまな 障碍しょうがいと挫折はつきものである。この世に生まれて来たかぎり、老と病と死と、愛するものとの別離、 憎しみあうものとの出会いを避けて通ることはできない。
 誰れしも平穏無事な生活を願わない者はないが、平穏無事に生きられるようにはできていないのが人の世である。
 逃げることも避けることもできない怖ろしい出来事に遭遇することもあるし、どうしようもない苦悩に責めさいなまれることもある。
 どんなに注意深く生活していても、何が起こって来ても不思議でないのが人生なのである。
 ただその 障碍しょうがいと挫折の苦悩が、空しい繰り言の材料として終わってしまうか、それとも苦難と危機を、 人生を超えた真実を味わい確認する機縁となるように生かしていけるか否かが人生の分かれ目になるのである。
 それはその人が自らの人生に立ち向かう姿勢の違いによる。あるいは人生を超えていく智慧が与えられているかどうかによるというべきである。

 日々の生活が順調に流れているときには、むしろ人生への驚きもなく、真剣に仏法を聞こうとする心も起こりにくいものである。
 惰性だけで生きている人間には、「いのち」の緊張感もなく、生きていることの不思議と尊さを実感することもない。
 むしろ逆境が尊い法の縁となり、苦い後悔にさいなまれることが念仏を申す機縁となっていくことは多くの人が経験することである。
 自分や親しい者が「いのち」の危機にさらされるとき、生きていることの不思議と「いのち」のつながりの不思議な広がりに気づき、限りない「いのち」を 感得することもあるのである。
 「維摩経ゆいまきょう」には、「煩悩はこれ道場なり」とか「三界はこれ道場なり」と説かれている。
 愚かに浅ましい煩悩が、求めるべき仏法の真実を指し示す道しるべとなるとき、煩悩は道場としての意味をもつ。
 さまざまな苦悩を避けられないこの迷いの境界(三界)が、その苦悩を機縁としてあるべからざる境界であると思い知らされるとき、三界は、浄土こそ万人の 帰すべき真実の世界であることを告げ知らせてくれる道場になるというのである。
 仏道とは人生のあらゆる出来事を、真実を確認する道場と受け取れと教える宗教であり、悪魔の中にも如来を見出していく智慧を磨けと教えるものだったのである。
 順境であれ逆境であれ、人生の出来事はすべて人生を超えた仏法の真実を確かめていく道場であると領解する心が開かれたとき、人生に無駄なもの、無意味なものは なくなっていく、そしてあらゆるものの中に如来はいますと気づくであろう。
 それゆえ「この如来、微塵世界にみちみちてまします」といわれるのである。
 すべてのものから真実を聞こうと謙虚に心の耳をすます信心の行者の前には、悪魔・外道も善知識と転じていく。
 しかし悪魔の中に如来を見るには如来よりたまわった智慧がなければならない。
 阿弥陀仏はさまざまな苦難に耐える力と、災難を克服して功徳に転換していく智慧を与えて救いたまうからである。』
 (「精読・仏教の言葉 親鸞」梯 実圓 より抜粋)
 
 ここに、「逆境を生かす智慧」「人生は道場である」ということが説かれています。
 仏法をよりどころに生きていく人生の力強さが教えられています。
 人それぞれと言いますように、他人には伺いしれない、その人、その人の人生の苦悩というものがあります。
 それをどう乗り越えていくか? 

 「生老病死」のことを「四苦」と言います。
 年寄りと同居している方、又、同居の経験のある方は、身近に「老病死」の姿というものを見て、看病の苦労も経験されて来たことと思います。 
 昔の本願寺新報の中に、
 「喜びに生きる病床」 山口・宗玄寺住職 嘉屋 英嗣 
 というご法話が掲載されています。
 少し紹介させていただきます。(一部 抜粋)
 
『母方の祖母が亡くなって、もう八年がたちます。最近この祖母の口癖だった言葉が思い出されてなりません。
 祖母は、九十年の生涯でしたが、晩年は持病のため、ベッドとのつきあいが長かったのです。
 こんな時、必ず出てくる言葉が
 「その身になってみにゃわからんことよ」
 でした。

 金子みすゞさんの詩に「さびしいとき」というのがあります。
 
 わたしがさびしいときに、
 よその人は知らないの。
 わたしがさびしいときに、
 お友だちは笑うの。
 わたしがさびしいときに、
 おかあさんはやさしいの。
 わたしがさびしいときに、
 仏さまはさびしいの。
 (JULA出版局)

 いま、祖母の言葉に仏さまの慈愛を感じます。
 私たちは、つい自分を主にして相手をみるので、相手の本当の思いに至ることが出来ません。
 そのことを
 「なってみないとなかなか感じ取ることができない」
 と教えてくれます。
 この心が「仏さまはさびしいの」という言葉に、仏さまの慈悲のおはたらき、ぬくもりを感じさせてくれるのです。
 私に寄り添って下さる方は、本当の私の姿を知り抜いたお方なのです。
 だからじっとしてはいられないはたらきが、私の《いのち》すべてを おさめとって下さっているのです。
 また祖母は、大好きだったケーキを買っていくと本当に嬉しそうで、その姿は幼子のようでした。
 「病床に伏す日々の私だが、今日もこうして私のことを心配して下さる方がいる。その上に、私に会いに、わざわざケーキまで買ってきてくれるあなたがいる。
  見捨てられても何も言えないのに、こうして案じて下さる方の中にあるとき、世界中で一番幸せものです」
 と言っていたのでしょう。
 だから、何にもまして、私のことを思って買ってきて下さったものは、今日のいのちを賜って、今日いただく最高の宝物と教えてくれていたのでした。
 物がたくさんあって物の大事さが見えなくなったと言われて久しいですが、いただいた《いのち》に感動がなくなっているのは、他人ではなく、 私自身ではないでしょうか。
 そして、目の前の楽しみに明け暮れて、大切なことが見えなくなって、欲望のおもむくままに振り回されていることにも気付かずにいるのです。

 源信和尚は、快楽の世界の空しさを次のように教えられました。
 天上界は、快楽が極まりないとしても、寿命が尽きるころになると五衰の相が現われる。

 一、頭の飾りがすぼみ、
 二、衣が ちりあかで汚れ、
 三、よき香りが失われ、
 四、笑いや、楽しい心が失われ、
 五、居るところも少しも楽しくなくなる、
 とあります。

 この相が現われると、親しき大人たちは、あたかも刈った草でも棄てるように、老いた天人を棄てて遠ざかり、離れていくとあります。
 快楽の世界の命終わるときの苦しみは、何と悲しいことでしょう。
 この相は、まさしく今の私たちの生活そのものといただきます。
 今日という一日、今日のいのち、とっても不思議な出逢いであり、あることが当たり前でない。
 とっても驚くほど喜ぶことなのに、それが失われ、当たり前と有頂天になっているところには、感動は失われ、愚痴、 驕慢きょうまんの世界におぼれていくしかありません。 
 快楽への誘惑を断じてさとることは至難のわざです。
 しかし、お念仏を歓ぶ心を賜った者は、快楽生活の中にもお浄土への導きを喜ばせていただけることを、祖母の姿に見たことでした。』
 (本願寺新報の中に「喜びに生きる病床」 山口・宗玄寺住職 嘉屋 英嗣 より抜粋)
 
 木村 無相さんの詩に、「如来われにありて」という詩があります。
 仏さまの慈悲のおはたらき、ぬくもりを感じさせてくれる詩だと思うのです。
 
『 如来われにありて
 
 わが息は 如来の息 
 如来 われにありて 息したもう 
 われは 如来に あらざれど 
 如来 われにありて 息したもう
 わが息の 苦しみは
 如来の 苦しみ
 ああ 如来われにありて 苦しみたもう
 ああ わが息よ 苦しみよ
 如来 われにありて 苦しみたもう
 ナムアミダブツ ナムアミダブツ
 ナムアミダブツ ナムアミダブツ
 このイノチ 如来のイノチ
 ナムアミダ
 生くるも死ぬも
 弥陀のまにまに   』
 
 (「如来われにありて」 木村 無相)

 私が、如来様を一番身近に感じるのは、やはり「仏壇」に参り、阿弥陀さまの前に座した時です。
 「この私の為に、このような煩悩の塊の私の為に、立ちあがり、こんな私の救いを告げて下さっている。勿体ない。」
 と感じ、南無阿弥陀仏と称名念仏させて頂きます。
 「仏壇は真宗門徒のご先祖が残して下さった宝である。」
 と言われた先徳がおられました。
 この「仏壇」について、昔、本願寺新報に掲載された、豊島 学由師のご法話に次のように説かれています。
 少し紹介させていただきます。(一部 抜粋)
 
『お仏壇と私 
 いつでもどこでも私と一緒
 
 「お仏壇と私」という題をいただいたとき、学生時代、金子大栄師に
 「お念仏は移動式お仏壇です」
 というお話をお聞きしたことを思い出しまして、 それで金子先生のおっしゃったような日暮らしを送った人のエピソードを書いてみようと思います。
 その人は安芸門徒で、一人暮らしのお松さんといいまして、毎朝おつとめを済ませた後、あちこちのお家を訪ねて回るのを日課にしていたそうで、
 「これから出かけますので、留守番をたのみます」
 と、お仏壇にたのんで出かける毎日だったそうです。
 ある日お松さんは、自分の となえたお念仏を聞いて
 「たった今、留守番をたのんだばっかりだったのに、親さんの方が先に出てござったか」
 と言ったそうです。
 家庭のお仏壇のご本尊は、私がどこにいても、何をしていようとも、如来さまのいのちいっぱい、南無阿弥陀仏と お名告なのりくださり、うしろから手を添えて、私を固有名詞で んでくださっています。
 恩師の桐渓順忍先生は
 「阿弥陀如来は寿命無量であり、光明無量でありますから、いつでもどこでも私と一緒ということであります。
 一緒ですから、往生についての心配もないから、安心でもあり、有難いことでもあるが、一面では「聞いてござる、見てござる、知ってござる」から、ふと、 うしろを振り向いたら恥ずかしい思いがするでしょう。
 そこには慎む心がおのずからおこるものでありましょう」
 と、口ぐせのようにおっしゃっていました。
 お仏壇の中心は文字通りご本尊でありまして、この私を救うてくださる動仏の名号・南無阿弥陀仏さまであります。
 私を名で くださる仏さま
 真宗仏壇のご本尊である阿弥陀如来さまは、私たちを認めてくださっている如来さまなのです。
 如来さまは、わざわざことばになってくださって、善人はもちろん、悪いことをしてしまった人にも、裁きの如来さまではなく、むしろ、人間の罪悪性は、 如来ご自身の痛みとなり、「大悲同苦」しつつ、私を名で くださっている如来さまであります。
 お釈迦さまはは、この大慈大悲の阿弥陀さまを、この世界で最初に「発見」された念仏者なのです。
 その阿弥陀さまの教えをきく身に育てていただき、お礼をする場所がお仏壇であります。』
 (本願寺新報 「お仏壇と私」豊島 学由 より抜粋) 

 ある方のエピソードを紹介させて頂きます。
 その人は、仏教の研修会で、講師に質問されました。
 その質問とは、
 「親鸞聖人の偉いところ」はどういうところですか?
 という質問でした。
 その質問に対して、講師は、
 「今までの質問で一番良い質問だ。」
 と、その質問を、
 「素晴らしい質問だ。」
 と最大級に誉められたそうです。
 質問 「親鸞聖人の偉いところはどういうところですか?」
 答え 「正信偈」の中に
 「唯説弥陀本願海ゆいせつみだほんがんかい
 「ただ 弥陀みだ本願海ほんがんかいかんがためなり」
 と書かれています。

 質問 「親鸞聖人の偉いところ」は、どういうところですか?
 答え 「本願力を発見して、凡夫の私に示して下さったところです。」
 質問 「親鸞聖人の偉いところ」は、どういうところですか?
 答え 「本願力を発見し、落ちこぼれの私に示して下さったところです。」
   「浄土の真実を教えて下さった。」
   「唯説弥陀本願海ゆいせつみだほんがんかい
 
 この問答は、私にとって、とても印象的で、深く心に刻まれました。
 「本願力を発見し、落ちこぼれの私に示して下さった。」
 そういうことを、私が、一番、実感するのは、仏壇に参り、阿弥陀さまの前に座した時です。
 「この落ちこぼれの私の為に、立ちあがり、こんな私の救いを、特別な救いを告げて下さっている。勿体ないなあ。」
 と南無阿弥陀仏と称名念仏させて頂く次第です。
 
 「凡夫」という題で、朝枝 善照師が、次のように説かれています。
 「ないおん」より抜粋し紹介させて頂きます。

 「凡夫開眼」 
 
 如来は人間を
 自由にさせてくださるが
 人間はあたまをうってから
 眼がすこしひらく。
 
 私は、この榎本栄一さんの「眼がすこしひらく」という言葉に感動しました。 
 人間の生きる日々の生活、順風も逆風も時々の変化の中にありながら、「あたまをうってから」はじめて気のつく世界があることを詩にしています。
 題が「凡夫開眼」ですが、人間として、個人のことのようでもあり、全世界の人類のことのようでもあります。 
 この榎本さんが、詩人というものは自惚れの強いもので、その「自惚れ下げのお札」といわれるのが、浅原才市さんの、
 
 ええなあ
 世界虚空が みなほとけ 
 わしもそのなか
 なむあみだぶつ
 
 という詩だそうです。
 一番かなわんなと思われるこの才市さんの詩を自分の前に出すと、「私の自惚れが消えますねん」と榎本さんが語っています。
 才市さんの詩に、
 
 私は 悪いばかり
 あなたは 良いばかり
 南無は 慚愧ざんぎで 
 あなたは  歓喜かんぎ
 慚愧ざんぎ歓喜かんぎ
 なむあみだぶつ
 
 このような、凡夫の「あさましき姿」を、才市さんは「私は悪いばかり」と見つめています。
 お念仏を詩にすれば、「ざんぎとかんぎ」と才市さんはいいます。
 世の中がどのように変化しても、人間の生きている姿は、そのまま「鏡」に写すごとく見えてしまいます。

 南無仏は、私の 機様きざまの見える鏡で
 あさまし あさまし 良く見える

 才市さんは、「南無仏」を鏡にして、
 「あさまし あさまし」とつぶやいています。
 
 (「ないおん」より抜粋)

 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                                 
 
*八木重吉 詩人   
*すべての くるしみのこんげんは 
むじょうけんに むせいげんに   
ひとをゆるすという 
そのいちねんがきえうせたことだ 
*ものを欲しいとおもわなければ   
こんなにもおだやかなこころに  
なれるのか  
うつろのように考えておったのに 
このきもちをすこし味わってみると   
ここから歩きだしてこそ   
たしかだとおもわれる  
なんとなく心のそこから  
はりあいのあるきもちである  
*しかし それでも  
愛せずには  
憎まずには  
怒らずには  
どうしても    
おれないのです  
  


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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