2021年5月 第115話

朝事*住職の法話

仏様ほとけさまのお呼び声」
     
 住職法話をお読み頂きまして、有難うございます。
 今月は「仏様のお呼び声」という題とさせて頂きました。

 「仏様のお呼び声」が、私が仏法に出会う前から、ずっと呼び続けて下さったおかげで、仏法に出会い、仏法を聞くように育てられ、 仏様のお呼び声が、絶間なく、この私に対して働き続けていて下さっていることに対してお礼申し上げます。

 「仏様のお呼び声」のことを「名号」と言います。
 「名号」とは、仏様の全体が、この六字になって、私にご縁を結んで下さる。
 「私の為の仏様」それが「名号」というものであります。
 仏様が仏様の世界にだけにおられましたならば、私に仏様のことが知れるわけもないのですが、「南無阿弥陀仏」という「名号」になって下さり、 この私に、「仏様」というものを知らせようとして下さったものが、この「名号」「南無阿弥陀仏」であります。
 そのように、味わわせて頂く時に、「私故の仏様」「私の親様」「私の為の本願名号」と味わうことが出来るのではないでしょうか。
 「光明無量・寿命無量」の「仏様の世界」の 自己顕現じこけんげん
 「南無阿弥陀仏」の「名号」です。
 光明無量・寿命無量の世界のままでは、あまりに大き過ぎて、凡夫が直接知る能力はないのですね。
 だから、光明無量・寿命無量の世界から、声となって、言葉となって、顔を出して下さっているのですね。
 「南無阿弥陀仏の顔を拝んだことあるか?」と問いかけられたら、皆さんはどう答えられますか?
 これを「本願力」と云います。
 「山の端より にゅっと出でたり 願力の月」
 「南無阿弥陀仏の名号」は、仏様が、自ら名告って下さった、名告りなのです。
 天地の大生命、天地の真理の名告りが、「南無阿弥陀仏の名号」です。 

 「名」という字は「夕暮れ」に「口」と書きます。
 夕暮れで、暗い中で、不安な中、「○○さん」と、声をかけて頂いたら、とても嬉しい事です。
 安心することであります。
 「名号」とは、夕暮れの暗い黄昏時に、呼びかけて下さる「如来さまの呼び声」と味わうことが出来ます。

 ある方がご法話で、手の指を使って、「仏様」と「私」というものの関係について教えて下さいました。
 手の「親指」が「仏様」を示して、「小指」が「私」のことを表していると諭して下さいました。
 皆さんも、ご自分の手を見て下さいませ。
 「親指」を見て下さいませ。
 「親指」は、常に「小指」の方を見ていますね。
 「親指」を「仏様」としますと、「仏様」は、絶えず「小指」つまり「私」の方を見ていますよね。
 しかし、「小指」をよく見て下さいませ。
 「小指」は「親指」の方は見ていないですね。
 つまり「私」は「仏様」の方なんか見ていないのですね。

 「仏様なんか、ほっとけさまや!」と言わんばかりの「小指」「私」の態度であります。

 仏法と反対のことが人間は面白いのですよね。
 しかし、仏法聴聞すると、「世間を超えた世界」が説かれているということがわかります。
 「世間を超えた世界」が「世間にどっぷりつかっている私」に、働きかけている気がします。
 この世の価値観、財産、地位、名誉、権力、愛欲、つまり一言でいえば、「欲望」ですね。
 しかし、そういうものだけでは満たされない人間の心の深い欲求があるような気がします。

 「生老病死」を「四苦」と言います。
 体が段々不自由になっていくということは、確かに「苦」だと思います。
 「四苦」を見つめて、覚悟を持って生きていかないといけないのかも知れません。
 仏教聖典には、
『「老病死」は「三人の天使」』だ
 と説かれています。
 「老病死」の姿は、大切なことを教えているのだから、それをご縁に仏法を聞くことが大切だと説かれているのですね。

 人間は限りある人生に、限りない欲望をもって生きています。
 人間には、煩悩と言うものがあります。

その代表的なものとして、
貪欲とんよく」→「むさぼり」
瞋恚しんに」→「怒り」「腹立ち」
愚痴ぐち」→「道理に暗いこと」
 があります。
 これを「三毒の煩悩」と言いいます。

貪欲とんよく」つまり、「欲望」 「むさぼり」ですね。
 人間の欲望は限りないものだそうですね。
 無限の欲望は満足する時は来ないということですよね。
 「楽は苦に終わるをもって原則とする」
 「愛欲が、人惑わして、駆けり去る」
 「楽しいと思うことには心せよ。耽らば後悔、臍を噛む」
 「苦しみが楽しみという顔をして仮に私の前に現われているだけである」
 「愛人を地上に持つことなかれ」
 「飛んで 苦に入る 欲の虫」
 「欲の心と 降る雪は 積るにつれて 道を見失う。欲で固まった心には 話は分からない。道を失う。」
 「楽しみがあると思う、こころに だまされて、楽を求めて苦しんでいるに過ぎないのであります。」というご法話を聞いたことがあります。 

 それと 「瞋恚しんに」つまり、「怒り」「腹立ち」のことですよね。
 自分の自我の通りに物事が運んで行かなければ腹が立ちますよね。
 「自分の思い通りにならない。」と腹が立ちますよね。
 「不如意ふにょい」「意の如くならないこと」それを「苦」というのだそうです。
 そして、 「愚痴ぐち」つまり、「通理の分からない無明」のことで、「通理」が分からなくて、とにかく無茶苦茶に自我の欲求の満たされていくことばかりを 求めて、それが得られないと、道理に背いていることにも気づかないで、いつまでも「私の思い通りにならない。」と、愚痴ばかりこぼしていることを「愚痴」と言います。
 「貪欲とんよく」 「瞋恚しんに」 「愚痴ぐち
 この三つは、誰かに教えてもらわなくても、ちゃんと実行できるのですよね。
 教えられなくても、欲は起こるし、腹は立つし、愚痴は出るのですね。
 それを、「持ち越しのこころ」と言われた御講師がおられました。
 味わい深い言い方です。
 前の世でも、同じことを、数えきれないほど、気の遠くなるほど繰り返してきたということなのでしょう。
 だから 「衆生しゅじょう」というのでしょうね。
 「衆生しゅじょう」とは
 「衆多しゅうたの生を繰り返してきた者」
 という意味があります。
 習ったわけではないのに、自然と欲は起こるし、腹は立つし、悪い心は起こるし、言わなくてもいいことは自然と口に出るし、言わなければならないことは、 習っても言えない。
 相手の出方次第で、鬼にもなれば蛇にもなっていく、そういう生活を昨日も今日も明日もしていかなければならない凡夫の私でありました。
 そういう煩悩だらけの私が、今、こうして仏法を聞くようになっている事実を、不思議なことだなあー!と感じることがあります。
 だから、自分の力で、仏法に出会っているのではなく、仏様の「お育て」の「お陰様」なのでしょう。

 お経には、人間は「独り生まれ、独り死す。代わるものあることなし。」(「大無量寿経」)と説かれています。
 自分が真に苦しみの中にある時は、身近な夫婦でさえ、家族でさえ、どうすることも出来ないで、側で見ているしかない、ということもあります。
 一番苦しい時は、「死」の時かも知れません。

 「死」ということについて、仏法では「三愛」ということを説かれているようです。
 人間が死ぬ時に、三つの愛が自己を苦しめるというのですね。
 嫌な話ですが、これは、人間にとって大変大きな問題だと思います。
 「三愛さんあい」については、法話で聞いた私の記憶に過ぎませんので、 詳細は、お調べ頂けたら幸甚です。
 「三愛」とは、人間が死ぬ時に、臨終の時に、起こって来ることでございます。
 ①「境界愛きょうがいあい」 ②「自体愛じたいあい」 ③「当生愛とうしょうあい」が起こると説かれています。
 ①「境界愛きょうがいあい」とは、「この世の中から、家族から別れていく苦しみ」のことです。
 親鸞さまの言行録の 「歎異抄たんにしょう」という書物の中にも、 「なごりおしく思っても、娑婆の縁が尽きていくときは、浄土に参るべきなり」と言われています。
 たとえ「お浄土」へ参らせて頂くと聞かせて頂いていても、長年付き合いのある なつかしい方々と別れることは、淋しい事ですよね。
 それを「名残惜しい」と言われたのは、実に味わい深い言葉だと思います。
 人間は自分が死ぬということを思わないですよね。
 だから、仏法聴聞に対して真剣になれないのかも知れません。
 しかし、それは、死の問題に対して、知らん顔しているだけで、ただ無関心なだけで、死の問題が解決したわけではないのですね。
 必ず全ての人に、死というものがやってくるのですね。
 それまでに解決しておかなければならない問題があるのです。
 それは死ぬことだけでなく、真に生きる道でもあるのでしょう。

 「自体愛じたいあい」とは、「自分の体と別れていく苦しみ」です。
 「当生愛とうしょうあい」とは、「何処へ行くのか分からない苦しみ」です。
 人間が死ぬ時に、三つの愛が自己を苦しめるというのですね。
 こういう大きな問題が、私たちにはあると説かれているのですね。
 浄土真宗では、「後生の一大事」ということが、説かれてきました。
 葬儀の時に「白骨の御文章」を拝読するときに、 「後生の一大事をこころにかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念仏もうすべきものなり、あなかしこ あなかしこ」という言葉を聞かれたことがあると思います。
 「後生の一大事」「一大事」なのですよね。
  白隠禅師びゃくいんぜんじを育てた、正受老人という方、
 「後生の一大事というは 現在只今の心なり」
 と言われています。
 「現在只今、仏の光に この心が浴することこそが、一大事」であります。
 それは、仏の覚りの光が、私の心の光となって下さることです。
 浅原才市という信者の歌に、
 「さきの世を ここで楽しむ 親の催促」
 という歌がございます。
 「今こそ、気づいてくれよ。」という
 「親(仏)の催促さいそく
 であります。
 信とは、真実なるものの徳が、現在只今 この私を真に生かして下さる、それが「念仏」であります。
 現実問題としては、死というものは、自分で手料理できるような、そんな簡単な問題ではありません。

 あるご門徒が、寺でのご法話の時に質問されて、言われました。
 「日頃こうしてお寺に参っているのに、愚痴を嫁の前では、言うまいと思っているのに、つい愚痴がこぼれます。
 嫁に、『お母さんは寺参りしているのに、有難いと言いながら愚痴を言っている!』と、思われたら嫌なんです!
 また、死ぬことが近づいて来た時に、見苦しい乱れた姿をさらしてしまっては、嫁が、『お母さんは日頃、お寺に参って、 有難いと言っておられるのに、愚痴を言っている。みっともない姿をされている。』と思われないでしょうか?
 それは恥ずかしい、仏法者らしい姿を嫁に見せて、信者らしく生きて、死んでいきたい。」と言われました。
 誰れしも希望するところであります。
 それに対して、ご講師は言いました。
 「それでいいがな。それでいいのや。それで可愛いところがあるのや。」
 と言われました。
 私の父親も、生前は、寺に参って説教を聞いているし、子供にも説教しながら、しかし、愚痴を言っていた。
 その頃は『父親の態度は、如何なものか!』という思いもあったが、自分が、父親の年齢になって見ると、愚痴が出て当然、という気がする。
 そういう父親の姿も、子供から思い出すと、親しみを感じるし、『自分も父親と同じように愚痴を言っている。』という安堵感があるのですね。
 「愚痴がこぼれてしまうのなら、仕方ない、こぼしたらいい。
 無理に愚痴を言うことはないけれど、出るのなら仕方ない。
 愚痴をごぼしていればいいのや。
 嫁さんが、自分が姑の年齢になった時に、姑さんの気持ちが分かるようになった時に、やはり、愚痴が出るんだ。
 嫁さんも、あなたの年齢になると、同じように、いくら寺参りして、仏法を聞いていて、有難いと言いながらも、愚痴が出るんや。
 その時に、『お母さんも、有難いと言いながら、愚痴を言っていた。そんなに格好よくしておられなかったんだから。』と思って、 かえって姑さんに親しみを感じるのや。
 あるがままでいいのや。あるがままでしかあり得ないのだから。
 要は、あるがままで、そのままで、喜ばして貰ったらいい。
 要は、無理しないこと、飾らないことだ。
 それを、あなたが、ええ恰好して、信者らしい模範的な綺麗な姿だと、嫁さんが姑の年齢になって、『とてもお母さんの真似は出来ない。』と、悩まれるかも知れませんよ。
 又、『母さんは綺麗な姿だったけれど、少し力みがあったな、気負っておられたなあ。』と思われるかも知れないですよ。」
 と言われました。

 私も、先日、ある御門徒との会話で、門徒さんが「住職さんは若い頃から住職になられて大変だったでしょう。」と言って下さいました。
 それで、私は次のように言いました。
 「私より年上の人たちとばかり付き合ってきましたから、上手く付き合えなくて、色々な職種の経験者ばかりですから、私はそういう苦労も知りませんし、 そういうようなわけで、未だに、年上の方とは上手く付き合えませんね。」
 すると、その方は言われました。
 「そのままでいいんですよ。」と。
 「そのままでいいんですよ。」という言葉は、実に温かい感じがしました。

 この世の中には、色々な人がいますが、ある意味で、その人らしさが一番良いんですよね。
 自分を偽らないことが大事なのですね。
 「模倣はいけない。自己に正直であることが、道を求める上では大切なことで、自己を偽り、飾ることは、道を求めることの邪魔になる。」
 「自分以外の何者かになりたい。」「自分以外の者になろう。なりたい。」
 そんな性質が人間にはあるのですね。
 「自分自身であること」「自分に正直なこと」
 これが、道を求める上での基本的なことなのでしょう。
 「自分がまな板に乗る、そして教えを聞く」ということでしょう。

 ある御講師様の説教で、大体、次のような話を、以前に聞いたことがあります。
 ある御門徒が、 くわしい事情は知りませんが、色々な事情で、家族は息子のことを心配していたのでしょうね。
 ある時、いつものように息子は、里に帰り、酒を飲んでいました。
 親が息子に対して言いました。
 「お前は年頃の娘がいる年なのに、いつも酒ばかり飲みやがって!酒飲む金があれば、娘の為に貯金くらいしたらどうか!」
 と息子に不満をぶつけました。
 「わしにも付き合いというものがある。わしにも、親に言いたいことがあるが言わないでいるのだ!
 里に帰る度に、いつも、ぐずぐず言いやがって!黙っとれ!」
 と息子は言い返しました。
 息子には息子の言い分があります。
 いつもは言い返さない息子でしたが、その日は、腹の虫の居所が悪かったのか、酒の勢いも加勢して、つい、言い合いになり険悪な雰囲気になって、 家族が止めに入ったそうです。
 『酒は適量飲めば「百薬の長」といいと言いますが、度を過ごすと、酒は「気違い水」』
 と言います。
 「円い卵も 切り様で 四角、ものも 言いようで 角が立つ」
 と言います。
 相手の出方次第で、鬼にもなれば蛇にもなっていきます。
 そこで、日頃から思っていたからか、つい親は息子に、一言多く、言ってしまいました。
 「お前も、酒飲む暇があったら、寺に参ったらどうか。寺に参って聞かして貰えば、荒れた心も和らぐようになるんだ。」
 「お前も、少しは寺に参ったらどうか。」
 と言いました。
 息子が答えて言うには、「あんたは寺に参る。あんたは有難た屋だからな。」
 「寺に参れと言うが、寺に参って、何をするのか!」と。
 親が答えて言いました。
 「それは、寺に参って聞かせてもらうのよ。聞かせて貰えば、荒い心も少しは和らぐのよ。」と。
 息子は言いました。
 「地獄や極楽と言うけれど、そんなものが本当にあるのか?」と。
 親が「そりゃー、地獄や極楽はあるよ。」と言うと。
 息子が言うのに、「地獄や極楽があると言うけれど、あるのなら、見せてみろ!」と。
 親は、専門家ではありませんから、「それは何だよ、それは何だよ、、、」というばかりで答えに困ったのだそうです。
 それで、親は、事の始終を話した上で、住職に頼みました。
 「住職さん、そのようなわけで、私は息子に『寺に参れ。』と言ってしまいました。
 だから、息子に少しは寺に参って、仏法を聞くように言うてやって下さい。」と。
 住職は「それは、引き受けんよ。縁があればね。」と言っておいたそうです。
 「お寺に参りませんか。」ということは、他のことと違って、中々言いにくいものですよ。
 お経に「難値 難見 難得 難聞」
 「遇い難い」「見難い」「得難い」「聞き難い」
 とあります。
 寺に参らない者には、参らない言い分があります。
 ある日、住職はその息子さんとばったり道で会ったそうです。
 そこで親に頼まれていたことを思い出して、息子さんに言いました。
 「あなたも一度お寺に参られたら如何ですか?」と。
 「何でも、物事は、聞いてみないと分からないものですよ。あなたは食わず嫌いではないですか。」
 と住職さんは言われました。
 息子さんも、住職が急にそんなことを言い始めたものですから、不審に思って、「住職さん、寺に参って、仏法を聞けと言われますが、家族に頼まれましたね?」 と言われたそうです。
 そして住職に言いました。
 「住職さん、寺に参って、仏法聞けと言われますが、寺に参って、一体何を聞くんですか?」と。
 住職曰く「仏様のお慈悲を聞くのよ。」と。
 息子さんは「慈悲を聞いてどうするのですか?」と。
 住職は「お慈悲を聞いて、お慈悲を貰うのよ。」と答えました。
 そして「仏様のお慈悲を聞いたら、お慈悲を貰うのよ。
 貰えば、お慈悲はあなたのものだ、あなたのものだから、後は勝手に使え。」
 と答えられた。
 「住職さん上手い事言うなあ!」と言いました。
 「頂いた仏様のお慈悲は、貰ったものだから、私のものだ、だからそれを使って力強く生きていく支え、力となるんだ。」
 日々を力強く生きていく支えを頂くのに、「もっと年取ったら寺に参る。」と、いかにも仏法が分かったようなことを言っているのではないのですか。
 息子さんは、「住職さん、地獄や極楽を説くけれど本当にあるのですか?」と。
 住職は「地獄、極楽はあるよ。
 しかし、『誰れにとっての地獄なのか?』『私にとっての地獄はある。』のだ。
 親鸞聖人は『いずれの行も およびがたければ 地獄はとても一定住み家ぞかし』と言われました。
 親鸞聖人は、何事も、他人のことではなく、『親鸞におきては』と、自分自身のこととして言われている。」
 「だから、あなたに地獄があるとは言えないけれど、親鸞聖人は、『私には地獄はある。』と言われていますよ。」
 と答えられました。
 その息子さんは、何かこたえるものがあったのでしょうか、しばらくして、何と寺に参られたそうです。
 そして、その息子さんは、ある日、寺の行事の準備の手伝いの為、寺に来られ、帰り際に、本堂の仏様に手を合わせて、お礼をされたそうです。
 そして、
 「住職さん、人間は横着なものですね、他人には挨拶するけれど、仏様には、なかなか挨拶しないものですねえ。」
 と手を合わされたそうです。
 事の始終を聞いて知っている住職は
 「親に対して喧嘩して、親をねじ伏せようとした、その息子が、今、こうして仏様に手を合わせている。」
 と思い、涙が出たそうです。

 仏様のお慈悲が、呼び声となっていることについて、母親の慈悲に喩えて、『「拝読 浄土真宗のみ教え」 布教読本』に次のように説かれています。
 
 「親のよび声
 考えてみますと、私は、なぜ「お母さん」とよぶようになったのでしょうか。
 ある人が「この人があなたのお母さんですよ」と紹介してくれて、そして私が 「この人が私のお母親なのか」と認識して、その結果、「お母さん」とよぶようになったのでしょうか。
 決してそうではないはずです。
 私の場合、気がついたら「お母さん」とよぶようになっていました。
 おそらく、そこに至るまでには、母親が何度も何度も「お母さんですよ」とよびかけていたに 違いありません。
 それで気がついたら、私は母親のことを「お母さん」とよぶようになったのでしょう。
 その時の記憶はありませんが、ずっと私を抱きかかえながら、よびかけていたはずです。
 そんなことを想像していると、やはり親心を感じずにはおれません。
 思春期の頃は、親の思いをうっとうしく感じていたこともありますが、何とも恥ずかしいばかりです。
 「親様」とたとえられる阿弥陀さまも、「必ず救う、われにまかせよ」私たちに絶えずよびかけています。
 このよび声は、いつかどこかで聞こえるという性質のものではありません。
 もしそうだったら「本当に聞けるのだろうか」「いつになったら聞けるのだろうか」と不安になるかもしれません。
 そうではなく、阿弥陀さまは、いまここで私に、そしてあなたによびかけているのです。
 私たちが阿弥陀さまに背を向けたまま、そのよび声に気づかずに、迷いの道をおぼつかない足どりで歩んでいたときも、 いつでもどこにいても、つねによびかけてくださっていたのです。
 このよびかけがあったからこそ、私たちは「はい、おまかせします」とお念仏を申すようになったのです。」 

 「親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の六字を
 「本願招喚ほんがんしょうかん勅命ちょくめい
 とお示しくださいました。 
 それ以前の念仏の教えは、私から仏さまに向かっていく方向性でしたが、親鸞聖人はそれを逆転させて、仏さまが私のほうに来てくださるという方向性の よび声だと受け止めていかれたのでした。
 ですから念仏の声は、私が阿弥陀さまによびかけるというよりは、阿弥陀さまのよび声であると受けとったのです。
 私たちは、たえずよびかけていた阿弥陀さまのよび声を聞き受けたとき、阿弥陀さまに対して、感謝の気持ちからお念仏を称えるようになったのです。
 阿弥陀さまのよび声を聞き、本願の仰せのままにその招きにしたがうものは、凡夫でありつづけながらも、必ず浄土に往生し、成仏することができるのです。」
 (『「拝読 浄土真宗のみ教え」 布教読本』)
 
 世の姿をよくよく眺めてみますと、人間の境界は、実に はかない命なのかも知れません。
 しかし、雨上がりの、草の葉の露にも、月の光が、貫き、宿っているように、 はかない私たちの命にも、仏さまは南無阿弥陀仏の六字になって、 私の命に対して、呼び続け、仏様の光が、迷いの 煩悩ぼんのうの心の中にも、宿って下さり、決して消えないことは有難い事です。

 天上の月が地上の泥水に、その影を宿す。
 「わずかなる 庭の小草の白露を 求めて宿る 秋の夜の月」
  (西行法師)
 私と仏様との、通いの姿が「お念仏」
 私の胸の中に、貫いて下さる、宿って下さる。
 私の命の中に、永遠に通うことの出来るものが恵まれる。
 仏様と私との、こころの交流が、「信心」です。
 それは、仏様の、御働きによって起こっている。
 それを「如来よりたまわりたる信心」と言います。
 
 古人は歌に詠まれています。
 「むさし野の ちりじり草の 露までも
  身を ほそめてぞ 月は やどれる」
 広大な天上の月は、かほそい草葉の露にも、その全体を映して、キラキラと輝いている。
 無辺の仏徳は、念仏の信心となって、この身に宿りたもう。

 ある先生が言われました。
 「親鸞聖人は、深い懺悔の心で、今まで仏様にどれだけご苦労、ご心配をおかけしたか分からないと懺悔されている。
 親鸞聖人には、深い懺悔の心がある。」と。

 「動きなき 仏のこころ仰ぎなば 動き通しの わが心見る」      
   称名
 
 
 
 『ご清聴頂きまして、有り難うございました。 称名』


 ☆☆法語☆☆      
                                                 
                                    
 
*「万事について、善きことを、    
思ひつくるは御恩なり。 
悪しきことだに、思ひ捨てたるは   
御恩なり、捨つるも、取るも、 
いづれもいづれも御恩なり。」 
(「蓮如上人御一代記聞書」)   
ご恩とは、お恵みということ。  
そうすると、善きことを、  
思いつく、いいことをやろうと、 
思いつく、悪しきことだに、   
思い捨てたるは、御恩なり。   
我々のいいことというのは、  
全部、如来のご廻向だと。  
私達のやることは、どんな  
ささいな、いいことでも、如来  
のお慈悲だと、こう味わって  
います。だから、いいことが  
あったら、おかげさま。  
と考えていくのが親鸞聖人の    
ものの味わい方だと思います。  
自分のしたことにとらわれて、  
悩む凡夫の私です。仏様の  
ご恩を自分の手柄にしています。  
(先徳の法語)   


ようこそ、お聴聞下さいました。有難うございました。合掌

最後に、本願寺が作成した「拝読 浄土真宗のみ教え」の一節を味わわせて頂き終わらせて頂きます。有難うございました。

「今ここでの救い」

 念仏ねんぶつおしえに あうものは、いのちを えて はじめて すくいに あずかるのではない。 いま くるしんでいるこの わたくしに、 阿弥陀如来あみだにょらいねがいは、 はたらきかけられている。
親鸞聖人しんらんしょうにんおおせになる。
 信心しんじん さだ まるとき 往生おうじょうまた さだまるなり
 信心しんじん いただくそのときに、たしかな すくい にあずかる。 如来にょらいは、 なやくるしんでいる わたくしを、 そのまま きとめて、 けっして てる ことがない。 本願ほんがんの はたらきに あう そのときに、 煩悩ぼんのうを かかえた わたくしが、 かならほとけになる さだまる。 くるしみ なや人生じんせいも、 如来にょらい慈悲じひあうとき、 もはや、 苦悩くのう のままではない。 阿弥陀如来あみだにょらいいだかれて 人生じんせいあゆみ、 さとりの 世界せかいみちびかれて いくことになる。 まさに いま、 ここに いたり とどいている すくい、 これが 浄土真宗じょうどしんしゅうすくいである。






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